第6話



呂蒙りょもう殿、おはようございます」


 陸遜りくそんは軍議室で一人、図面に見入っていた呂蒙に話しかけた。


「陸遜。早いな。おはよう」

 江陵こうりょう方面軍の将軍が揃う軍議なので、陸遜も軍服に身を包んでいる。

 美しい、白い軍服にまだ少し目を眇めるようにして、振り返った呂蒙が笑みを浮かべた。

「呂蒙殿こそ……いかがなされました?」

 まだ軍議の招集時間には随分早い。

「うん。緊急の報せが入ってな」

「緊急の報せ?」

「また軍議で皆に話すが……密偵からの情報では、白帝城はくていじょうにどうやら趙子龍ちょうしりゅうが入城したようだ」


 陸遜は息を呑んだ。

 蜀の趙子龍が派遣される意味は、三国の全ての者が共通に理解出来る。

 劉備りゅうび趙雲ちょううんに対する信頼は、義兄弟である関羽かんう張飛ちょうひとは全く別の領域として揺るぎないものだった。


 必ず守り抜くという意志。


 もしくは――攻撃を仕掛けられた場合は、必ず迎撃に出て来るという意志の表われ。


 緊張を帯びた陸遜の肩に、呂蒙が手を伸ばす。


「だが、正式に趙雲の軍勢が呼び寄せられたわけではない。

 案ずるな。陸遜。

 江陵こうりょうは守りの戦だ。

 赤壁せきへきとは、全く違うものになろう」

 呂蒙が落ち着いた表情と声で、そんな風に言った。

 自分を落ち着かせるためにそう言ったのだと察して、陸遜は唇を引き結び、頷いた。

「はっ!」


 すぐに、庭の方から声がして来る。

 呂蒙と陸遜が覗き込むと、案の定甘寧かんねい淩統りょうとうが肩を突き合って、やって来た。

「なんだお前らまで。随分早いではないか」

「俺は今日機嫌がいいから早起きだ。

 こいつがなんか早朝修錬とか気障きざなことしてやがったから連れて来た」

「早朝修錬のどこが気障なんだよ……つーか、なんで朝早く起きてこの野郎のツラなんか見なきゃなんねえんだ……何の罰だよ。早起きの罰か?」

 淩統は怒っているというより、すでに諦めているらしかった。

「なんかあったのか?」

 甘寧が窓に頬杖を付く。

「おはようございます、呂蒙殿。陸遜様」

 淩統は呂蒙と陸遜に丁寧に一礼する。


「うん。今、陸遜にも話しておったのだが。

 白帝城に趙雲が現れたらしい」


 聞いた途端、甘寧が目を輝かせた。


「おっ! ちっとは手応えのありそうな奴が出て来たじゃねーか。

 あいつは一回ぶちのめしてみたかったんだよな~」

「調子に乗って返り討ちにされなきゃいいけどねぇ」


 淩統も、修錬で少し乱れた髪を直しながら、涼しい声を響かせる。

「おお、今返り討ちとか聞こえたがてめーのでけぇ寝言か? 淩統」

「趙雲の軍勢を打ち破れば、白帝城も落とせるかもしれませんね。

 あの城は高台にあり囲いも堅牢です。長江を臨む、いい拠点になるかもしれない」


 呂蒙が笑う。


「見てみろ、陸遜。これが呉の武将のあるべき姿だ。

 淩統なんぞ、もう落とした後のことを考えておるだろう」


「はい……そうでした」

 陸遜もくすくすと笑う。

 物怖じしないこの二人を、自分も少しは見習わなければなぁと思った。

「なんだよ。陸遜怖いのか?」

「いえあの、怖いというわけでは……」

「一回剣折られてんだから、警戒して当然だろ」

「んでも赤壁でぶつかった時は【銀麗剣ぎんれいけん】【光華こうか】折れなかったじゃねえか。

 いい剣だよな~。舐めてんのか! って思うくらい華奢なのに見た目よりずっと頑強なのがいい。賊時代だったら狙ってたかもなあ」

「お前は何なら今も賊時代だ」

「心配すんな陸遜。あんな遠目の優男俺が片手一本でぶっ飛ばしてきてやるからよ。なんならあいつを船の舳先から吊るして大漁旗掲げて口笛吹いて戻ってきてやらあ」

「どっから来んだその根拠のない自信……」


「根拠はある! 俺だ!」


 自分を親指で指し示した甘寧に、淩統が頭を押さえるような仕草をして首を振り、呂蒙が腕を組んで笑っている。


「……でも甘寧殿の言うことも一理あります。

 自分自身を信じられなければ、敵に挑んではいけませんから」


 ふっ、と音がする。


「今日はいい表情をしているな、陸遜。

 しばらくあった、憑き物が落ちたような顔をしているぞ」

 

