第2話 音のない音楽会
次の日の朝、結衣(ゆい)は、教室の自分の席で一冊の本を読んでいた。
昨日、屋上のキツネ――コンに言われた通り、『誰とも話さない』と決めてみたのだ。最初は怖かった。いつもより、もっとひとりぼっちが際立ってしまうんじゃないかって。
でも、違った。
無理に周りの会話に耳をすませなくていい。無理に笑顔を作らなくていい。「ひとり」でいることを自分で選んだだけで、教室の騒がしさは、まるで映画の効果音みたいに遠くなった。わたしは、わたしの国の、静かな王様だった。休み時間に本を読んでいても、誰にも何も言われない。だって、そういう「キャラ」なんだって、みんなが勝手に納得してくれるから。
息が、昨日よりずっと楽だった。
ふと顔を上げると、窓際の席の男子と目が合った。ピアノが上手な、藤堂(とうどう)レンくんだ。彼は、なんだかすごくつらそうな顔で、窓の外を眺めていた。
◇
藤堂蓮(とうどう れん)は、鍵盤(けんばん)が怖かった。
八十八個の、白と黒の石の板。少し前まで、それは魔法の道具だった。指を置けば、どんな色の感情も、どんな形の物語も、自由自在に紡ぎだしてくれる、最高の友達。
なのに、今は違う。
ピアノの前に座ると、心臓が氷みたいに冷たくなる。指先から血の気が引いて、誰かの声が頭の中に響き出すんだ。
――今度のコンクール、期待してるわ。
――さすがレンくん、天才だね!
――あそこの部分、ミスタッチが多いんじゃない?
褒め言葉も、厳しい意見も、全部が鎖になって体に絡みついてくる。好きで弾いていたはずのピアノは、いつの間にか、人から点数をつけられるための道具になっていた。失敗したら、みんなをがっかりさせてしまう。天才じゃなくなってしまう。
その恐怖が、レンから音を奪った。
「……もう、弾きたくない」
放課後、誰もいない音楽室。ぽつりと呟いた声は、やけに大きく響いた。目の前にあるグランドピアノが、まるで大きな口を開けて、レンを飲み込もうとしている巨大な怪物に見える。
たまらなくなって、音楽室を飛び出した。どこでもいい。どこか遠くへ逃げ出したかった。
夢中で廊下を走り、気づけば、あの「開かずの屋上」へと続く、北階段の前に立っていた。
どうして、ここへ?
考えるより先に、足が階段を駆け上がっていた。古びた鉄の扉。その表面に、レンの目には、鍵盤がぐにゃりと歪んだような、苦しそうなキツネの模様が映って見えた。
震える手でドアノブを回すと、あっさりと扉は開いた。
夕陽が目に痛い。
そして、昨日と同じ場所に、そいつはいた。
フェンスに腰かけた、キツネ面のあやかし。コン。
コンは、今日やって来た迷子を、静かに観察していた。
ピアノの匂いがする少年。だが、その匂いは、喜びではなく苦悩に満ちている。その指先は、本来なら美しいメロディを奏でるためにあるはずなのに、今は行き場のない力を持て余し、恐怖で固くこわばっている。
(才能は、時に持ち主を喰らう刃(やいば)になる)
コンは、面の下で静かに息をついた。少年の魂が、声にならない悲鳴を上げているのが聞こえる。それは、コン自身の遠い記憶にある、古い痛みを少しだけ刺激した。
「……よう。今度は、お前か」
コンが声をかけると、少年――レンは、警戒心むき出しの猫みたいに、コンを睨みつけた。
「お前が、噂のキツネ……」
「噂ねぇ。人間ってのは、噂話が好きだな」
「……別に、用なんかない」
レンは、強がるように言った。プライドが邪魔をして、助けてほしい、なんて口が裂けても言えなかった。
「ふぅん? じゃあ、なんでここに来た。何か捨てたいモンでもあるんだろ。その指とか」
コンの言葉が、ナイフみたいに胸に突き刺さった。
図星だった。この指さえなければ、ピアノなんて弾かなければ、こんなに苦しくなることはなかったのに。
ダムが決壊したように、レンの口から感情が溢れ出した。
「好きで弾いてただけなんだ! なのに、いつの間にか、みんなの期待とか、コンクールの結果とか、そんなものばっかりになった! 失敗するのが怖い……みんながっかりするのが怖いんだ! 最近じゃ、もう……自分が弾いてるピアノの音が、聞こえないんだよ!」
最後は、叫び声になっていた。言ってしまってから、ハッとして口をつぐむ。一番知られたくなかった、自分の弱さ。
