第1話 最期の春
あの日は、少し雨が降っていた。
朝方にぱらついたくらいで、昼過ぎにはすっかり止んでいたけど、空はまだどんよりしていた。
でも、こういう天気って、暑くなくて意外と練習にはちょうどいいのかもしれない。
「陽菜、なにボーッとしてんの?さっさと走り込み終わらせちゃお」
「えっ、あ、ごめんごめん!」
この時期の水泳部は、寒さのせいでプールが使えない。
だから私たちは、陸トレ。
陸上でのトレーニングをするのが日課だった。
陸上部と場所がかぶることもしょっちゅうで、こうして合同で一緒に練習する日も多い。
「もー、また考えごと? 陽菜ってさ、けっこうボーッとしてること多くない?」
「え、そ、そんなことないと思うけど……?」
同じ部活の友達に軽く突っ込まれて、私は曖昧に笑った。
「どうせ、蓮見くんのことでしょ?」
「——えっ、颯真?ち、違うってば!全然違うし!」
「ふーん?でもさっきからチラチラ見てたよ?しかも、なんか顔赤いしー」
「ち、違うってば!もう、やめてよ……!」
そう言いながら、私は思わず視線を泳がせた。
少し離れたところで走っている、颯真の姿が目に入る。
蓮見颯真。
私の幼馴染。
中学1年生ですでに陸上部のエース。
真面目で、努力家で、ちょっとだけ不器用で……でも、優しい。
最近は大会が近いせいか、いつもより練習に熱心だった。
そのせいで、最近は一緒に帰れる日も少ないんだけど。
部活の休憩時間。
私はベンチに腰かけて、水分補給をする。
「……あ、水筒の水、もう空だ」
仕方なく立ち上がって、外の水道へ向かう。
「……あ、颯真」
「陽菜?水汲みに来たのか?」
「う、うん」
颯真も水を汲みに来ていたらしい。
颯真は軽く笑いながら、蛇口のレバーをひねった。
私はその隣に立って、静かに水を汲む。
幼馴染だから、一緒にいるのは当たり前だった。
小さい頃から、外で遊んだり、勉強を教えてもらったり。
なんでもない日々を、ずっと一緒に過ごしてきた。
でも中学生になって、少しずつ私たちの関係は変わってきた。
周りの友達が「誰が誰を好きらしい」なんて話をするようになって、
男女でいることに、どこか照れや意識が生まれて、颯真との距離も、少しずつ遠くなった。
それが、ちょっとだけ寂しかった。
カップルって、いいなって思う。
一緒にお出かけしたり、手を繋いだり。
笑い合って、隣を歩く、そんな関係。
いつか私も誰かと。
なんて、思うようになって。
……ううん、誰かじゃなくて、颯真と。
でも、こんな気持ちを抱えてるのは、きっと私だけ。
颯真だって、私のことは嫌いじゃないと思うけど、ただの幼馴染としてしか見てないんだろうな。
それ以上の関係になれるなんて、思っていいのかな。
私だけが勝手に意識してるだけだったら。
そう思うと、踏み出すのが怖くて仕方なかった。
4月1日。
そういえば、今日はエイプリルフールだった。
もし告白に失敗しても、「なーんてね」ってごまかせる。
だったら、思い切って今……言っても。
……ううん、ダメだ。
そんなの、ずるいし、かっこ悪い。
もし伝えるなら、ちゃんと向き合って。
逃げずに、ちゃんと告白したい。
私は深呼吸をして、話題を切り出した。
「ねえ、颯真って、今度大会あるよね?」
「ああ、あるよ。でも、それは陽菜もだろ?」
颯真はさらっと返してくる。
やっぱり、こっちの気持ちなんて気づいてないのかな。
「うーん、まあ……でも、春季大会ってみんな感覚戻ってなくて、実力出しづらいから」
「たしかにそうだな。陽菜は、ちゃんと泳げそうか?」
「週末は温水プール行って練習してるけど……って、今は私の話じゃなくて!」
つい話を脱線させられて、あわてて本題に戻す。
このタイミングで言おう。
胸の奥がぎゅっとする気持ちを、今は少しだけ。
「大会、応援しに行くから」
「いいよ、毎回無理して来なくても。陽菜だって忙しいだろ?」
「私が行きたいから、行ってるの」
そう言ったあと、少し間が空いた。
「それに……」
「それに?」
「大会、終わったら……話、あるから」
その一言だけで、心臓がバクバク言っている。
口にしてから、ちょっとだけ後悔する。
でも、もう引き返せない。
「いちおう……大事な話だから。忘れないでね?」
颯真は、きょとんとした顔をして、それからふっと笑った。
「……そっか。大事な話なんだな。わかった」
一瞬の沈黙。
颯真は、少しだけ視線をそらして、それから照れくさそうに笑った。
「……実は俺もさ。大会が終わったら、話したいことがあるんだ」
「え?」
「だから――ちゃんと、見ててくれよ」
そう言って、またいつもの颯真に戻る。
それだけだった。
たった、それだけだった。
でも、それだけで胸の奥が、ぽかぽかとあたたかくなるような気がした。
「さ、練習戻ろ。みんな戻らないと心配するだろうし」
「そうだな。大会、お互い頑張ろうな」
「うん!」
颯真の言葉を聞いて、私は自然と笑っていた。
今ならなんでも頑張れそう。
そのあとは、いつも通りの練習に戻った。
走り込みのラストメニューを終えて、部活はそのまま解散に。
更衣室で制服に着替えていると、隣から声をかけられた。
「なんか陽菜、嬉しそうじゃない?なんか良いことでもあった?」
「え、別に〜」
「いやいや、その顔。絶対なんかあったでしょ?なになに?」
「だから、なんでもないってばー!」
頬が勝手にゆるんでしまうのを、止められなかった。
このままいると、また颯真のことでいじられそうだから、急いで着替えを済ませる。
更衣室を出ると、まだグラウンドには颯真の姿があった。
まだ走ってるんだ。
制服のまま少し歩いて、フェンス越しに声をかける。
「颯真、まだ練習してるの?今日は一緒に帰れる?」
颯真は一瞬こっちに目を向けて、それから駆け足で近づいてきた。
「ごめん、もう少しだけ走ってく。今日は1人で帰っててくれ」
「そんなに練習して大丈夫?身体、壊しちゃうよ?」
私が心配そうに言うと、颯真は俯いて言った。
「大丈夫。次の大会は絶対に、いい記録を出したいんだ」
「どうして?」
私が問いかけるように聞くと、颯真は少しだけ言いにくそうに口にした。
「カッコ悪いとこは、見せたくないからさ」
その一言に、心臓が小さく跳ねた。
それって、もしかして私のこと?
