夜間逃飛行

泉 雪

夜間逃飛行

 人もまばらな夜のオフィスの一角で、キーボードを叩く音だけが虚しく響いていた。

 

 課で残っているのはただ1人、部下職員は皆とうに帰宅した。明日の会議資料の準備に研修原稿の作成、やることは山のようにある。夜には少々眩しい蛍光灯が膨大な手元の資料を青白く照らす。酷使した目の奥が痛んでこめかみをぎゅっと抑えた。


 しばらく目を閉じていると、にわかに壁越しに隣の課の照明が落ちる気配がした。いつの間にか時刻は22時を過ぎている。デスクに置かれたブラックのコーヒー缶は何本目になるだろう。

 

 今日は何時に帰れるだろうか。ため息は乾いた空気に溶ける。

 

 新木直人あらきなおひと、47歳。

 

 この春から「次長」という肩書きで呼ばれるようになった。いまだに耳慣れない少々重い響きだ。

 就職氷河期に必死にもがいて掴んだ内定。この会社に入って20余年、右も左も分からぬままにあくせく働いてきた。

 

 「それなり」に仕事はこなせる。

 「それなり」に人の顔色を見て空気も読み、部下のフォローもする。だからきっと「それなり」に人望もある、のだと思う。

 「それなり」というのは案外悪くない言葉だ。特別頭が回るわけでもなければ要領が良いわけでもない。若い頃は出世の早い奴を羨んだこともあったが、今ではこの自分を受け入れられるようになっている。


 しかし社内において「それなり」の人間の運命は決まっている。出世したはいいものの中間管理職の名のもとで会議に忙殺され、上司と部下の板挟みに合う日々だ。少しでも自席に戻ろうものなら、たちまち関係部署の職員やら部下やらが押し寄せてくる。分刻みのスケジュールに追われ、自分の仕事と向き合えるのはいつも、オフィスの灯りが半分ほどになってからだった。

 

「もう一踏ん張りするか……。」

 気合いを入れ直そうとしたところで、デスクに放られたスマホのバイブレーションが鈍く作動した。

 

 娘からの連絡だった。

 

『三者面談、別に来なくていいから。』

 

 そっけない一言。

 その日は会議の合間を縫って有給を取ったのだが、俺がいると邪魔になるだろうか。やはり母親の代わりにはならないのだろうか。


 20年連れ添っている妻は、乳がんの再建手術を先週無事に終えたばかりで今も大学病院に入院している。太腿の組織を移植する大掛かりな手術であったため、回復にはまだかなりの時間が必要になるそうだ。

 そしてその間、彼女の趣味の家庭菜園の手入れは俺が担当している。妻の入院手続きと自身の異動の関係でしばらく畑に手をつけられていなかった5月初頭は、一面に雑草が生い茂って除草に一苦労した。彼女が戻ってきた時に幻滅はされたくない。

 丹精込めて手入れしたトマトや胡瓜が熟れた頃には、彼女は我が家に帰ってきているだろうか。

 

 高校生の娘との関係はギクシャクしていた。妻が入院している今、俺が家事を担っている状態だが、お世辞にも上手くこなせているとは言い難い。この前も皿を割ってため息をつかれたばかりだし、毎朝作る娘の弁当は不恰好としか言いようがない。元々母さん子な娘は、思春期なこともあってか、妻が入院して以降ほとんど話すことはなくなった。たまに顔を合わせても煙たがられてすぐに自室に引っ込んでしまう。

 あれもこれも上手く回らない上に、最近実家の親父が呆けてきたときた。週に一度は片道40分車を走らせて実家に顔を出し、老いた父の買い物を手伝う。


 日々の生活はそんなものだ。仕事の残業に加えて家事をこなし、妻の入院する病院に通い、週末は実家に顔を出す。あらゆる場面で頼られ責任が求められる。そういうものだ。必要とされているのは良いことだ。俺は幸せだと自分に言い聞かせる。

 

 『有給は取れたけど、父さんいなくて大丈夫か。』

 とりあえず返信をして、またため息をついた。

 

 いつから自分の時間なんて取れていないだろう。趣味の釣りだってもう何年も行けていない。

 わかっているのだ。今自分が倒れるわけにはいかない。家族を養わねばならない。頼ってくれる部下だっている。今は踏ん張らねばならない。

 

  ――――それでも正直、限界だった。

 俯いて空のコーヒー缶をきつく握る。ぐしゃりとアルミの潰れる音が響いた。

 

 ようやく顔を上げると、デスクの隅に追いやられるようにぽつんと置かれたレトロな複葉機のトイミニチュアが目に入った。娘が中学生だった頃、妻と一緒に俺の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。最近は碌に見る暇もなかったが、味があって気に入っている。


 何気なく手に取り、被った埃を払う。

 