しかし、コンは笑わなかった。ただ、黙ってレンの言葉を受け止めている。
コンは、黙って聞いていた。
かつて自分も、その力の使い方を間違えた。人を喜ばせるはずの力が、いつしか自分自身を縛る鎖になった。才能という光が強ければ強いほど、その影もまた、濃くなるのだ。
この子の澄んだ音を、恐怖の色で塗りつぶしたまま終わらせてはいけない。この子が今、聞くべきなのは、審査員の評価じゃない。ざわめく観客の拍手でもない。
自分自身の、心の音だ。
長い沈黙の後、コンがおもむろに口を開いた。
「ピアノの音が聞こえない、か。……じゃあ、確かめに行こうぜ」
コンに腕を引かれるまま、レンは音楽室に戻っていた。夕陽が大きな窓から差し込んで、室内の埃(ほこり)をキラキラと光らせている。まるで、時間が止まったみたいだった。
コンは、グランドピアノの蓋を、こともなげに開けた。
「さあ、弾け」
「……え?」
「おれが聞いててやる。審査員は、おれ一人だ」
コンは、そう言うと、壁に寄りかかって腕を組んだ。
「いいか? 点数もつけない。拍手もしない。ただ、聞くだけだ。だから、好きなように弾け。めちゃくちゃでもいい。途中でやめてもいい。お前が今、弾きたい音を、お前の指で鳴らせ」
たった一人の聴衆。評価されない音楽会。
レンは、吸い寄せられるようにピアノの椅子に座った。鍵盤にそっと指を置く。まだ、指先が小さく震えている。
でも、不思議と怖くなかった。コンの静かな視線が、プレッシャーではなく、まるで「大丈夫だ」と言ってくれている頑丈な壁のように感じられたから。
レンは、ゆっくりと息を吸い、鍵盤を叩いた。
ポーン、と鳴った一つの音。それは、少し震えていた。
次々と、指が動く。コンクール用の難しい曲じゃない。昔、お母さんに初めて教えてもらった、きらきら星。たどたどしくて、何度もつっかえる。
でも、弾いているうちに、忘れていた感覚が、指先にじわじわと蘇ってきた。音が生まれるって、楽しい。指が鍵盤の上を駆け回るって、気持ちいい。
いつしか、レンは楽譜を無視していた。きらきら星が、いつの間にかデタラメなメロディに変わる。激しい怒りの和音。泣きたい気持ちの悲しい旋律。そして、最後に、ほんの少しの希望みたいな、優しい光の音。
感情のままに、音が溢れて、止まらなかった。
最後の音を弾き終えた時、レンは肩で息をしていた。額から汗が流れ落ち、目の前が少しにじんでいる。頬を伝っているのが、涙だと気づいたのは、ずっと後のことだった。
ピアノを弾いて、こんなに心の底から「楽しい」と思ったのは、いつぶりだろう。
コンは、壁に寄りかかったまま、その音の嵐を全身で浴びていた。
不格好で、荒削りで、めちゃくちゃな演奏だ。だが、魂が叫ぶような、本物の音がそこにあった。重圧から解き放たれ、ただ純粋に音と戯れる少年の姿。それは、ひどくまぶしく見えた。
「――悪くない音だったぜ」
ぼそり、とコンは呟いた。それは、レンには聞こえなかったかもしれない。だが、それでよかった。
「聞こえただろ。お前のピアノの音だ」
コンの言葉に、レンは鍵盤の上に置いた自分の手を見つめた。そして、力強く、一度だけうなずいた。
帰り道、レンの足取りは、来た時とは比べものにならないくらい軽かった。まだ、発表会が怖い気持ちが、完全に消えたわけじゃない。
でも、もう大丈夫な気がした。
もしまた音が聞こえなくなったら、思い出そう。今日のこと。たった一人の聴衆のために弾いた、あのめちゃくちゃで、最高に楽しかった音楽会のことを。
翌日、学校は一つの噂で持ちきりだった。
「ねえ、聞いた? 昨日、放課後に誰もいない音楽室から、すごいピアノが聞こえてきたんだって!」
「なんか、すっげー悲しい音だったり、楽しい音だったり、とにかく感動的だったらしいよ」
その噂を、レンは廊下の隅で、少しだけ照れくさいような、誇らしいような気持ちで聞いていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、向かいの教室の窓から、クラスメイトの木下さんが、こちらを見ていた。そして、レンにだけ分かるように、小さく、こくりと微笑んだ気がした。
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