第4話 疑念の糸

 薄曇りの午後。カーテン越しにこぼれる柔らかな光が、看護部長室の机上に淡く広がっていた。


 井上はひとり、静かに椅子に腰を下ろし、指先で閉じかけた書類の端をなぞっている。


 男子更衣室での窃盗事件から数日が過ぎたが、職員たちの間にはいまだ不安と猜疑心さいぎしんが漂い、病棟全体に見えない緊張が張り詰めていた。


 その渦中で、ひとりの名が色濃く浮かび上がってくる。


 ——山下健吾。


「なぜ……彼は弁当まで盗んだのか?」


 12万円にのぼる現金と並び、被害リストに記された“ただの弁当”。


 しかし、その存在だけが妙に印象に残っていた。


 偶然の悪戯か、それとも——


「もし……彼が生活に困っていたのなら?」

 

 仮説はゆっくりと輪郭を帯びていく。


 坂口の証言にあった『消えた弁当』


 ——それは、山下にとってその夜を凌ぐ唯一の食事だったのかもしれない。


 井上は胸の奥がじわりと絞めつけられた。


 同情は簡単には許されない。だが、自分が同じ立場だったら——知らず知らずのうちに、人として自分を彼に重ねてしまっていた。


 それでも、12万円という被害額と犯行手口からは、偶発的なものではなく、計画的な意図が透けて見えた。


 更衣室が無人になる時間を狙い、鍵のかかっていないロッカーを手際よく狙うその犯行は、病棟の構造や勤務の流れを熟知していなければ実行できないものだった。


「山下は……最初からそれを知っていて、この病院に入職したのだろうか?」


 井上はそっと机の引き出しを開け、山下健吾の履歴書を取り出した。


 紙面に並ぶ職歴は短期間の転職を繰り返し、いくつかの期間には不自然な“空白”があった。


「この空白は、一体何を意味しているのか……?」


 しかし、その理由を知ることは、もはや叶わないのかもしれない。


 山下の希薄な人間関係が、その空白の謎を一層深めていた。


 面接時に十分に精査できなかった自分の不甲斐なさを痛感しながらも、井上は自分に言い聞かせた。


「彼は、逃げるための資金を……この病院で稼ごうとしていたのかもしれない」


 生活費か、借金か、それとも過去からの逃避か。


 彼の心の内は誰にも分からない。


 山下は職場に馴染もうとせず、私生活についても語ろうとしなかった。それが、彼の姿をより見えにくくしていたのは確かだった。


 井上は資料の束から一枚のコピーを取り出した。


 それは、山下のレターケースから回収され、私物の中に紛れていた勤務表の写しだった。


 事件当日の欄に、鉛筆で小さな丸がつけられている。


 他の日には何の書き込みもない。


 さらに目を延ばすと、その日は男性職員の出勤数が明らかに少なかった。


 つまり——更衣室が無人になる可能性が高い日だったのだ。


「なるほど……」


 井上は呟いた。


 そしてさらに、ヒアリング記録を思い返す。


 ある女性看護師が、日勤終了後の夕方——およそ18時過ぎ、男子更衣室前の廊下で「誰かの背中を見た」と証言していた。


「暗くて顔は分かりませんでしたけど、痩せた体型はどこか山下さんに似ていたような……」


 病棟から離れている更衣室は、その時間帯はほぼ無人になる。


 ロッカーの施錠状況、交替時間、出勤人数の少なさ——


 それらを正確に把握しての行動だったとすれば、衝動ではなく“準備された計画”であったことになる。


 そして何より、山下は事件直後から姿を消していた。


 勤務表に記された小さな印、目撃証言、無人時間帯、そして失踪。


 バラバラだった点が、輪郭を描くように一本の線としてつながっていく。


 ——山下健吾。


 ——犯人は、ほぼ間違いなく、彼だ。


 井上はゆっくりと資料を閉じた。


「彼が盗んだのは、職員たちのお金。そして……坂口さんの弁当」


「弁当は、その夜の彼の“現実”だったのかもしれない」


 孤独、飢え、焦り。


 そのすべてが、病院という特殊な環境の中で、音もなく、混沌と渦巻いていたのだろう。


 もはや、山下のことを単なる加害者として断じることはできない。だが同時に、この病院の信頼を裏切る行為を看過するわけにもいかなかった。


「彼の『もうひとつの顔』を、私は知らなければならない」


 そう自分に言い聞かせるように呟くと、井上は席を立ち、ブラインドの向こうの空を見上げた。


 冷たい灰色の雲の隙間から、わずかに光が射し込んでいる。


 ——だがその翌日、“彼の本当の顔”が思いがけないかたちで明らかになることなど、井上はまだ知る由もなかった。


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