エピローグ:涙の、本当の理由

あれから、季節は一度、ゆっくりとその巨大な車輪を回し、巡った。


世界を白一色に染め上げ、吐く息すらも凍りつかせたあの厳冬の記憶は、いまや遠い過去の幻影のように薄れつつある。分厚いコートの襟を立てて耐え忍んだ寒風も、肌を刺すような冷気も、今はもうない。

そして、儚くも美しい桜の花弁がアスファルトを薄桃色に染め上げ、春の嵐とともに舞い散ったあの日々もまた、瞬く間に過ぎ去っていった。


今の王葉高校のキャンパスを支配しているのは、圧倒的な質量を持って降り注ぐ、初夏の力強い日差しだ。

空は、絵の具をぶちまけたように鮮烈な群青色を湛え、そこには一点の曇りもない。太陽は天頂近くから容赦なく光の矢を放ち、地上のあらゆるものの輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。


キャンパスを囲む並木道の木々は、春先の淡い萌黄色から、深く、濃密な緑色へとその装いを変えている。

葉の一枚一枚が、太陽の光を貪欲に吸収し、生命のエネルギーを脈打たせているようだ。時折、湿り気を帯びた風が吹き抜けるたび、無数の葉が擦れ合い、さわさわ、ざわざわと、まるで生き物が呼吸をするかのような有機的な音を奏でる。その葉の隙間から漏れ落ちる木漏れ日は、地面に複雑な幾何学模様を描き出し、光の粒となってきらきらと踊っていた。


高校生活というものは、かつて中学生の自分が教室の窓から空を見上げて想像していたものとは、肌触りが少々異なっていた。

あの頃の俺が思い描いていた高校生活は、もっと洗練されていて、大人びていて、どこかドラマのワンシーンのように華やかで、常にきらきらとしたフィルターがかかっているような世界だった。


だが、現実はもっと質量があり、重く、そして手強い。

中学時代とは比較にならないほど高度化し、抽象度を増した授業内容。数学の公式は記号の羅列のように難解になり、英語の長文は果てしない迷宮のように立ちはだかる。そして、教師たちから毎日のように課される、山のような課題の束。それらは物理的な重量を持って俺の鞄を重くし、精神的な負荷となって肩にのしかかる。

朝起きて、満員電車に揺られ、授業を受け、課題をこなし、泥のように眠る。そんな毎日が、瞬きする間もないほどのスピードで過ぎ去っていく。


けれど。

俺、佐々木健太は、その息つく暇もない目まぐるしい日々を、自分でも驚くほど、心の底から楽しんでいた。

血管を流れる血液が熱くたぎるような、細胞の一つ一つが活性化しているような、そんな充実感が常に身体の奥底にあった。


***


放課後の、図書館。


王葉高校の図書館は、俺が受験勉強時代に通い詰めたあの市立図書館よりも遥かに天井が高く、広大だった。

磨き上げられた床は光を反射し、整然と並べられた書架には、背表紙の金文字が鈍く光る専門書がずらりと鎮座している。その空間には、何千、何万という知識の集積が放つ独特の圧迫感と、それらが醸し出す静謐な空気が混じり合い、ある種の神聖ささえ漂わせていた。

紙とインクの混じった乾いた匂い、そして微かに漂うワックスの香りが、俺の嗅覚を刺激し、脳を「学習モード」へと切り替える。


この場所が、今、俺と莉奈にとっての、新しい聖域――お気に入りの場所になっていた。


俺は、重厚な木製の机の上に広げた、古文の分厚い参考書と格闘していた。

視界の中心にあるのは、細かい活字で埋め尽くされたページだ。

助動詞の活用表、敬語の種類の分類、主語の省略……。

かつての、中学時代の俺であれば、この文字の羅列を見ただけで脳が拒絶反応を起こし、五秒と経たずに白旗を上げて突っ伏していただろう。意味不明な呪文にしか見えなかったはずの、複雑怪奇な文法ルール。


だが、今の俺は違っていた。

シャーペンの芯が紙の上を滑る「カリカリ」という硬質な音だけが、耳元で一定のリズムを刻んでいる。

俺は冷静に、外科医がメスを入れるような手つきで、文章の構造を分解していく。


「なるほどな……」


俺は独り言のように呟き、納得の吐息を漏らす。

脳内のシナプスが繋がり、霧が晴れるように理屈が通っていく快感。


「尊敬、謙譲、丁寧……これらは単なる暗記項目じゃない。要するに、誰を主語にして、誰に対して敬意を払っているかという、人間関係の『位置関係』を示すパズルなんだ……」


