第5話 2人の手に音が宿る

初雪が降ったのは、放課後の帰り道だった。


遠野悠は、美術室の窓をふと見やり、白い粒が舞い落ちてくるのに気づいた。

静かに、ゆっくりと、空から降ってくる雪。

その景色はどこか、誰かの記憶の中にある絵のようだった。


「……雪、降ってきたね」


杉浦陽菜の声がして、悠は振り返る。


パーカーの上からマフラーを巻いた彼女が、スケッチブックを抱えたまま立っていた。

視聴覚室での展示が終わってからも、ふたりは時々、絵や音について話すようになった。


言葉がなくても通じるものがある、と感じる日々だった。


「外……出よっか」


陽菜のその言葉に、悠はうなずいた。


昇降口を抜け、グラウンド脇の並木道を歩く。

吐く息が白くなるたび、ふたりの足音が雪に吸い込まれていく。


並んで歩く距離は、近すぎず、でも遠くもなかった。


「もうすぐ、冬休みだね」

陽菜が呟くように言った。


「うん」


「部活、しばらくないの。家で練習もできないし、静かになるなぁ」


「……静かなの、嫌?」


「ちょっとだけ。寂しいっていうより……空っぽになりそうで」


悠はその言葉に、少し胸を突かれた。


「音がないと、陽菜さんは不安になる?」


「ううん、逆。音があると、安心できるの。……だから、誰かの音を聴くのが、好き」


言い終えてから、陽菜はふっと笑った。


「遠野くんの描く音、思い出してるよ。展示のときの絵、今も写真に撮ってスマホに入れてる」


悠は、雪に視線を落としたまま、小さくうなずいた。


心の中に、静かに積もっていくものがある。


雪のように、音もなく、けれど確かに積もる想い。


言葉にしたら壊れてしまいそうで、けれど、言わずにいたら届かない気もしていた。


ふたりの前に、小さな東屋があった。

雪除けにちょうどよく、ふたりはそこに腰を下ろす。


「……陽菜さん」


悠が、静かに名前を呼ぶ。


彼女がこちらを見る。

目が合うと、あの日のチューバの音が蘇るようだった。


あの深い森のような音。あたたかくて、やさしくて、包まれるような感覚。


「俺、たぶん……最初に君の音を聴いたときから、ずっと、気づかないふりをしてた」


陽菜は、じっと耳を澄ませるように、彼の言葉を待っていた。


「でも、文化祭のあと、君といろんな話して、練習の音聴いて……気づいた。

君の音が、俺の中で、ずっと響いてたことに」


悠は、静かに言葉を結ぶ。


「……たぶん、それが、好きってことだと思う」


陽菜は驚いたように目を瞬き、少しだけ口元を引き結んだ。

けれど、その頬は、ほんのりと赤く染まっていた。


そして、小さくうなずいた。


「……ありがとう」


それだけだった。


でも、それで充分だった。


雪が、静かに降り続けている。

街灯のオレンジが、空中の粒に溶けて、淡い光を作っていた。


ふたりの間に流れる沈黙は、気まずさではなかった。

むしろ、その沈黙にこそ、気持ちが宿っているように思えた。


やがて陽菜が、そっとマフラーを直した。


「ねえ、遠野くん」


「うん」


「今日の雪、忘れないようにして。……だって、君が、君の声で好きって言ってくれた日だから」


悠は頷き、空を見上げた。


降りしきる雪の中、音はなかった。

けれど確かに、ふたりの心の奥では、静かに旋律が流れていた。

誰にも聴こえない、小さな音楽。


ふと陽菜が、手袋を外して言った。


「……あったかくないけど、繋いでもいい?」


その言葉に、悠は自分の右手をゆっくり差し出した。


陽菜の手が触れた瞬間、冷たさよりも、鼓動の方が伝わってきた。


手を繋いだまま歩く帰り道。

その一歩ごとに、まだ知らないふたりの物語が、静かに鳴りはじめていた。

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君の音が聞こえる 槻野 智也 @tomoya_keyakino

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