屋上のキツネは、きょうも待っている

象乃鼻

第1話 屋上のキツネと、迷子のえんぴつ

チャイムの音が、ガラス窓をふるわせる。

「また明日!」「バイバーイ!」

ランドセルを揺らしながら教室を飛び出していく声が、やけに大きく聞こえた。

わたし、木下結衣(きのした ゆい)は、誰にも気づかれないように、そっと息を止める。まるで、そうすれば本当に透明人間にでもなれるみたいに。


机の上には、まだ教科書とノートが開いたままだ。急いで片付けなくちゃいけないのは分かってる。でも、動けなかった。

「ねえ、今日のテレビ見た?」「見た見た! 超ウケるんだけど!」

教室のあちこちで、楽しそうな笑い声の輪がいくつもできている。わたしは、どの輪にも入っていない。仲間外れにされているわけじゃない。話しかけられれば答えるし、給食の準備だってちゃんとする。

でも、いつも、わたしだけが一人ぶん、余ってる。

みんなの輪郭(りんかく)はくっきりしているのに、わたしだけ、水に垂らした絵の具みたいに、にじんで、薄くなって、消えてしまいそうだった。


(早く、帰らなきゃ)

そう思うのに、足は床に根っこでも生やしたみたいに動かない。この騒がしい教室から出るのも、家に帰って一人になるのも、どっちも同じくらい、息が苦しくなる。


その時だった。

ふと、視界の隅に、古い校舎へと続く渡り廊下が見えた。その先にあるのは、誰も使わないはずの、北階段。てっぺんには、「開かずの屋上」があるって噂の。

どうしてだろう。今日、わたしは、その階段に呼ばれているような気がした。


気づいた時には、もう歩き出していた。ギシ、ギシ、と鳴る階段は、まるでクジラのお腹の中みたいに薄暗い。一段のぼるごとに、教室のざわめきが遠くなっていく。代わりに、自分の心臓の音だけが、ドクン、ドクン、と大きく響いた。


そして、一番上。

古びて、ところどころペンキがはがれた鉄の扉が、静かにたたずんでいた。

『関係者以外 立入禁止』

色あせたプレートが、こっちを見ている。鍵がかかっているはずだ。今まで、誰も開けられたことなんかない。

なのに。

なぜか、わたしには、その扉が開くことが分かった。

扉の表面に、ゆらり、と陽炎(かげろう)のようなものが浮かんでいる。それはまるで、わたしの心の中にあるモヤモヤした気持ちが形になったみたいだった。

目をこらすと、その模様が、悲しそうにうずくまるキツネの形に見えた。

『キ……ツ……ネ……』

つらい、ね。

誰かの声が、頭の中に響いた気がした。

吸い寄せられるように、ドアノブに手を伸ばす。冷たい鉄の感触。回るはずのないドアノブが、カチャリ、と信じられないくらい軽い音を立てた。


扉の向こうは、まぶしいオレンジ色の世界だった。

頬をなでる風が、教室のよどんだ空気とは全然ちがう。胸いっぱいに吸い込むと、止めていた息を、やっと吐き出せた気がした。

広々とした屋上の真ん中。夕陽を背にして、高いフェンスに少年が一人、腰かけていた。

少年、だと思った。でも、ちがう。

近づくにつれて、その姿がはっきりと見えてくる。学生服じゃない。着物のような、不思議な服。そして――顔には、白いキツネの面をつけていた。


心臓が、今度こそ口から飛び出しそうだった。ユーレイ? 妖怪?

後ずさりしようとしたわたしに、キツネ面の少年が、ゆっくりと首を向けた。


ここから先は、コンの心の中をのぞいてみよう。


――また来たか。

コンは、フェンスの上からぼんやりと世界を眺めていた。夕陽が、古い校舎も、遠くの町のビルも、すべてを等しくオレンジ色に染めている。平等で、そして残酷なまでに美しい光。

コンは、この時間が好きであり、嫌いでもあった。

世界の輪郭がにじんで、あちらとこちらが曖昧(あいまい)になる、あやかしの時間。そして、迷子たちが、この屋上にたどり着きやすい時間。

今日やって来たのは、小さな女の子だった。世界の輪郭から、ぽろりとこぼれ落ちてしまいそうな、か細い魂。その震える手には、一本の古い鉛筆が、お守りのように握られている。

(……ん?)

