第3話 疑念と信頼の狭間

 その日の午後、少し肌寒い風が院内の中庭を吹き抜ける中、坂口は看護部長室のドアをそっと開けた。室内にはすでに数人の男性職員が座っており、表情には緊張と不安がにじんでいた。


 井上美佐看護部長は机に広げた書類に目を通しながら、ゆっくりと席に着いた。


 穏やかなはずの眼差しは、冷静ながらも、どこか沈痛な気配を帯びていた。


「男子更衣室を使用している皆さん、お集まりいただきありがとうございます」


 落ち着いた声でそう口を開いた井上だったが、その声の奥には、怒りとも失望ともつかない——複雑な感情が込められていた。


 坂口は部屋の隅に腰を下ろし、黙ったままその声に耳を傾けた。隣の西村は唇を噛みしめ、首を傾げながらペンを指の上で回していた。そして、何かを思案しているようでもあった。


 井上は手元の勤務表を開きながら、ひとりずつ視線を移していく。


「すでにご存じの通り、男子更衣室において職員の金品が盗まれる事件が発生しました。被害に遭ったのは7名、被害総額はおよそ12万円にのぼります」


 その数字が室内に響いた瞬間、部屋全体の空気が一層張り詰めた。


 思った以上の金額に、坂口は思わず息を呑んだ。しかも身近で、そんなことが起きるとは——


 男子更衣室は、これまで何の問題もなく使われてきた場所だ。職員たちが仕事の合間に集まり、雑談を交わすような空間が、突如として疑心暗鬼の渦に巻き込まれることになるとは——


 坂口はその事実に戸惑いを隠せなかった。


「これまで、男子更衣室でこのようなトラブルが起きたことは一度もありませんでした。事件当日、何か気づいたこと、少しでも変だと思ったことがあれば、どんな小さなことでも構いません。正直に話してください」


 静かに、だが強い口調でそう続ける井上に、部屋の誰もが息を殺していた。


 ——やがて、井上の視線が坂口に向けられた。


「坂口さん。その日は準夜勤の勤務に入っていましたね。何か変わったことはありませんでしたか?」


 不意の問いに、坂口は少し躊躇した。


 あの夜——ロッカーの中の弁当が忽然と消えていたことを思い出す。


 当時は自分の思い違いか、買い忘れかもしれないと流してしまった。だが、あの出来事も、いまなら無関係とは思えない。


 小さく息を整え、坂口はゆっくりと答えた。


「実は、その晩、更衣室に置いていたはずの弁当がなくなっていました。ただ当時は自分が買い忘れたのかもしれないと思い、あまり気にしませんでした」


「…………」


 一瞬の静寂が室内に広がる。


「えっ、弁当?」


 西村が肩をすくめて小声でつぶやいたあと、少し笑いながら口にする。


「おいおい、弁当だけ盗まれたのか? そりゃ物好きな泥棒だな!」


 西村の冗談に、数人が「くすっ」とつられて笑いを漏らし、その場の空気がわずかに緩んだ。


 坂口も苦笑いを浮かべつつ、まっすぐ前を見たまま言葉を続けた


「いや、本当に重要なんだよ。腹が減っては戦はできぬ、って言うだろ? 働く人間には、弁当が何よりも大事なんだ」


 その素朴な一言に、誰かが「まあ、それは確かに」と呟き、また笑いが起きた。


 ヒアリングはその後も淡々と進んでいったが、坂口の心にはあの出来事が強く残り続けていた。


 帰宅後、坂口は財布から数日前のレシートを取り出した。


 そこにはしっかりと「高菜弁当  ¥500」と印字されていた。


「やっぱり……買ってたんだ」


 あれは気のせいではなかった。間違いなく、自分の弁当は盗まれていた。


 翌日の再ヒアリングで、坂口はこのレシートを証拠として提示した。


 それを手に取った井上は一瞬目を伏せ、静かに頷いた。


「……ありがとうございます。これは、重要な情報です」


 緊張の中にも、確かな手がかりが見つかり始めたその瞬間だった。


 井上は再び勤務表に目を落とし、ふと何かに気づいたように小さく眉を寄せた。


「……山下介護助手が、事件のあとから姿が見えませんね。誰か、何か聞いてませんか?」


 その名前に、場の空気が変わる。


 室内の数人が顔を見合わせ、ざわついた視線が交錯する。


「山下さん? そういえば、最近見てない……」


「何か関係があるのかな……?」


 誰かがそう呟いたが、誰も決定的なことは口にできなかった。


 山下は、口数の少ない、どこか距離を感じる存在だった。


 そして坂口の胸の奥には、ひとつの小さな疑念が芽生えていた。


 ——あの夜、あの弁当を手にしたのは、もしかして……


 だがその想像の続きを、坂口は声に出すことができなかった


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