第30話 契りの再定義

 雪解けの道を踏みしめながら、二人は並んで歩いていた。

 春の訪れを告げる柔らかな日差しが、木々の間から降り注ぎ、彼らの行く道を優しく照らしている。

 木々の枝にはまだ白が残り、風は冷たいが、どこか柔らかい匂いが漂っていた。

 それは、雪と土、そして微かに芽吹き始めた草木の混じり合った、生命の匂いだった。

 歩みの合間、桂火がふと空を見上げ、ぽつりと呟いた。


「……そういえば『仮の夫婦』だったな」

「え――」


 何気ない調子だったが、その声には、どこか懐かしむような響きがあった。

 それは、共に過ごした仮初の日々を慈しむような、温かい響きだった。

 彼の瞳の奥には、あの雪深い山中で、互いに支え合い、絆を育んできた日々の記憶が、静かに揺らめいていた。

 宵は、少し足を止めて彼を見上げる。

 その白銀の髪が、春の淡い光を受けてきらめいた。

 ふっと口元に笑みを浮かべ、静かに答えた。


「え、えっと……今でも、仮の夫婦、ですよね?」

「でも、気持ちは違うだろう?」

「うっ…………は、はい……」


 桂火の瞳が、真っすぐ宵を映す。

 その琥珀色の瞳は、宵の言葉の真意を測るかのように、しかし温かく彼女を見つめ返した。

 彼の表情は、宵の言葉を深く受け止め、その意味を噛みしめているかのようだった。

 その視線を受け止めながら、宵は胸の奥から湧き上がる想いを、言葉にし、そして恥ずかしくなったため、顔を赤く染める。


「その……神子でも妃でもなく、誰かの都合や役目でもなく、ただ『宵』という私自身として……私は、心からあなたと結びたいと思ったから……この意志こそが、私の真実です。誰にも強要されたわけではない、私自身の魂からの願いなの、だと思います」


 自分の声が震えるのを感じる。

 だが、それは不安や迷いからくるものではなく、確信の震えだった。

 王宮での『契り』は命令でしかなかった。

 形式的な儀式に過ぎず、彼女の心は常に冷たいままだった。

 だが今、彼と歩む道は――自ら選んだ願い。

 その願いは、彼女の心を温かく満たしていた。


「……私にとっての『契り』は、誰かの命じるものではなく、私自身の心から生まれた『願い』になりました。あなたと出会って、私はそのことに気づけたのです。真の契りとは、心と心が結びつくことなのだと」


 言葉を終えると、桂火はしばし黙したまま宵を見つめ、やがて小さく頷いた。

 その頷きは言葉以上の答えだった。

 彼の瞳の奥には、宵の決意への深い理解と、それを受け入れたことへの静かな喜びが宿る。

 彼の口元には微かな、しかし確かな笑みが浮かんでいた。


「……そうか。あんたがそう思ってくれるなら、俺は何も言うことはねぇ。それが、俺にとっての全てだ」


 そして彼は、そっと宵の肩を抱き寄せる。

 その手の温もりが、凍える風をすべて遠ざけるように、心地よく広がっていく。

 それは、彼女がどれほどの孤独な旅路を歩んできたかを全て包み込み、確かな安息を与える温もり。

 宵は目を閉じ、焚き火のようなその温かさに身を委ねた。

 彼の腕の中で、彼女の心は、深い安らぎに満たされた。


「桂火さん……」


 宵が彼の名を呼ぶと、桂火はさらに彼女を強く抱きしめる。

 その腕の力が、宵の存在を、彼がどれほど大切に思っているかを物語っていた。


「ああ。もう何も心配いらねぇ。俺があんたの隣にいる。どんな困難が待ち受けていようとこの手を離すことはない。ずっと、あんたを護る」


 ふたりの契りは、もはや形式でも儀式でもない。

 心と心が重なり合う、ただそれだけの、確かな結びつき。

 それは、外界のいかなる力も、いかなる常識も、彼らの間に割り込むことのできない、絶対的な絆であった。


 ――それこそが、宵が長い旅路の果てにたどり着いた、真の祈り。


(……あたたかいなぁ)


 宵はそのように感じながら、静かに目を閉じ、温もりを感じるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

暁ノ君に嫁ぎし宵、契りを拒みし神子は二度目の祈りを結びなおす 桜塚あお華 @aohanasubaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画