コンの胸の奥が、チリ、と小さな音を立てて疼(うず)いた。あの子が持っている鉛筆から、とても懐かしい、遠い昔の風の匂いがする。

だが、今は感傷(かんしょう)にひたっている場合じゃない。目の前には、怯(おび)えた迷子が一人。コンは面の下でかすかに息を吐くと、いつも通りの、ぶっきらぼうな声をかけた。

「……なんだ、お前。客か?」


結衣は、その声にビクリと体を震わせた。少年の声変わりみたいな、少し低い、不思議な響きだった。

「あ……あの……あなたは、だれ……?」

かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。

キツネ面は、なにも答えない。ただ、面の奥の暗闇が、じっとこちらを見つめている。まるで、わたしの心の中を、レントゲン写真みたいに全部見透かしているみたいだった。

やがて、キツネ面は、ふう、と大きなため息をついた。

「『居場所がない』か。まあ、よくある話だ」

「え……?」

心臓が跳ねた。どうして、わかったの? 言ってないのに。

「お前の顔に書いてある。いや、ちがうな。お前全体から、そういう匂いがプンプンする」

匂い? そんなはずない。でも、このキツネ面には、どんな嘘(うそ)も通用しない気がした。わたしは、まるで魔法を解かれたみたいに、ぽつり、ぽつりと話し始めていた。

クラスのこと。笑い声の輪のこと。自分だけがいつも余っていること。透明人間になれたら、どんなに楽だろうって思うこと。


コンは黙って聞いていた。

これまで、何十人、何百人と、同じような話を聞いてきた。だが、その痛みが、ひとつとして同じでないことも知っている。どの子も皆、自分だけの深くて暗い井戸の底で、たった一人で震えているのだ。

この子も、そうだ。ただ……。

コンは、少女が握りしめる鉛筆に、再び目をやった。

(あれは……おれがなくしたはずの、『記憶の枝』じゃないのか?)

遠い昔、大切なものを忘れないようにと、自らの記憶を削って作ったお守り。その気配が、なぜ今、こんなところにあるのか。チリチリと熱を持つ胸の奥のざわめきを、コンは面の下で押し殺した。

話すべきは、過去じゃない。目の前の迷子のことだ。


ひと通り話し終えて、わたしが黙り込むと、コンは言った。

「で、お前はどうしたいんだ? 望み通り、透明人間にでもなりたいのか?」

わたしは、こく、と小さくうなずいた。

すると、コンはキツネ面の口元をゆがめ、鼻で笑った。

「フン。つまらん願いだな」

ひどい、と思った。わたしにとっては、こんなに切実なことなのに。

「いいことを教えてやる。明日、やってみろ」

コンは、夕陽を指さしながら言った。

「――『今日は、誰とも話さない』。そう決めて、一日を過ごしてみろ」

「え……?」

意味が分からなかった。そんなことをしたら、もっとひとりぼっちになってしまう。

「ひとりぼっち。上等じゃないか」

コンは、フェンスからひらりと飛び降りた。

「いいか? 無理に誰かの輪に入ろうとするから、お前は“余り物”になるんだ。だけどな、最初から一人でいると覚悟を決めれば、お前は『ひとり』という世界の王様だ。だれにも気をつかわず、だれにも邪魔されない、お前だけの国だ。……もしかしたら、今までとは景色が違って見えるかもしれんぞ」


王様。わたしの、国。

そんなこと、考えたこともなかった。反発したい気持ちと、ほんの少し、なるほど、と思ってしまう気持ちが、心の中でぐるぐると混ざり合う。

「さあ、もう行け。夕飯に遅れるぞ」

コンは、しっしっ、と犬でも追い払うように手を振った。

わたしは、なにも言い返せないまま、踵(きびす)を返した。扉に手をかけた時、無意識に握りしめていた鉛筆に、ふと目がとまった。

それは、おじいちゃんにもらった、古くて短い鉛筆。わたしのお守り。

夕陽の最後の光が、その鉛筆を照らした、その瞬間。

木の表面に、今まで気づかなかった模様が、くっきりと浮かび上がっているのが見えた。するりとしなやかな線で描かれた、眠っているキツネの模様。

「……きれい」

思わず、つぶやいていた。


少女が去った屋上で、コンは一人、残された夕焼けを眺めていた。

あの子が握っていた『記憶の枝』。あれがここにあるということは、何かが動き出す前ぶれなのかもしれない。

胸の奥でざわめき続ける、遠い過去の気配。

コンはキツネ面にそっと手をやり、静かに目を閉じた。忘れたはずの痛みが、風になって心を吹き抜けていく。


屋上の扉を閉めると、まるで長い夢から覚めたようだった。振り返ると、鉄の扉は、何事もなかったかのように固く閉ざされている。

わたしは、手の中の鉛筆をぎゅっと握りしめた。キツネの模様は、もう見えない。でも、確かにこの手の中に、あの不思議な感触が残っている。


「ひとり、か……」


明日は、今日とは少しだけ、違う一日になるかもしれない。

そんな小さな予感を胸に、わたしは夕焼けに染まる廊下を、自分の足で歩き出した。

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