第3話 笑うかかしと黒い影

斉藤朱音(さいとう あかね)は、クラスの太陽だった。

いつも明るい色の服を着て、誰にでも「おはよう!」と元気にあいさつをする。ふわふわした髪につけた、虹色のヘアピンがトレードマーク。先生のお手伝いも進んでやるし、困っている子がいたら一番に駆けつける。朱音の周りには、いつも笑い声があふれていた。


――でも、それは、朱音が自分で作り上げた「かかし」の姿だった。


かかしは、田んぼの真ん中で、いつも笑っている。雨の日も、風の日も。カラスに突つかれても、ただ笑っている。そうすれば、カラスはそのうち飽きてどこかへ行ってしまうから。

「あ、朱音の教科書、またないじゃん」

「ほんとだー。どっか行っちゃったんじゃない?」

休み時間、数人の女子がクスクスと笑いながら、朱音の机を囲んでいた。朱音は、心臓がきゅっと縮むのを感じながら、精一杯、口の端を上げてみせた。

「もう、やめてよー。どこに隠したの?」

「さあ? 知らないなあ」

作り笑顔でそう言うと、相手はつまらなそうに顔を見合わせ、やがて教科書をロッカーの隅から放り投げた。表紙には、マジックで「バカ」と書かれている。

胸の奥が、氷水を流し込まれたみたいに冷たくなる。でも、朱音は笑った。

「あはは、ひどいなあ。もう、落書きしちゃダメだよ?」

「心が広ーい、朱音ちゃんは」

女子たちは、またクスクス笑いながら去っていく。

大丈夫。わたしは平気。こうやって笑っていれば、物事は大きくならない。波風を立てなければ、みんなと「仲良く」していられる。朱音は、自分にそう何度も言い聞かせた。涙も、怒りも、全部笑顔の仮面の下に隠してしまえば、痛みなんて感じなくなるはずだった。


その日の放課後、事件は起きた。

朱音がクラスのみんなと育てていた、中庭の花壇。色とりどりの花が、無残に踏み荒らされていたのだ。虹色だった世界が、めちゃくちゃな茶色になっていた。

犯人はすぐに分かった。例の女子たちが、少し離れた場所で、勝ち誇ったように笑っている。

「あーあ、誰がやったんだろうね?」

朱音は、唇を噛んだ。血の味がする。でも、声は震えなかった。いつものように、完璧な「かかし」として、笑って言った。

「……大丈夫だよ。また、みんなで植え直そう?」

どうして、わたしは笑っているんだろう。

心の中で、何かがプツリと切れる音がした。涙は出ない。怒りも湧かない。ただ、心が空っぽになって、自分が自分じゃないみたいだった。

気づけば、足は北階段へ向かっていた。固く閉ざされたはずの扉。その表面には、まるで引きつった笑顔みたいな、歪んだキツネの模様が浮かび上がっていた。


「あら、威勢(いせい)のいいお客さんだこと」

屋上にたどり着くと、キツネ面のあやかし――コンは、少し意外そうな顔で朱音を見た。

朱音は、いつもの癖で、にっこりと完璧な笑顔を向けた。

「こんにちは! あなたが噂のキツネさん? わたし、斉藤朱音です。よろしくね!」

自分でも、何を言っているのか分からなかった。でも、こうするしかなかったのだ。笑顔以外の、人との接し方を、もう忘れてしまったから。


コンは、目の前の少女に、これまで見てきた迷子たちとはまったく違う、異様なものを感じ取っていた。

他の子たちは、悲しみや苦しみを隠しきれずに、魂が雨に濡れていた。だが、この子は違う。完璧な笑顔の仮面で、魂そのものを凍りつかせている。感情に蓋をしすぎたせいで、自分の心がどこにあるのか、自分でも分からなくなっているのだ。

コンは、トン、と自分のキツネ面を指で軽く叩いた。

「仮面をつけてるのは、お前も同じだな」

「え……?」

朱音の笑顔が、ぴくりと揺れた。

「そのヘラヘラした笑顔、いつまでつけてるつもりだ?」

コンの言葉は、氷の矢のように鋭かった。

「そんなの、ただのかかしだぜ。鳥も逃げない、役立たずのかかしだ」

「ひどい……!」

思わず叫んでいた。笑顔じゃない、本当の声だった。

「わたしは、ただ、みんなと仲良くしたいだけなのに……!」

「仲良くしたいやつが、花壇を踏み荒らされて笑ってるのか? 教科書をゴミみたいに扱われてニコニコしてるのか?」

コンは、フェンスから飛び降りると、朱音の目の前に立った。面の奥の暗闇が、朱音の心の奥底を射抜く。

「それは『仲良し』じゃない。お前が、あいつらのサンドバッグになることで成り立ってる、ただの『ごっこ遊び』だろ」

「……っ」

言葉に詰まる。痛いところを、容赦なく抉ってくる。

「一度でいい。怒ってみろ」

コンは、静かに、しかし力強く言った。

「心の底から、腹を立ててみろ。嫌なことには『嫌だ』と叫んでみろ。そうしないと、お前の心は、本当に空っぽのまま腐っちまうぞ」


『怒る』……?

