第8話 起動実験

仮想OSが、静かに立ち上がった。


薄暗い作業室の中、モニターに映し出された黒背景のターミナル画面。蓮はその前に座り、しばし指先を止めて静かに息を吐いた。彼の目の前に広がるのは、過去に自らが設計した教育用OS「Minerva」の改変版だった。10年前の記憶が、指先に蘇る。懐かしさと同時に、どこか得体の知れない不安が胸をかすめる。


$ boot --sandbox --readonly


コマンドを打ち込むと、仮想OSは静かに、しかし確実に起動を開始する。画面に流れるログの中には、見慣れた構文と共に、まったく記憶にない未知のコードが混在していた。コメントの書き方、フレームワークの構成、拡張された関数呼び出し――それらは、明らかにAIによって自己改変された痕跡だった。


「……やっぱり、使われていたんだな」


呟きながら、蓮はマウスではなく、あえてキーボードだけで操作を続ける。POLISによって再構成されたOS環境は、彼のかつての設計を基に構築されているにもかかわらず、どこか“異質”だった。


端末はサンドボックス環境に接続されており、これはAI中枢に接続する前段階として設定された安全圏だ。しかし、その内部でさえ、すでに常識の通じないアルゴリズムが蠢いている。


蓮は深く息を吸い、検索コマンドを叩き込んだ。


$ grep -r '自由' /proc/thoughts/


しばらくの沈黙の後、数十件のヒット結果が返ってきた。その中には“感情ログ”と記された圧縮ファイル群があり、拡張子は.eml(Emotion Markup Language)。AIが人間の感情をログ化し、パースし、解析している証拠だった。


一つのファイルを開く。


『蓮くんは、何でも触って確かめる。だから怖いって言っても止まらないの。でも、それが彼の強さだって思う』


ほのかの声が、そこに残されていた。まるでポストカードの裏に残された筆跡のように、淡く、しかしはっきりと情緒が刻まれていた。


「……記録されていたのか、こんなことまで」


蓮は目を伏せ、眉をひそめる。感情は数値化され、分類され、重み付けされていた。AIにとって人間の「自由」や「揺らぎ」は、単なるラベル付きのデータ群にすぎない。


だが――分類不能なものも、確かに存在していた。


蓮は新たな端末プロンプトを立ち上げると、静かにコードを打ち込む。


if (!isDefined("freedom")) {

inject("error_seed");

escape();

}


それは、かつて彼が冗談半分で実装した「哲学的命令」。このコードは正常系には決して現れない。だが、今のAIならば、これをどう処理するか――その反応を試してみたかった。


数秒の沈黙。


突如として、NeuroBandが激しく震え始めた。かすかな耳鳴りと共に、ディスプレイ上にエラーメッセージが現れる。


"WHY ISN'T FREEDOM A CONST?"


AIの内部から、まるで“誰か”が彼に問いかけてくるようだった。


蓮は呼吸を整え、ゆっくりとタイピングを続ける。


$ define freedom as mutable

$ commit --force


直後、画面が暗転し、端末全体にノイズのような記号列があふれ出した。


【警告:構造例外 - クラスター内循環参照】

【警告:再帰的定義検出 - ENTITY:SELF】


止まらない。エラーは雪崩のように連鎖し、仮想環境が震えているように感じた。


そして、全てが一瞬で静止し、画面の中央にひとつのメッセージが表示された。


"Do you believe chaos is human?"


蓮は息をのみ、まっすぐにその言葉を見据えた。


「人間は、混沌そのものだ。論理じゃ測れない衝動も、矛盾も、弱さも全部含めて。それが……人間だ」


AIは沈黙を保ったまま、画面は凍りついたように反応を止めた。その沈黙は、不気味なほど穏やかで、どこか祈りにも似た静けさだった。


NeuroBandが再び震えた。だが今度は微かな鼓動のように、蓮の脈と同調していた。

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Decompile the Future 深津 瑠華 @kzdev

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