決して、もう戻りたいとは思わないあの日々。けれど、確かにあの夏、あの場所で起こった出来事は、わたしたちをわたしたちたらしめるかけがえのない過去だった。
どうしようもなく傷ついて、ひとり啜り泣いていたあの日々を思い出す。
むせ返るような草の濃い臭い。家に帰ればタバコと酒の拒絶されたような空気がわたしたちの身体を押し返すんだ。
輝かしい日々も、ヒッチコックのようなサスペンスやアガサ・クリスティのようなミステリーもない。ニーチェやフロイトだって手を挙げる始末だ。
けれど、その苦い、苦い思い出はまるでブラックコーヒーのように惹かれる匂いをして、時たまに思い返して飲みたくなってしまう。そして顔を顰めてテーブルに横に置くのさ。
どうしてだろう。戻りたくはないのに、戻れないと思うと哀しいものだ。
それを紛らわせるためか、この物語はとても、美しいものに見えるんだ。
ひとことで言うなら、静かな田舎の空気と、胸の奥を冷やすような怪異の気配が、じわじわと絡みつく物語です。
都会で夢を失いかけた記者・真那が、過去の資料をきっかけに故郷へ戻るところから物語は始まります。そこには懐かしい景色があるはずなのに、どこか現実がうまく噛み合わないような“虚しさ”が漂っていて、その静かな違和感にまず心を奪われます。
特に印象的なのは、取材対象として登場する三司祈李という少女の存在。
彼女の視点で語られる過去の夏は、眩しい青春というよりも、孤独と息苦しさの中で、音楽だけが救いになるような静かな痛みに満ちています。
そんな祈李の前に現れる、明るく距離の近い少女・澄希。
彼女との出会いは、読んでいて本当に不思議な感覚になります。温かくなりそうなのに、どこか現実味が薄くて、優しさの中に“怖さ”が混ざっているように感じてしまうのです。
そして随所に差し込まれる夢の描写――
冷たい風、闇の落下感、聞き取れない声、そして「カチッ」という音。
この作品のホラーは大きな叫び声や派手な演出ではなく、「あれ、今の何?」という違和感の積み重ねで読者を追い詰めてきます。
その静かな圧が、少しずつこの物語に深みと、その先への興味を高めていってくれます。
登場人物たちの会話も魅力的でした。軽口の中に疲れや諦めが混じっていたり、優しさが不器用にすれ違っていたりして、どの人物にも「生きてきた傷」が見えてきます。だからこそ、怪異だけではなく、人間関係の痛みとしても刺さるのだと思います。
田舎の伝承を追う物語が好きな方、青春のきらめきよりも“取り返せない過去”に惹かれる方、そして静かに心を侵食してくるホラーを求めている方には、ぜひおすすめしたい一作です。
読み終えたあと、ふと夜の風の音が怖くなる。
そして怪異がどんな形で侵蝕していくのか……
独特の余韻が残る、不思議な作品だとわたしは、感じました。
本作を読み、まず印象に残るのはその優しい筆致でしょう。
夏の涼しいそよ風に、孤独を与える雨。そういった夏の田舎町を丁寧に描写することで、とある少女の目線がまざまざと思い浮かべられます。
彼女は心に深い悲しみを宿しており、そんな彼女の心を繊細なタッチで描くことにより、物語の展開はより印象的に、より深みを増して展開していく。
そして彼女を捉える複数の眼差しはその少女時代を象徴的に照らし出してくれるのです。
登場人物一人一人の心にそっと触れるような形で、本作は「孤独」や「不幸」といった普遍的テーマに立ち向かう作品のように思われました。
また随所に散りばめられた異空間のような明晰夢の描写は空恐ろしく、まるで読者を作品の中に手招くようでした。
そういうわけですから、とても立体感のある、そしてどこか懐かしい作品だと私は考えます。
前編のラストまで読了させていただきました。情景や心情の描写がとても美しい文言で描かれています。しっとりとした繊細な文体は、作者様の持ち味ですね。特に、前編のラストシーンは読ませます。素晴らしいと感じました。
主人公の祈李の抱える“闇”と、それを知っている周囲の人々の複雑な感情がリアルで、“愛”と“哀”、“憎”がなんとも言えないバランスで共存しています。この感覚はかなり独特だと思います。
ストーリーは、真っ直ぐではなく、ゆっくりじわじわと円を描くように進んでいきます。
全体的に、どこからか不安や哀しみが滲み出てくるようで、思わず読み進めるのを躊躇ってしまうような、そんな雰囲気があります。
怖いけど、前に進まずにはいられない。
そんな肝試しの好きな読者にはぶっ刺さるでしょう。
少し読みにくいなと感じたところも書いておきます。
登場人物に女性が多く、基本的に一人称での進行で、度々語り手が変化するため、誰が話しているのかわからなくなるシーンが多々あります。私はそこで少し迷ってしまったので、話者の切り替わるタイミングがわずかにわかりやすくなると、さらに読みやすくなるように感じました。
このあたりが少しだけ整理されると、同じように雰囲気を楽しみつつ、より多くの読み手がストレスなく最新話まで辿り着きやすくなるのではないかと思います。
上記を踏まえ、★2つとさせていただきました。
後編は、読むのに勇気が必要なので、メンタルが万全のときにまた読ませていただきます。
読み応えのある作品と出会わせていただき、ありがとうございます。