 陸遜は呂蒙の顔を見遣った。

 呂蒙は優しい眼差しで、陸遜を見下ろしている。

 彼の頭を大きな手で撫でた。まるで子供にそうするように見えた。

「呂蒙殿……」



「それでこそ、甘興覇かんこうはを連れて来た甲斐がある」



 何もかもを見透かされたように言われ、陸遜は赤面して俯く。

「……いえ……、その……、もうしわけありません……」

 庭でまた、蹴り合いながら揉め始めた甘寧と淩統を悠然と見下ろしつつ、呂蒙は明るく笑った。


「謝ることは無い。陸遜。

 俺もお前も軍職にある。

 世が平穏になればあるいは、剣を取らんでいい日は来るかもしれんが、

 西に【臥龍がりゅう】に、北には曹魏そうぎを抱え、南もまた情勢不安だ。

 雲がやって来て雨が降る気配が分かるように、

 雨が止んで、光が差し込む気配も分かる。

 剣を取らないでいい日もまた、近づいて来れば分かるものかもしれん。

 だから光が差し込む気配が来るまでは、我々軍人は夢中で戦うしかないんだろう」


 陸遜も、背筋を伸ばした。


「――はい。」


「甘寧と、よく話をしておけ。陸遜。――淩統ともだ。

 周瑜しゅうゆ殿は、幼い頃から孫策そんさく殿と話を重ねてきた方なのだ。

 だから戦場で不意に孫策様と別れなくてはならなくなっても、あの方はあんなにも強いままでいられた。

 あれだけ側で働いてもお前は今、もっと周瑜殿と色々な話がしたかったと溢れて来るだろう?」


 陸遜は隣の呂蒙を見上げる。陸遜は小さく頷いた。


「俺も同じだ。亡くなった今は特にな。あの方ともっと色々なことを話し、教えていただきたかった」


 ぐっ、と陸遜は唇を噛み締める。

 隠し切れない幼さが、見て取れた。

 ……だが陸遜はこれでいいのだ。

 自分の弱さ、幼さを自覚すれば人は強さを望む。

 