小さな期待が、胸の奥で膨らんでいく。
その瞬間の私は、ただ嬉しくて。
「颯真のかっこいいとこ期待してる。じゃあ、また明日!」
笑顔で手を振る。
颯真も、少し照れくさそうに手を上げて応えてくれた。
でも、このときの私はまだ知らなかった。
まさか、これが最後になるなんて。
――
颯真と別れて、部活の鞄を肩にかける。
空はさっきよりも灰色がかっていて、風も少し冷たい。
まだ雨は降っていなかったけど、雲は重たくて、もうすぐ雨が降ってきそうだった。
ぽつん、ぽつんと小さな水滴が頬に落ちる。
やっぱり、降ってきた。
「あーあ。傘、持ってきてなかった……」
仕方ない。今日はお昼から曇りだったし、まさか本当に降るなんて思ってなかった。
鞄で頭を軽く庇いながら、少し早足で歩き出す。
通りを歩く人たちは、どこか急ぎ足。
カップルが1つの傘を差して並んで歩いていた。
いつか、私も颯真と、あんな風に並んで歩いたりするのかな。
きっと、そのときは手とか繋いじゃったりして。
ふふっ、と自然と笑みがこぼれた。
たぶん、今日の私はちょっと浮かれてる。
明日も、また話せるよね。
大会のときにはきっと。
そんなふうに思いながら、私はいつもの道を歩く。
学校から家までの帰り道。
見慣れた景色と、見慣れた交差点。
信号がちょうど青に変わった。
さっきより、雨脚が強くなってる気がする。
前髪から水がぽたぽたと落ちて、頬を伝っていく。
ちょっと肌寒い。だけど、もう少しで家に着く。
帰ったら、お風呂沸かして……夜ご飯はなにかなー。
考えごとをしながら、私は交差点に足を踏み出した。
信号は、たしかに青だった。
何度も通ってきた横断歩道。
私は、いつも通りに歩き出していた。
その瞬間だった。
キィイイという耳を裂くようなブレーキ音が、静かな通りに響き渡った。
目を向けた先には、一台の車。
前の通りに停まっていたワンボックスの陰から、突然飛び出してきた。
見えなかったんだ。車の運転手も、そして私も。
道路脇にずらりと停車していた車たち。
その間から急に現れた一台に、私の視界はほんの一瞬遅れて気がついた。
運転手だって、同じだったはず。
小柄な中学生の私の姿なんて、死角に入っていたに違いない。
しかも、小雨で路面が濡れていた。
スピードは出ていなかったけれど、それでもブレーキが滑っていた。
ダメだ……身体が動かない。
そう思った瞬間、身体がふっと浮いたように感じた。
視界が、ゆっくりと傾いていく。
まるで時間だけが、誰にも気づかれずに止まりかけているような。
そんな感覚。
耳鳴りの奥で、誰かの叫び声がした。
「なにがあった!」
「誰か、救急車を――!」
でも、それらの音は、どこか遠くて、まるで水の中にいるみたいにぼんやりとしか聞こえなかった。
冷たいアスファルトの感触が、頬に伝わる。
目の前に転がった鞄。開いたファスナーの隙間から、前に颯真からもらった黄色のハンカチが少しだけはみ出していた。
それを見て、なぜか小さく笑いそうになった。
あ、やだな……私、こんなところで……
視界が霞む中、脳裏に浮かぶのは、さっきの颯真の顔だった。
あんなに勇気を出したのに。
ちゃんと伝えようと、思ったのに。
こんなことになるなら、最後にちゃんと伝えておきたかった。
……好きだよ。
口にできなかった言葉が、心の中でふわりと浮かぶ。
この言葉はもう届かない。
そのまま、静かに、まぶたが閉じた。
音も、色も、冷たさも、すべてが薄れていく。
まるで長い夢から覚めるような、そんな感覚。
次の更新予定
毎週 月曜日 20:00 予定は変更される可能性があります
わたしの先生は幼馴染 空華 @sorahana-fl
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