『紅い糸の鬼嫁』エピローグ

桜散る頃に

春の陽だまりが縁側に踊る午後、新しい命の産声が橘家に響いた。蓮太郎は震える手で小さな命を抱き上げ、その瞬間、世界が変わったことを感じた。


「美しい……」


朱音の疲れた顔に、母としての輝きが宿っていた。鬼族の血を引く彼女でさえ、出産の痛みには人間と変わらぬ苦しみを味わったが、今はただ安らかな微笑みを浮かべている。


「蓮太郎さま、本当に……私たちの子が」


千代子が涙ぐみながら赤子を見つめていた。美里も隣で目を潤ませている。この家に初めて新しい命が宿った瞬間だった。


そのとき、空気が微かに震えた。


「おや、これは……」


朱雀の声が響いた。鬼族の長老は、いつもより優しい表情で現れた。その瞳には、深い慈愛が宿っている。


「お兄様……」朱音が驚いた声を上げる。


「久々に、このような喜ばしい知らせを聞いた。鬼族と人間の間に生まれた子……まさに新たな世界の始まりじゃ」


朱雀は赤子を見つめ、その小さな手に触れた。すると、赤子の額に薄く金色の光が浮かんだ。


「この子の名は『琥珀』。こはく、と呼ぶがよい。琥珀は時を超えて美しきものを封じ込める宝石。この子もまた、二つの世界の美しきものを受け継いでいる」


朱雀の言葉に、一同は深く頭を下げた。鬼族の長老による命名は、この子が特別な存在であることを意味していた。


「琥珀……」蓮太郎が名前を呟くと、赤子は静かに微笑んだような気がした。


黄昏の中で

琥珀が三歳になった秋の夕暮れ、千代子は静かに床に伏せていた。長い間橘家を支えてきた彼女の身体は、もう限界を迎えていた。


「朱音……」


千代子は枕元に座る朱音の手を取った。その手は温かく、力強い。


「はい、お義祖母様」


「ありがとう……本当に、ありがとう」


千代子の声は細いが、心からの感謝に満ちていた。


「お義祖母様……」


「おまえが来てくれたおかげで、この家に本当の温かさが戻った。蓮太郎も、こんなに立派な除霊師になって……そして、琥珀のあの子の顔も見ることができた」


千代子の目に、穏やかな光が宿っていた。


「蓮太郎のことを……頼む。あの子は優しすぎる。おまえがいてくれるから、安心して旅立てる」


「お義祖母様……」朱音の声が震えた。


「そして、琥珀……あの子の顔が見れて、本当に満足じゃ。ひ孫の笑顔ほど美しいものはない……」


千代子は微笑んだ。その笑顔は、長い人生への満足と、家族への愛に満ちていた。


夕陽が部屋を優しく染める中、千代子は静かに息を引き取った。


そのとき、琥珀だけが見えた光景があった。


千代子の枕元から、淡い金色の光がゆっくりと立ち上がっていく。それは螺旋を描きながら天井へと昇り、やがて無数の桜の花びらに変わった。花びらは琥珀の前でひと時舞い踊り、慈愛に満ちた千代子の姿を一瞬だけ映し出した。


「ばーば……」


琥珀が小さな手を伸ばすと、花びらは優しく頬を撫でて、窓の向こうへと消えていった。


蓮太郎も朱音も、そして美里も、ただ静かに千代子の顔を見つめていた。誰も、琥珀だけが見た美しい別れの光景を知ることはなかった。


永遠の一瞬

それから数十年の月日が流れた。


琥珀は成長し、父の跡を継ぐ優秀な除霊師となっていた。その霊感は他の追随を許さず、まさに朱雀の名付けに恥じない力を持っていた。


蓮太郎は老いた。白髪が増え、皺が深くなったが、その瞳には変わらぬ優しさが宿っていた。一方、朱音は鬼族の血のため、出会った頃と変わらぬ美しい姿を保っていた。


春の午後、蓮太郎は縁側で朱音の膝に頭を預けていた。桜が散り始めている庭を、二人で静かに眺めていた。


「朱音……」


蓮太郎の声は弱々しかったが、愛情に満ちていた。


「はい、蓮太郎さま」


「君と出会えて……本当に良かった。契約結婚だったあの日から、君は僕の人生を変えてくれた」


朱音の目に涙が溢れた。


「蓮太郎さま……」


「君がいてくれたから、僕は本当の愛を知ることができた。琥珀も、こんなに素晴らしい子に育って……」


蓮太郎は朱音を見上げた。その瞳は、かつてない深い愛情を湛えていた。


「朱音……愛している」


それが、蓮太郎の最期の言葉だった。


静寂の中、朱音は蓮太郎の穏やかな顔を見つめていた。やがて、彼女の唇から言葉が漏れた。


「私も……愛している」


その声は、散りゆく桜の花びらと共に、春の風に溶けていった。


蓮太郎にその言葉が届いたのか、それとも彼がすでに旅立った後だったのか、それは誰にも分からない。


ただ、蓮太郎の顔には、安らかな微笑みが浮かんでいた。


まるで、最期の一瞬に朱音の愛を感じ取ったかのように。


桜散る庭で、二人の愛は静かに永遠となった。


紅い糸で結ばれた運命は、死をも超えて、いつまでも続いていくのだろう。


【終】

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『紅い糸の鬼嫁』 トムさんとナナ @TomAndNana

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