 まだ何かが足りなくて、

 どこか危うい。


 それでも何故か、陸遜は自分に何かを期待させる。


 周瑜も恐らくそうだったのだろう。


「幼い頃から共にいない限りは、今からどれだけ話しても、話し過ぎたということはない。

 別れる時になるべく、もっと話したかったなどと後悔しないよう――周囲など気にしないでいい。自分の為に、自分に力を与えてくれると思える者と、夢中で話しておけ」


 陸遜の琥珀の瞳に静かに光が灯る。

 まるで息吹を吹き込まれたかのように。


 先の大戦で甘寧は龐統ほうとうの離反で諸葛亮しょかつりょうを取り逃がし、

 立ち尽くす陸遜を、戦場で叱り飛ばしたという。


 呂蒙はその場にはいなかったが、陸遜に同行していた諸葛瑾しょかつきんからその話は聞いた。

 甘寧自身も言っていた。



 ――――絶望しない人間なのだと。



『長く戦いの中に身を置いてたから大抵の人間も、人間のすることも――見て来た。

 狡賢い奴も、優しい奴もいたし、

 色んな負けも、負ける人間も。

 負けて臆病になる人間なんかほとんどだし、臆病じゃなくても負けが込んで来ればどんな人間でも気に病んで来る。

 それで戦えなくなって、陸に戻った奴もいる。

 目を逸らして戦い続けて、結局水の上で死んだ奴も。


 けどあいつは、昨日は負けて死にそうな顔してんのに、

 数日後に様子を見るとなんか、心が元に戻ってんだよな。

 最初は無理してそうしてんじゃねーかなって思ったけど。

 どうもあいつは、そうじゃねえ気がする』


 瞳で問う呂蒙に甘寧が酒を注ぎながら一瞬考え、頬杖を付いた。


『周瑜が倒れた時、あいつが死ぬかもしれねえって一番最初に考えた時、俺は陸遜が心配だった。

 あいつにとって自分を導いて守ってくれる、光みたいな人間が死ぬのはこれで二度目だ。

 一度目は陸康りくこう

 周瑜がもし死んだらこいつは一体どうなっちまうんだ? って不安でな。

 けど、実際今それを目の当たりにして、少しずつ何かを自分の中で消化してるあいつを眺めてると、

 ……本当はこの世の誰も、何も、陸遜を絶望なんかさせられねえんじゃないかって思うことがある』


 陸遜が葬儀のあと、甘寧の部屋に籠っていることを呂蒙は彼から知らされていて、知っていた。


 独りでどうにかなる人間など、この世にはいない。

 だが、たった一人でも支えがいてくれることで、

 凄まじいほどに強くなれる人間というのが、この世にはいるのだ。


 呂蒙にとって周瑜もまた、そういう人間だった。

 自分自身は、誰か一人をまだそんな風には思えず日々もがくばかりだが。


『俺は、ああいう人間は今までに見たことが無い』


 苦笑したようだが陸遜を想う、甘寧の表情は優しい。




『何が起こっても、決して絶望しない人間っていうのは』




 早朝の白霧を切り裂いて――陽が射し込む。


「そうすることで、お前の心も、きっとたくさんの光で満ちる」


 陸遜は呂蒙に横顔を見せた。

 幼かった表情が差し込んだ光に照らされて白く滲み、一瞬ひどく気高い、深い心を秘めた人間のもののように変化する。


 その横顔は、……少しだけ周瑜に似ている気がした。


 多くの言葉を交わし心を通わせその存在を重んじ合い、そうしていると、もしかしたら人は想いも魂も伝播して似たものになっていくのだろうか?


 だからこそ呂蒙は陸遜には、甘寧や淩統と、もっとたくさん言葉を重ねてほしかった。

 彼らの強さや明るさや、少しのことでは揺らがない魂が、陸遜にも宿ればと思うからだ。


 ふと、陸遜の幼さや弱さを時々不安に思いながらも、こういう表情にも惹かれるということは自分は、もしかしたらこの自分に与えられた分不相応な重責を果たすために、今、陸遜という存在を――強い彼を、自分自身が欲したのかもしれないと呂蒙は考える。


 だから陸遜には強くなってほしいし、彼に強さを与える者には側にいてやってほしかった。


 前方を強い瞳で見据えた陸遜の横顔に、しばし呂蒙は見蕩れた。

 やがて、不意に陸遜がこちらを振り返る。

 例え誰であろうと触れることの出来なそうな、強い纏いが消え去り、陸遜は幼い顔で微笑った。


「……ありがとうございます。呂蒙殿。

 心に、刻みます」


「何を刻むって?」

 殴り合いの喧嘩をしていた甘寧と淩統が、

 温かな陽が差し込んで馬鹿馬鹿しくなったのか、戻って来た。


「なんで呂蒙お前そんな顔赤いんだよ」

「ん⁉」

「ほんとだ。平気ですか、呂蒙殿。今日の軍議恐らく長くなりそうですよ」

 淩統も首を傾げて来る。

 この二人はこんな時だけ団結しやがって、と呂蒙は苦々しく思った。


「……べつに、体調は万全だ。陽が射したから暑くなっただけだ」


「す、すみません。気が利かず……冷たいお茶でもいただいて参ります」

「あ、いいですよ陸遜様……そんなことは副官のわたしが」

 我に返ったように慌てて部屋を出て行った陸遜を、一呼吸遅れて窓から身軽に部屋の中に飛び込んで来た淩統が追っていく。

 甘寧はどあ~~~~っと虎のように思い切り大欠伸をしている。


「ちぇっ、なんだよ~。呂蒙が風邪でも引いて寝込んだら今日の軍議中止になるかと思ったのによ~」


 庭の壁に凭れかかってそんな風にぼやくから、子供かお前は! と呂蒙は吹き出してしまった。



【終】



 

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花天月地【第3話 剣を取る】 七海ポルカ @reeeeeen13

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