第5話 偽りの真実(前編)
心地よい風がセミの声をつれて、看護部長室の窓をやさしく揺らしていた。
井上は、机に広げたヒアリングメモを片手に取り、思考を巡らせる。
男子更衣室で発覚した窃盗事件。
それを機に、ある一人の職員の名が、疑惑の中心へと浮上してきた。
——山下健吾。
物静かで、仕事ぶりも申し分ない。周囲と揉めごとを起こすこともなく、誠実で好印象な人物として評価されていた。
だからこそ、井上の胸に残る違和感は、ぬぐいきれなかった。
——なぜ彼が疑われるのか。
信じたいはずの自分が、いま彼を疑っている。その事実が自分を裏切っているようで怖かった。
答えを求めるように、メモに記された証言の数々に再び目を落とす。
証言:1
「病棟の休憩時間には、よく姿を消していました。最初は気にも留めていなかったけど、そういえば誰も彼が食事をしている姿を見たことがないんですよね」
休憩時間、他の職員が昼食を広げる中、山下は必ず姿を消していた。そして誰一人、彼が何かを口にしているところを見た者はいなかったのだ。
証言:2
「勤務が終わった後にシャワー室を使い、自分の服も洗っているのを何度も見かけました」
まるで、病院を生活の場にしているような行動。それが一時的なものなのか、それとも恒常的な生活スタイルなのか、誰にも分からなかった。
証言:3
「そういえば、山下さん。車は絶対に中を見せないんですよ。古びた青いワゴンで、いつも駐車場の一番遠くの誰の目にも付きにくい場所に停めてて、窓には銀色の断熱シートや遮光シートがかけられているんです」
そう話したのは、西村だった。
さらに、西村はある日、車に乗ろうとする山下の姿を目撃した。
車内には積まれた衣類、調理器具、折りたたみ式のガスコンロまであったという。
「……まさか、車で寝泊まりを!」
思わず声を漏らした。
他の職員が冗談交じりに「車の中、見せてよ」と言った時、山下は目をそらし、強く拒んだという。
そこにあったのは照れではない。——何か切実な事情を隠そうとする意思だったと思われる。
井上は胸のざわつきを抑えつつ、彼の過去を探ろうとした。
しかし、誰一人として彼の私生活に触れる者はいなかった。家族も出身も住まいさえも謎に包まれて、まるで名前だけが浮かんでいる存在だった。
もはや、頼れる手がかりは履歴書だけだった。
まずは記載された携帯番号に電話をかけてみる。
「もしもし、こちらは〇△病院の井上と申します。山下健吾さんのご連絡先として、お電話しました」
「はい? 山下さん……? 申し訳ありません、そのような方は存じませんが……」
何度説明しても、相手は困惑し最後まで山下を否定し続けた。
番号自体が、まったく関係のない人物のものだった。
——電話番号が違う?
——いや、そもそも……
まさか……履歴書自体が偽りだというのか?
インターネットで、履歴書に記された勤務先を一つずつ検索していく。
記載された勤務先はほぼ県外で、既に閉院している病院や存在しない事業所もあった。
背筋に冷たいものが走る。
ただ一つかろうじて特定できた一件の病院に連絡を試みたが、個人情報保護法の壁に阻まれた。
この履歴書は、ほぼすべてが虚構で構成されている……
井上は、椅子にもたれ、天井を仰いだ。
本や映画でしか見たことがないような偽造の履歴と仮の素性。
それが今、目の前の現実として突きつけられている。
頭では理解しても、心がついていかない。
信頼していた「職員の一人」が、架空の存在だったなどということを、どうすれば受け入れられるのか。
——彼はいったい、何者なのだろう。
答えを知るためには、もう一歩踏み込むしかない。
履歴書に記された最後の情報——住所。
そこに何が待っているのかは分からない。だが、確かめなければならない。
井上は立ち上がった。震える足を押さえ込むように一歩を踏み出しながら、心の中で小さく呟いた。
——あなたは……誰なの?
※ここまで読んで頂きまして、ありがとうございます。
今回は前編と後編の2本立てになります。
どうぞよろしくお願いいたします。
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