void
航行できているのかどうかすら分からない未踏の闇の中で、水晶はひたすら加速を続けていた。頭の中では過去の亡霊が会話を続け、母親や、若い父親や、行方不明になった琥珀の両親や、そのほか顔も名前もしらない様々な人たちが、水晶の頭の中に直接流れ込んできた。
「……頭がおかしくなる……!」
『水晶、水晶、ねえ水晶』
幼い琥珀が水晶の首にとりついている。
『俺たちずっと一緒だよね?』
そんな記憶はない。
これは過去か。それとも今か。水晶すら忘れ去った記憶なのか。
記憶。
「……ひょっとすると、渦は――記憶なのか?」
水晶の独白に答えるように、琥珀がわらった。
『そうだよ、水晶。俺たちは記憶。……私たちは時間。流れ去った過去の集積。それらを吸い取り肥大し続ける知性体』
「……おまえ、渦か?」
『人類がそう呼ぶもの。人類がそうあらわすもの。そして、人類を観測するもの』
「観測?」
『そう、観測。膨大な知性の滓。膨大な行いの果て。地球が爆発したその瞬間に私たちは生まれた。私たちはあなたたちをつぶさに見てきた』
琥珀の甘い顔が耳元で囁く。
『だから、琥珀が水晶のことを愛しているのも知ってる』
ぞっとした。
打ち明けられた言葉の内容にではなく、その巨大で膨大な知性体にこれまで観測されていたと言う事実そのものに。
「……渦、と呼んでいいのか分からないけど。おまえ、プライバシーって知ってるか?」
『知っている。だけど、そんな物はこの愛の前には必要がないと思わない、水晶?』
「愛、愛だって?」
『だって、観測って、愛に似ていると思わない?』
琥珀の形をした渦は、その手で水晶の頬を撫でた。感触があった。
『ここは人類が
「招待?」
『私たちはあなたに、誰も到達したことのない場所に、来て欲しいと思ってる。ね、愛じゃない?』
水晶は目を伏せた。要するに、ここまで来たのは水晶が初めてということだ。この知性体は、渦は――全てを知っているのだ。
『私はあなた。あなたは私たちの一部。あなたの琥珀も私たちの一部』
琥珀の姿をとった渦は、緩やかに水晶の身体を抱きしめた。
『私たちはあなたが、琥珀を愛してることを知ってる。これでもダメ?』
「そこまで知ってるなら」
水晶はさらに踏み込んだ。加速しているのに停止している。停止しているのに進んでいる? いや、どちらでも構わない。
「俺が、どうしてここまで来たかも知ってるんだろう、渦」
『泣いてる琥珀を慰めるため?』
「違う」
『私たちの研究をして、なくしものを探そうとした彼の手伝い、とか』
「違う。わからないんだな。お前はやっぱり『記憶』で『過去』なんだ。全知全能の神じゃない」
「俺はただ、琥珀にここに来て欲しくなかった、それだけだよ。琥珀が俺の場所なんだ。俺の帰るべき場所なんだ」
琥珀の顔をした渦が、ほんの一瞬だけ、戸惑ったように瞬きをした。
いや、瞬きのように“見えた”だけだ。渦は形を持たない。意識すら曖昧な、情報と記憶の集合体だ。
『私たちはすべてを知っているのに?』
「違う。すべてじゃない。お前は『過去』しか知らない」
初めて、渦が黙った。水晶はたたみかけた。
「だから琥珀の涙も、琥珀の努力も、……俺の愛も、お前には理解できなかった」
『私たちは、記録した。記録は正しいはず』
「記録と理解は違う」
水晶は息をつくと、ゆっくりと操縦桿を握り直した。
空間はねじれ、進んでいるのか止まっているのかすら分からない。それでも、水晶は知っている。自分はこの「渦」の「虚」を突き抜けるために来たのだと。
「お前たちは、俺たちを観測してきた。地球が消えたその瞬間から」
『そう、私たちは愛してきた。あなたとあなたたちを』
「なら、見せてくれ」
『何を?』
水晶は加速を続けた。
視界がひび割れ、虚の内側が崩壊し始める。ひび割れを突き抜けたその先に――、そこに、光があった。