その構造が見えた瞬間、難解だった古文の文字列が、意味を持った立体的な情報の塊として立ち上がってくる感覚があった。


「すごいね、健太。もうそんなところまで分かってるの?」


その声に、俺は思考の海から現実へと引き戻された。

机の向かい側の席で、同じように参考書やノートを広げていた莉奈が、顔を上げてこちらを見ていた。

彼女の大きな瞳が、夕方の図書館の柔らかな光を受けて、琥珀色に輝いている。その表情には、純粋な驚きと、感心の色が浮かんでいた。


俺は、不意に褒められた気恥ずかしさから、指先で頬をかいた。熱がじわりと顔に広がるのを感じる。


「まあな。国語は、もはや俺の得意分野だからな」


少し胸を張って見せると、莉奈は悪戯っぽく目を細め、口元を緩めた。


「うそだあ。この間の小テスト、私の方が点数良かったくせに」


彼女の指摘は鋭く、そして正確だった。俺は言葉に詰まり、苦笑いを浮かべるしかない。


「あ、あれは……コンディションが悪かっただけだ! ヤマが外れたんだよ」


「はいはい、言い訳しない」


俺たちは顔を見合わせ、声を殺してくすくすと笑い合った。

図書館の静寂を壊さない程度の、ささやかな笑い声。その振動が、心地よく胸に響く。


目の前にいる彼女――遠藤莉奈。

かつての俺にとって、彼女は雲の上の存在であり、決して手の届かない、眩しすぎる偶像(アイドル)だった。直視することすらためらわれ、言葉を交わすなんてもってのほかだった高嶺の花。


しかし、今は違う。

隣で、同じ難問に頭を抱え、同じ発見に目を輝かせ、同じように笑い合う。

彼女は今、俺にとってのかけがえのない友人であり、共に高みを目指して切磋琢磨する、最高のライバルだった。


ふと、莉奈の手が止まった。

彼女は視線を参考書から外し、窓の外、茜色に染まり始めた空をぼんやりと見つめた後、ゆっくりと俺の方に向き直った。

その表情が、ふっと柔らかく、どこか懐かしむような色を帯びる。


「ねえ、健太」


彼女の声は、図書館の静けさに溶け込むように優しかった。


「あの夏の日、教室で、健太がみんなの前で『王葉に行く』って宣言した時のこと、覚えてる?」


その問いかけに、俺の脳裏に鮮烈な記憶がフラッシュバックする。

セミの鳴き声、じっとりとした湿気、教室の澱んだ空気、そして、クラスメイトたちの冷ややかな視線。


「忘れるわけないだろ。俺の人生が、180度変わった日だ」


俺は苦笑交じりに答えた。胃のあたりがキュッと縮こまるような、苦い感覚も蘇る。


「……まあ、人生最大の公開処刑の日でもあったけどな。あの時の恥ずかしさと言ったら、今思い出しても冷や汗が出るよ」


「ふふ」


莉奈は楽しそうに笑い、それから少し真面目な顔つきになった。


「あの時ね、私、本当にびっくりしたんだよ。『えっ、佐々木くんが?』って。クラスのみんなも笑ってたし、無謀だって思ってた。……でもね」


彼女は言葉を区切り、俺の目をじっと見つめた。


「心のどこかで、面白いなって思ってたの。あんなに堂々と、無理そうなことを言い切るなんて、すごいなって。そして、いつからか……気づけば、応援してた」


「え……?」


「市立図書館で、いつも隅っこの席で、必死に勉強してる健太の背中を見てたよ。ボロボロの参考書と睨めっこして、時には頭を抱えて、それでも逃げ出さずに戦ってる背中。それを見てたら、私も、頑張らなくちゃって、何度も何度も思ったんだよ」


「……そうだったのか?」


俺は驚きで言葉を失った。

あの孤独な戦いの日々。自分一人で暗闇の中をもがいていると思っていたあの時間に、まさか彼女が俺のことを見ていてくれたなんて。

心臓の鼓動が、トクン、と大きく跳ねた。


「うん。だから、ありがとう。健太」


莉奈は、机の上に置いた手を、きゅっと握りしめた。


「私を、この場所に連れてきてくれて」


彼女の瞳は、どんな宝石よりも澄んでいて、真っ直ぐに俺を射抜いていた。

その言葉の温かさが、じわりと胸の奥に染み渡っていく。

それは、どんな合格通知よりも、どんな賞賛の言葉よりも、俺の心を深く、優しく満たしてくれた。喉の奥が熱くなり、俺はただ無言で頷くことしかできなかった。


***


その週末。

俺は、久しぶりに、あの市立図書館を訪れた。


自動ドアが開くと同時に流れ込んでくる、古紙と埃、そして多くの人間が吐き出した二酸化炭素が混じり合ったような、あの独特の匂い。

王葉高校の洗練された図書館とは違う、どこか生活感のある、澱んだ、しかし俺にとってはたまらなく懐かしい「戦場の匂い」だ。


俺は迷うことなくカウンターへと向かった。

そこには、見慣れた姿があった。

少し猫背で、やる気のなさそうに頬杖をつき、しかしその眼鏡の奥の瞳だけは鋭く光らせている、あの人。田村さんだ。


俺が近づくと、彼は手元の本から視線を上げ、俺の顔を見た。

一瞬の間の後、彼の口元がニヤリと歪んだ。


「よう、王葉高校の兄ちゃん。……久しぶりだな。ちゃんと、やってるか?」


その声のトーンは、あの頃と全く変わらない。ぶっきらぼうで、でもどこか温かい響き。


俺はカウンターの前に立ち、大きく息を吸い込んだ。

この数ヶ月間の高校生活のこと。授業のスピードについていくのが必死なこと。それでも、新しい友達ができて、毎日が刺激的であること。そして何より、勉強という行為が、かつてのような苦痛ではなく、知的好奇心を満たす「面白い」ものだと感じ始めていること。

俺は、堰を切ったように夢中で話した。言葉が次から次へと溢れ出して止まらなかった。


田村さんは、時折「ほう」とか「へえ」とか、短い相槌を打ちながら、黙って俺の話を聞いてくれていた。その視線は、まるで出来の悪い弟の成長を見守る兄のように、優しく、そして深かった。


一通り話し終えると、俺は背筋を伸ばし、改めて深く、腰を折って頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました。田村さんがいなかったら、今の俺は、絶対にいません」


床のタイルを見つめながら、俺は言葉に力を込めた。これは、社交辞令ではない。魂からの叫びだ。


しばらくの沈黙の後、衣擦れの音がして、田村さんの気配が動いた。

顔を上げると、彼は少し照れくさそうに、ボサボサの頭を乱暴にかいていた。


「……だから、言ったろ。俺は、何もしてないって」


彼は視線を逸らし、カウンターの上の貸出カードを弄びながら言った。


「固く閉ざされたドアの前で、鍵も持ってないのに、必死で体当たりしてこじ開けようとしてる、見当違いで面白い奴がいたからな。……ドアノブの回し方を、ちょっとだけ教えてやった。それだけのことさ」


「でも、その『回し方』が、俺には分からなかったんです。田村さんが教えてくれなかったら、俺は一生、ドアの前で泣いていただけでした」


俺が食い下がると、田村さんはふっと息を吐き、窓の外へ視線をやった。

ガラスの向こうには、午後の穏やかな日差しが降り注ぐ街並みが広がっている。彼は遠くの空を見つめるような目をして、静かに口を開いた。


「受験勉強ってのはな……人生っていう、気の遠くなるほど長い旅の、ほんの小さな、最初のチュートリアルみたいなもんだ」


彼の声は低く、図書館の空気に染み渡るように響いた。


「そこで、兄ちゃんは、『学び方』っていう、一生使える最強の武器を手に入れたんだ。ただ知識を詰め込んだだけじゃない。分からないことに直面した時、どう考え、どう調べ、どう乗り越えるか。そのプロセスを体得した」


