第五十節 書いてはならない
その言葉は声ではなく
風にも揺れぬ沈黙のかたちだった
ただそこに在り、
記されるのを待っていた
誰も語らなかった
誰も読まなかった
それでも“それ”は
言葉になりたがっていた
筆先が震えたとき
紙の上で何かが目を覚ました
まだ書いていないのに
意味がこちらを見ていた
墨が乾くより早く
部屋が異形の気配に満たされる
その文字は常用ではなかった
言語の外に在る音の名残
「読んではならぬ」
「記してはならぬ」
そう警告された言葉ほど
筆はなぜか、それを書いてしまう
鏡に映る文は反転しない
それは“読むため”ではなく
“呼ぶため”に存在する語
名前ではなく、構造の裂け目
手が勝手に文字を綴る
意味を知らぬまま文が並ぶ
日付も筆跡も自分のもの
なのに、その文は“わたし”ではない
夜のページは閉じても動く
書かれた言葉が頁をめくる
紙を破っても消えない文
それは書かれた者でなく、
書かせた者に属するもの
家が軋みはじめる頃
壁に浮かぶ言葉の残影
誰が書いたのか?誰に向けて?
もはや筆記という儀式の成否は
意味を成すことではない
最後の一節は
空白だったはずの欄に現れた
それはわたしの名を語っていた
書いていないはずなのに
語られていた、すでに
記された者は
言葉の器となる
読む者はその“存在”を継ぐ
書かれた語が、読むことで染み込む
それでもあなたは読むだろう
禁忌の言葉が書かれていると知りながら
文が並ぶかぎり目は追う
それが、文字という檻の本性
だから、
この詩の最後の一句に
あなたの名が現れるとしても
もう止める術は、ない
名を呼んではいけない 如月幽吏 @yui903
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