水晶の目に、にわかに涙が滲んだ。
それは「帰還できる」という希望ではなかった。そして「帰還できない」という絶望でもなかった。
虚の底に何があるのか。
それは、まだ地球が存在する世界だった。これが過去なのか、別の世界なのか、そこまでは水晶には理解できなかった。
「俺たちが見たいのは未来だよ」
操縦桿を手放して、無重力の中に放り出された水晶は、もう聞こえない渦の声にようやく答えを返した。
「俺がみたいのは、琥珀の未来だよ――」
そして最後の燃料をふりしぼり、ボイスメモを後方に射出した。
もし渦が情報と過去の集積なら――いつかこのメモも、琥珀の元に届くだろう。
「琥珀、元気で。愛してる」
もう帰還するだけの燃料は残されていない。
水晶はここで朽ちるだろう。
それでも。
※
その頃、調査艇のデッキでは、琥珀がじっと座標データを睨んでいた。
無限に広がる闇と、航跡を辿るための計器だけがそこにあった。水晶の乗った船は、もう観測範囲から消えて久しい。
それでも琥珀は、目を離さなかった。
警告音が短く鳴った。
気づけば、通信コンソールの受信履歴に、新しいデータがひとつ追加されていた。
琥珀は震える指で開封する。
それは、ボイスメモだった。水晶の記録した「虚」内の出来事を記録したボイスメモ。目を見開いて、それを聞く。
特に「渦」が記録と過去の集積であることは新発見だった。しかし水晶は、誰ともしれぬ誰かと、声も聞こえない誰かとひたすらに会話を繰り広げていた。相手は誰だ……そんな疑問を抱いたとき、
『俺が見たいのは、琥珀の未来だよ』
琥珀は息を忘れた。相手が誰かなんて、どうでもいいことだった。もはや、どうでもよかった。
水晶の声は、かすれていて、けれど確かに優しかった。
琥珀は震えながら、静かにヘッドセットを外した。音の消えたデッキに、わずかな鼻をすする音だけが響いた。
何度も、何度も息を飲み込み、何か言葉を絞り出そうとしたが、声は出なかった。
代わりに、ぽろり、と涙が零れた。
一粒、二粒、音もなく、膝の上に落ちる。
「……ばかだ、水晶」
掠れた声でそう呟くと、琥珀は顔を覆った。
「ばか野郎だ」
もう、水晶は戻ってこない。きっと、この艇の記録装置に残った音声データが、彼の最後の痕跡だ。
それでも、彼は未来を選んだのだ。
琥珀を、ここに残して。
喩え「虚」の向こう側に新世界があったとしても。地球が美しいままで存在していたとしても。
涙は止まらなかった。
真空の宇宙に、誰にも聞こえない嗚咽が小さく響いた。
宇宙ステーションの壁に磁石つきの靴のかかとを付けて、十七歳になる水晶は琥珀を待っていた。
「遅い、琥珀」
水晶の小さな文句に、琥珀は軽薄な笑みを向ける。
「ごめんごめん、親父殿への挨拶が長引いちゃってさ」
ひらりと降りてくる水晶を抱き留め、琥珀はその頬にくちびるを寄せる。水晶は顔をしかめたが、まんざらでもなさそうだった。
「待ってる間にホビー系の動画見終わっちゃったんだけど」
「ごめんって」
携行している補助AIの画面を開くと、スクリーンの背景に設定している母星・地球の画像の上に、突如何かが受信された。
「なにこれ」
「音声データ?」
水晶は再生ボタンを押してみる。すると――。
『琥珀、元気で、愛してる』
水晶の低い声が、大音量で響き渡った。
琥珀がひゅうと口ぶえをふく。
「なにこれ! お前マジで俺のこと好きすぎじゃん???」
「違う! 違う!これ俺じゃない、ちがっ」
水晶の言葉は琥珀のハグに塞がれた。軽やかに宙を舞うふたりの横で、スクリーンにわずかなノイズが走る。
それは、広がりゆく黒い渦の形によく似ていた。
了
バニシング 紫陽_凛 @syw_rin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます