第一章 第三節 拾い子の日々②
大陸の暮らしを経験している鳳迅にとって、南九州の冬は過ごしやすい。山の中腹から山頂にかけて寒さが厳しかったとしても、雪が降らないというだけでじゅうぶんだったりする。そういうわけで、鳳介の修行も平常通りだった。あれから五年、鳳介は十歳になっていた。鳳迅の「套路」は、すっかり覚えている。その先を教えてしまうと無自覚な人体兵器になってしまうため、修行はいったん止めることになっていた。
「鳳介、よいか、しっかり覚えるのだぞ。おまえが縁を結んだ、虚空蔵菩薩の真言じゃ。よいか……のうぼう(Namah) あきゃしゃ(Akashaya) きゃらばや(Karabaya) おん(Om) ありきゃ(Arikya) まりぼり(Mariboli) そわか(Svaha)……言うてみよ」
猿の群れから見出されたこともあって、言葉の遅い鳳介である。密教での結縁勧請で縁を結んだ虚空蔵菩薩の真言を、なかなか覚えられなかった。知恵をつかさどる菩薩ではあるが、鳳介の世話には手を焼いているらしい。たどたどしい言葉で、鳳介が唱えていく。
「のうぼう……あきゃしゃ……おん……そわか……」
猿の群れの中で過ごしていた鳳介は、鳳迅の体術にはずいぶんと興味があった。群れの序列は、やはり「力」である。トヨと暮らしていても、いったん狩りに出かければ群れに出くわしてしまう。拳や肘、脚の使い方が上手になれば、群れから余計なちょっかいを出されずに済む。それに比べると、真言には興味がもてなかった。意味の分からない呪文など、自分を守るための技術ではない。虚空蔵菩薩の真言「のうぼう(Namah)あきゃしゃ(Akashaya)きゃらばや(Karabaya)おん(Om)ありきゃ(Arikya)まりぼり(Mariboli)そわか(Svaha)」を「のうぼう(Namah)あきゃしゃ(Akashaya)おん(Om)そわか(Svaha)」と縮めて覚えてしまったのもそのせいだった。野生児に人の心を目覚めさせるためとはいえ、ずいぶんいびつな教育だったともいえる。
ちなみに、真言にあるそれぞれの語句には、次のような意味がある。
①「のうぼう(Namah)」は「尊敬と礼拝」を表し、虚空蔵菩薩に帰依することを宣言している。
②「あきゃしゃ(Akashaya)」は「虚空」つまり無限の空間や広がりを表す。
③「きゃらばや(Karabaya)」は「行動や活動」を意味し、虚空蔵菩薩が人々を救う活動を象徴している。
④「おん(Om)」は「宇宙の根本的な音」で、すべての真言の基盤となる神聖な響きである。
⑤「ありきゃ(Arikya)」は「知恵や光」を意味し、暗闇を照らし出す力を示している。
⑥「まりぼり(Mariboli)」は「慈悲の心」を指し、人々に寄り添う菩薩の本質を表している。
⑦「そわか(Svaha)」は締めくくりに用いられる祝福の言葉で、「願いが成就しますように」という意味だ。
この真言は、サンスクリット語の音韻を日本語に訳したもので、発音そのものに特別な力があるという。完全に唱えれば、この音韻が宇宙のエネルギーと共鳴し、祈りの効果を高めると信じられていた。鳳介は、③⑤⑥に込められた菩薩の知恵や慈悲を無視して、「虚空」つまり無限の空間や広がりそのものへ礼拝していたことになる。小難しい理屈はさておき、十歳の野生児は、今日も日課の狩りに来ていた。
時は移って春三月。手頃な小石を使った印字打ちで兎二羽を仕留め、内臓を掻き出して血抜きを済ませる。掻き出した内臓は穴を掘って埋めた。そのまま帰ろうとした鳳介だったが、二頭の瓜坊を見かけてしまった。親の猪は、どこにいるか分からない。だが遭遇すれば厄介な相手であるのは確かだ。獲物の兎を近くの枝に掛け、鳳介は辺りの様子をうかがった。
背中に冷たい圧を感じたような気がしてそっと振り返る。自分を挟んで瓜坊と反対側に、母親がいた。こうなると、もう逃げられない。前足で地面を掻いて、我が子のために戦う準備は済んでいるようだ。鳳介は、太めの木を背にしながら、解体に使う小刀を逆手に持った。その瞬間、獣の匂いは間近に迫っていた。右上方に跳ぶ。木の幹を蹴って元の木の枝をつかむ。幹に激突した猪のせいで、枝もまだ揺れている。そのまま落下。鋭く息を吐きながら、小刀を首筋に突き立てた。
鳳迅の体術には、いわゆる呼吸法も含まれていたが、鳳介は見よう見まねで学び取ろうとしていた。加えて、持ち前の身体能力を生かし、木の幹を蹴りつつ立体的に動くことまで、できるようになっていた。十歳とは思えない動きである。思わぬ獲物だったが、持ち帰るには重すぎる。解体して血抜きを済ませ、背骨に沿って肩から腰の辺りの肉と、腹や腿の肉を一部切り取り、残りは埋めることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます