Stardust

「琥珀」


 地球時間で七年が経った。水晶と琥珀は二十歳になった。もう充分に大人と呼べる年齢であり、ゆえにアカデミアの教育課程を終え、職業の選択を迫られていた。ステーション9を出ることも出来るし、反対に、残ることも出来た。

「なに。手短に言って」

 時間が惜しいとばかりに何か端末に打ち込んでいる琥珀の背中には、あれから一度も散髪していない長い髪の毛が垂れている。

「……職業、なんだけど」

 琥珀と話すのに緊張を伴うようになってから七年。寂しさはとっくに通り過ぎた。

「父さんと母さんと同じ、『渦』の探査員」

「そっか」

「それだけなら、もう行って」

 視線は画面の中へ、指はタイプをやめないままで、琥珀が背中で言う。

「俺、集中したいから」

「俺も探査員になることにした。お前を一人にしておきたくなくて」

 琥珀のタイプ音が一瞬止まった。水晶はその隙間に、言葉を埋め込むように続けた。

「お前の邪魔はしない。お前を助けたいと思ってる――」

「助ける?」

 変わり果てた琥珀の、落ちくぼんだ目がこちらを見る。もはや天真爛漫な、紅顔の美少年の面影はなかった。

「助けるって、どうやって?」

 言葉の選択を間違えた、と水晶は悟った。琥珀はすかさず言葉を重ねてくる。

「……気分悪い、もう行ってよ。一人にしてくれ」

「琥珀、俺は」

「俺を助けられるのは――」

 琥珀がくるりと振り向いた。その目に、怒りが滲んでいた。

「パパとママだけだよ。水晶じゃない」

 琥珀の目が伏せられる。その睫毛が震える。

「――お前に出来ることは何もない」

「……そうかな」

「そうだよ。話、終わり。行って。追い出すよ」

 タイプ音が再び鳴り出す。

 水晶はぎゅっとこぶしを握り、かつての幼なじみの顔を思い描こうとした。しかし、もう、彼は水晶の中から姿を消してしまっていた。

「まるで……父さんと話してるみたいだ」

 またタイプ音が途切れたが、水晶はそれでもきびすを返した。泣きたいが、泣けなかった。もう自分たちは子供ではない。




 この七年間の研究で「渦」はわずかに膨張しているとの観測結果が出ている。そして、「渦」はなんらかの引力を持ち、あらゆる天体を少しずつ引き寄せているのではないかという仮説も立てられていた。


「渦が物体であるならば、アイザック・ニュートンの発見は今も生きてることになる」

 と、先輩が言った。水晶は端末のウインドウを開き、万有引力の法則を調べながら、彼の言葉に耳を傾ける。

「でも、渦の持つ引力が物質が持つ万有の引力によるものなのか、このステーション9のダストシュートみたいな、虚の『向こう側』との物質の質量差によるものなのか――それはわからないけどさ」

「虚に、向こう側があるんですか」

 水晶は思わず声を上げたが、先輩は誤魔化すように笑い、「古いムービーの見過ぎかもしれない」と前置きすると、水晶の目をじっと見た。

「あるんじゃないか……と思うよ。想像するよ。想像力をかき立てられるじゃないか、あの存在は」

「根拠があるわけじゃないんですね」

「そりゃね。でも、想像は自由さ」

「想像じゃ研究はできませんよ」

「そりゃそうだ」

 

 ステーション9にある研究室では、次の探査艇投入計画が立てられていた。「虚」に接近する探査艇が一機。その探査艇との連絡中継を行う艇が一機待機する。搭乗員は多くて二名ずつだ。

 手を挙げた水晶は、「虚」に接近する探査艇に乗り込むことになった。

「水晶。あくまで観測任務であることを忘れるな。七年前の悲劇を繰り返さないために」

 上司は――父はそう言ったが、水晶の頭の中には、「虚の向こう側」という言葉がこびりついて離れなかった。ならば、琥珀の両親は「虚の向こう側」に吸い込まれて戻れなくなってしまったのではなかろうか。

 安直な想像だと理解しつつも、水晶はそれが正しいような気がしていた。


「……虚に行くのか、水晶」

 配置人事を聞いたらしい、背後に琥珀が立っていた。猫背で、身体が長くほそく、長い黒髪の、水晶の幼なじみ。水晶は振り返り、彼の顔を直視できないまま、彼の胸元あたりを見つめた。そこがちょうど水晶の視線の位置なのだった。

「接近するだけだ。帰ってくるよ」

「……なら、俺は中継機で待機してる」

「琥珀。もう人事は決まってる。研究職のお前が今更言ったって――」

「割り込んででも入ってやる、絶対に」

 琥珀、と呼び止める間もなく、彼は跳ねるように廊下を進んでいってしまった。そのまま水晶の父に直談判するに違いない。

 水晶には、琥珀の考えがもう分からない。琥珀が何を考えているのか手に取るように分かった昔のようにはもう戻れない。


 寂しさは通り過ぎた。残されるのは虚無だけだ。



「システムオールグリーン」

 水晶一人を乗せた探査艇は、射出ポッドの中でその時を待っていた。

『コントロール権を委譲します。ユーハブコントロール』

「アイハブコントロール」

 尖りきった神経がいっそう研ぎ澄まされる。女性の声が続ける。

『ハッチ開き――……、人影を確認、射出を中止します。コントロール権、こちらに戻ります』

 水晶は緊張の中から戻ってきた。脱力する。

『……誰だよ一体!』

 管制室から漏れ聞こえる罵声に心の中で同意したところで、探査艇の窓を叩かれた。こつんこつんと。水晶はそちらを見て、声を失った。


 琥珀。


 琥珀は簡易宇宙服をまとい、その中から口の形だけで水晶に何かを伝えようとしていた。目の下の隈、やつれはてた頬――けれどその目は変わらない。何一つ変わらない。

 あの日、七年前、父母を見送った琥珀の瞳と何一つ変わらない。

 くちびるの形がことばになる。

『水晶。帰ってこなかったら許さない。絶対許さない』


 水晶はぐっとくちびるを噛むと、ハンドサインで親指を立てて見せた。

「帰ってくるって言ってるだろ」

 きっと声は聞こえないだろうけど、苦笑は伝わったと思う。琥珀は長いこと見せなかった穏やかな笑みを見せて、そのまま探査艇から遠ざかっていった。

『琥珀研究員が無断でポッドに――』

『あのイカれ研究者、何しでかすかわからんな』

「……発射準備を再開しましょう。いちから」


 琥珀が見ている。水晶は頬をぴしゃりと叩くと、探査艇の操縦桿を握り直した。




 渦は黒檀の宇宙に巨大な翼を広げ、小さな探査艇に乗った水晶はあまりの巨大さに言葉を失った。

『水晶、聞こえますか。こちら中継艇。聞こえますかどうぞ』

「中継艇へ、聞こえます、どうぞ」

 地球時間にして二週間の旅路。この長い期間に、水晶は考えをまとめることにしていた。


 「渦」とはなんなのか。そして、「虚」とはなんなのか。


「渦を構成している光源は星団とは異なる。もっと細かく、もっと可変的なもの。巨大化したり縮小化したりする」

「着目すべきは光源ばかりでない、暗黒物質と仮定して論じられてきた黒い翼」

「あれはなんなのか。確かに輪郭が見えている。そして渦が肥大しているというのなら、自然あれは肥大する性質を持つものだと考えることができる」

 ボイスメモに思考の片鱗を残しながら、水晶はいつもの癖でウインドウを開こうとしたが、そもそも補助AIを携行してこなかったことに気づいた。

 ここで役に立つのは今まで詰め込んできた知識のみだ。琥珀なら、なんと考察するだろうか――。 

 ある意味自由な思索は広がりを続け、同じところを行ったり来たりしては戻り、それを繰り返した。そのありさまは全てボイスメモに記録され、中継艇に共有された。

 中継艇にいるのは、無理矢理二名の席を三名に増やした琥珀だ。琥珀と連絡を取る手段はなかったが、きっとこの小さな探査艇を見守っているに違いない。

 七年前がそうであったように。



 そうして十日ほどを数えた頃だった。

『こちら中継艇。指定ポイントに到達しました』

「こちら水晶。目標地点まであと数時間。渦表面、虚の入り口まであと115分」

『了解しました――気を、つ、』

 その時。

 通信が途切れ、計器が軒並み異常を吐いている。しかしエマージェンシーコールはなく、静かな船のなかで水晶だけがその異様さに気づいていた。

 水晶はマイクに向かって叫んだ。

「こちら水晶。中継艇、応答してください、予定より早く渦に接触したもよう。応答してください」

 窓の外は黒。黒、黒、黒――。

「……通じない!」

 水晶はすかさずボイスメモを起動した。

「計器が振れきっている。外は暗黒で光がない。通信が途絶えてから3分が経過」

 水晶は冷静に言葉を選んで実況をボイスメモに吹き込み続けた。

「ここはもう、渦の外側でも、虚の入り口でもない。俺は内側にいる」


 あるいは――先輩の言ったとおり、何らかの力によって吸い込まれたのかもしれない。「VOID」に。


「航行システムに異常。後退しているはずなのに前進しているようだ」

「だがそれ以上の異常は見受けられず。俺は生きている――」


と、その時だ。目の前にふわりと白い影がよぎった。

子供の笑い声がする。

白い影はちいさな子供の体当たりを受け止めて穏やかに笑った。その姿形――、


「母さん……?」


『おうい、水晶、水晶、しりとりしようぜ! デブリ!』

『おまえ、いっつもそれだよな。りんご』


 背後では少年たちがしりとりを始める。その声音に、やりとりに、覚えがある。


「琥珀と……俺……?」


 ふわっとめまいがした。頭の中に、「あの頃」の鮮明な記憶が押し寄せてきたからだった。忘れていたこと、忘れかけていたこと、全てが今しがた起こったことのように鮮やかに再生される。

 あのとき母は笑っていて、あのとき琥珀は、母を喪った水晶を慰めようとしていた。

「なんだ……これ……」


 記憶、としか言えないものが、水晶のなかに絶えず流れ込んでくる。それは自分の記憶であり、母の記憶であり、そして琥珀の記憶でもあった。

 時計は先ほどから止まっている。自動航行機能が停止した。そして、ハンドルを握った水晶だけが、真っ暗な虚の中に残されている。


『お前に出来ることは何もない』


 幻聴なのか、この不思議な作用のせいなのか、それともたまたま、思い出したのか。不意に琥珀の声が頭をよぎるから、水晶は操縦桿を握った。

「あるかもしれないだろ、琥珀」

 そしてエンジンを踏み込む。

「ここから先は未踏の領域だ。……絶対に持って帰ってやる」


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