田村さんは視線を戻し、眼鏡の奥から俺を真っ直ぐに見据えた。


「その武器があれば、この先、どんな困難な壁にぶち当たっても、きっと、乗り越えていける」


そして、彼はニッと白い歯を見せて笑った。


「そのドアの先にはな、もっと、もっと、面白くて、広大で、美しい世界が、無限に広がってるぜ。これからも、存分に、冒険しな」


その言葉は、重みを持って俺の胸に突き刺さった。

それは、かつて受け取った卒業証書よりも、はるかに重く、温かく、俺の心の芯に深く刻み込まれた。


***


図書館からの帰り道。

俺は、ゆっくりと、夕暮れの道を歩いていた。


西の空が、燃えるような茜色に染まっている。

雲の縁が金色に輝き、空の青と夕焼けの赤が混じり合うグラデーションの中に、一番星がきらりと鋭い光を放ち始めていた。

頬を撫でる風は、昼間の熱気を少し残しつつも、夜の訪れを予感させる冷たさを孕んでいる。


俺は、足元の砂利を踏みしめる音を聞きながら、この一年弱の、長いようで、一瞬だった日々のことを、静かに反芻していた。


そして、ようやく、気づいたのだ。

俺が、あの泥臭く、壮絶な戦いの果てに手に入れたものの、本当の意味に。


俺が手に入れたのは、「王葉高校合格」という、一枚の紙切れや、学歴というレッテルだけではなかった。


それは、世界の「解像度」を上げる、新しい「視点」だった。

かつては「ただの風景」にしか見えなかったものが、今は理屈と構造を持って見えてくる。歴史的背景、科学的現象、文学的表現。知識というレンズを通すことで、世界はより鮮明に、より豊かに、その姿を現すようになった。


それは、複雑な物事を、感情論ではなく、冷静に分解し、その本質を捉えようとする、「技術」だった。

困難を巨大な岩の塊として見るのではなく、砕けば持ち運べる石の集まりだと知った。


それは、自分の弱さや限界を知り、それから目を背けずに受け入れた上で、今、この瞬間にできる最善を尽くすという、「強さ」だった。

天才ではない自分を認め、凡人としての戦い方を選び取る覚悟だ。


そして何より、自分一人では、決してここまで来られなかったという事実。

莉奈、田村さん、両親、先生。周りの人々に支えられ、導かれていたことに気づく、尽きることのない「感謝」の気持ちだった。


あの夏の日。

汗だくになって、偏差値の低い自分に絶望しながら、それでもペンを握りしめて始めたのは、単なる受験勉強ではなかった。


それは、どうしようもなくダメで、怠惰で、言い訳ばかりしていた「佐々木健太」という人間そのものを、根本から叩き直し、作り変えるための、長く、険しい、自分自身との戦いの旅だったのだ。


入学式の日に流した、あの涙。

講堂の天井を見上げながら、止めることができなかった熱い雫。

あの涙の、本当の理由が、今ならはっきりと分かる。


あれは、ただ合格して嬉しかっただけの涙じゃない。


過去の、惨めで、逃げてばかりいた自分への、決別の涙だ。

今日まで歯を食いしばって歩いてきた、新しい、誇れる自分への、誕生を祝う産声のような涙だ。

そして、これから始まる、無限の可能性に満ちた、輝かしい未来への、希望の涙だったのだ。


俺は立ち止まり、大きく空を見上げた。


世界は、相変わらず、そこにありふれた日常を繰り返している。

車の走行音、家路を急ぐ人々の足音、遠くで聞こえる犬の鳴き声。


だが、俺の目に映る世界は、もう、以前とは全く違っていた。


道端のアスファルトの隙間に咲く、名も知らぬ小さな花の色も、鮮烈な生命の色として目に飛び込んでくる。

風が木々の葉を揺らす音も、大気の循環という壮大なドラマの一部として聞こえる。

空をゆっくりと流れていく雲の形も、二度と同じ形にはならない芸術作品のように思える。


その全てが、奇跡のように愛おしく、そして、どうしようもなく面白く、輝いて見えた。


家に帰り、自分の部屋に入ると、俺は机に向かった。

新しいノートを取り出し、表紙を開く。

そこには、まだ何も書かれていない、真っ白なページが広がっている。

雪原のように白く、どんな色にも染まることができる、可能性の空間。


そこに、どんな目標を書き込もうか。

大学進学か、将来の夢か、それとももっと近い、定期テストの目標か。

まだ、具体的あには決めてはいない。


だが、不安はなかった。

どんな目標だって、今の俺なら、きっと、一歩ずつ、確実に辿り着けるはずだ。

壁にぶつかれば、また「ドアノブ」を探せばいい。回し方がわからなければ、学べばいい。


俺の冒険は、まだ、始まったばかりなのだから。


俺はお気に入りのペンの感触を確かめるように握りしめ、窓の外に広がる、どこまでも深く、吸い込まれそうな青い夜空に向かって、静かに、そして力強く、微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

教科書で見えてる世界が違うって、誰も教えてくれなかった。 Gaku @gaku1227

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画