 ポテーズ25。戦間期に活躍したフランスの代表的な多目的複葉機だ。サン=テグジュペリの「夜間飛行」に描かれたパタゴニア便の飛行機のモデルにもなっている。

 学生時代にテグジュペリを読んで、郵便飛行にロマンと憧れを抱き、バイト代で1/72スケールのキットを買って夢中になって作成した。きっと今では実家で埃を被って眠っていることだろう。


 ブリキのトイミニチュアでは簡略化されているが、学生時代に作ったキットは細部まで詳細に再現されていた。こいつを作ったときは組み立てもさることながら塗装にかなりこだわったのを思い出す。そうだ、自分だけの愛機にしたくて一度綺麗に塗装したあとに敢えてウェザリングをかけたっけ。操縦席付近は特にこだわりを出した部分だった。そうだ、中の塗装は自分が座った時のことまでイメージしてカラーリングして……。


 手のひらのブリキの複葉機をそっと持ち上げた。そのまま書類にまみれたデスクの海上をなぞるように機体を滑らせる。流線型のシルエットにロマンのある深緑が映えて美しい。

 

 とても静かな飛行だった。誰にも知られないまま、音もなく、夕暮れの心をかすめていった。



 ・


 吹きつける強風に気がついてはっと周囲を見渡す。いつの間にか深夜のオフィスではなく日暮れのブエノス・アイレスの海上にいた。ポテーズ25の操縦桿を握り、南米の潮風を浴びて夕陽の沈む地平線に向かって愛機を滑らせている。

 プロペラの回る音以外に世界には何もなく、頬を叩く強風すら心地よい。

 

 素晴らしい解放感だった。見渡す限り、広大な海だった。仕事も家庭も、縛るものは何一つない。黒の操縦桿はぴったり手に馴染んでエンジンの振動が心臓と共鳴する。

 

 大人になるというのは、諦めることだと思っていた。自分という存在を一つ一つ諦めていく作業の連続。就職したとき、結婚したとき、子供が生まれたとき、昇進したとき。人生の節目節目でかけがえのないものを選択するとき、対価として己の大切な何かを少しずつ手放していく。そして初めて「大人」として成長するのだと。


 『――……』

 

 不意に誰かの声が聞こえた気がした。

 

 『――……オ』


 強風に紛れているが、どこかで聞き覚えのある声だ。

 

 『ナオ!』

 

 俺のことだ。俺の名前を叫んでいる。

 ナオ、懐かしい呼び名だ。ガキの頃は周囲からよくそう呼ばれていた。

 声のする方を向くと幼馴染の豊がいた。俺の横にブレゲー14を横付けして呑気に笑ってやがる。もう随分会っていないのに、昔と変わらないカラッとした笑顔で。

 

 『よお、ナオ。しけたツラしてんなあ。元気か。また会って話そうぜ、今度また、昔みたいに。』

 

 それだけ告げると豊の機体が斜めに逸れて俺から離れていく。もう行くのか豊。久々の邂逅だっていうのに相変わらずそそっかしい奴だ。

 

 離れていく旧友に、煽る強風に、負けじと俺も声を張り上げる。

 

「ああ、ちょうどお前のこと考えてたよ!もう随分会ってないな。また会おうぜ、また今度、必ず!」

 

 豊はニカッと歯を見せると親指をぐっと突き立てた。そして機体は離れてすぐに姿が見えなくなる。不思議と笑みが溢れていた。こんなに清々しい気持ちになったのはいつぶりだろう。心を洗われるような心地だった。

 

 いつの間にか夕暮れには一筆藍が混ざり、一番星が視界の端にちらついていた。移ろう空を次第に藍が支配していく。

 星と計器を頼りに続ける孤独な飛行も、終着の時が近い。

 

 ・

 


 ふと意識が現実に戻る。俺は元のデスクに腰掛けていた。しばし呆然としていたが、我に返って慌てて時計を見る。針は22時20分を指していた。15分ほど経ったのだろうか。


 不思議な飛行体験だった。さながら夜の逃避行のようだった。

 

 「大人」とは自分を捨てて初めてなれるものだと思っていた。ロマンも憧れも焦燥も、自分とともに育った宝物たち全てを。

 

 そんな必要など初めからなかったのだ。捨てることなんてできやしないのだ。全て己の大切な一部なのだから。

 だから胸の奥に大事にしまっておいて、時折取り出しては埃を払って眺めるのだ。若かりし日々の輝きを。

 

 今週もきっと休まる暇もないほど忙しいだろう。趣味の釣りには当分行けそうにもないけれど、不思議と体は軽くなっていた。

 久しぶりに豊に声を掛けようか。昔みたいにくだらない話をしたい。あいつの声を聞きたい。諸々が落ち着いたら、久々に飲みにでも誘おう。

 

 ぐっと伸びをしてコーヒー缶を捨てに席を立つ。


 無人になったフロアの一角、デスクの海に浮かんだスマホが震えて通知がぱっと光った。



 『お父さん大変だから、忙しいのにごめん。でも、ありがとう。』



 

 【了】

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夜間逃飛行 泉 雪 @IZUMIYUKI

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