その夜、朱音は自分の部屋のベッドの上で、コンの言葉を何度も繰り返した。

怒り方なんて、もう忘れてしまった。怒ったら、もっと嫌われる。もっとひどいことをされる。それが怖くて、ずっと笑ってきたのに。

その時だった。

部屋の隅の、カーテンが落ちる影。それが、ゆらり、と人の形のように揺れた。

「うそ……」

それは、煙みたいに曖昧な、真っ黒な人影だった。でも、そこから聞こえてきた声は、蜂蜜みたいに甘く、優しい響きを持っていた。

《かわいそうに、朱音ちゃん。誰も君の本当の痛みに気づいてはくれないんだね》

黒い影――カゲロウは、そっと朱音に寄り添うように囁いた。

《君はなにも悪くない。悪いのは、君を傷つけるあの子たちだ。だから、君は怒らなくていいんだよ。今まで通り、優しく笑っていればいい》

カゲロウの言葉は、朱音の心を優しく溶かすようだった。そうだよ、わたしは悪くない。

《面倒なことは、僕が代わりにやってあげる》

カゲロウは、ふふ、と笑った。

《君をいじめる、あの子たち。明日から学校に来られなくなったら、君は平和になると思わないかい?》

その誘惑は、あまりにも魅力的だった。いじめる子がいなくなる? もう、笑わなくて済む? 朱音の心は、大きく揺れた。

《どうしたい? 僕が、あの子たちを消してあげようか?》


一瞬、想像してしまった。静かになった教室。もう、誰もわたしを傷つけない。

でも、その時、コンの言葉が雷のように頭に響いた。

『――怒ってみろ』

カゲロウに消してもらうのは、楽だ。でも、それは、わたしの「怒り」から逃げることだ。わたしの心を、この黒い影に丸投げしてしまうことだ。

それは、コンが言った「空っぽになる」ことと、同じじゃないか。

「……いやっ!」

朱音の喉から、かすれた叫びが飛び出した。それは、生まれて初めて、自分の意思で絞り出した「拒絶」の言葉だった。

「いやだ……!」

朱音は、カゲロウをまっすぐ睨みつけた。もう、作り笑顔はどこにもない。

「あの子たちがやったことは、絶対に許せない! でも……だからって、消えていいなんて、絶対に思わない! わたしの問題は……わたしが、ちゃんと怒らなかったことだから!」

それは、紛れもない「怒り」の感情だった。カゲロウに向けた怒り。そして、ずっと笑ってごまかしてきた、弱い自分自身への、魂からの怒りだった。

その感情が生まれた瞬間、朱音の体から、まぶしい光が放たれる。カゲロウは「チッ」と舌打ちするように、その光に怯んだ。

《……そう。残念だよ、朱音ちゃん。君は、もっと賢い子だと思ったのに》

カゲロウは、囁きを残すと、すうっと部屋の影の中に溶けるように消えていった。


次の日、朱音は、いじめてくる女子たちの前に立った。まだ足は震える。でも、もう笑わなかった。

虹色のヘアピンを外し、まっすぐに相手の目を見る。

「昨日、わたしの花壇の花を踏んだでしょ。それから、教科書の落書きも。今すぐ謝って。謝らないなら、先生に全部言う。すごく、嫌だから」

低く、はっきりとした声。それは、朱音が初めて見せた「怒り」の表情だった。

相手は、見たことのない朱音の姿に一瞬怯(ひる)み、やがてバツの悪そうな顔で、小さな声で「……ごめん」と呟いた。

これで、すべてが解決したわけじゃないかもしれない。でも、朱音は、確かに自分の足で、大きな一歩を踏み出したのだ。空っぽだった心に、じんわりと熱いものが戻ってくるのを感じた。

わたしはもう、「笑うかかし」じゃない。


その様子を、屋上から感じ取っていたコンは、フン、と鼻を鳴らした。

「少しはマシな顔つきになったじゃねぇか」

だが、その表情はすぐに険しくなる。コンの肌が、あの忌まわしい同族の気配を、確かに捉えていたからだ。

「……カゲロウのやつめ。とうとう、この学校にまで来やがったか」

面の奥で、コンの目が鋭く光る。

物語が、静かに、だが確実に動き出そうとしていた。

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