第2話 透羽



「蒼空、こっちだぞっ」

「う、うん」




透羽はこれから向かう方向の道を指さしたあと、俺に手招きをし微笑む。

俺は急いで透羽の方へ行き、隣ではなく少し後ろを歩く。

なんとなく会話は無く、話したいけどどんな話題を上げればいいのかも分からないからもどかしく感じていると透羽が鼻歌を歌い出したので、俺は海を眺めていることにした。




「………」




新鮮な夏の日。

聞こえてくるのは、波の音と足音と、透羽の鼻歌だけ。

潮風に揺られるのがとても心地良い。




まさかこんなことになるなんて、思いもしなかったな……




先程の一時間で、俺と透羽はたくさんの話をした。

俺と透羽は同い年の十六歳で、誕生月も同じく五月であること。

透羽にはお兄さんが二人いること。

透羽の口調はそのお兄さんや周りの人たちから移ったものであること。

透羽は欠片島で生まれ欠片島で育ったこと。

透羽の好きな食べ物はスイカであること、などエトセトラ。

クラスでは空気も同然、話しかけられたとしても吃るし声が小さい。

こんな俺に友達なんているはずもなく、こうして同年代の人と他愛のない会話をしたのは初めてなのだ。

きっと俺は今、自分が思っている以上に浮かれている。

新鮮な経験を振り返りながら、たまに足取りを遅くして海の写真を撮ったり、鼻歌に聞き惚れたりすること約十五分。

森の中へと続く小道と、『秘色の滝』と書かれた看板が現れた。




「こっち行くぞっ」

「う、うん」




この先に、欠片島の絶景スポットの中でも一番だと言われる『秘色の滝』がある。

そう思うとカメラを持っている手に力が入った。




木々の間に降り注ぐ光、

いくつか下がる気温、

微かな風と土の香り、

段々と大きくなる水の音。




感覚が研ぎ澄まされていくように思うのは、きっと、気のせいじゃない。




地面が土から石へと変わる。

手すりと柵も設置されていて、人が来ることを前提にしているのが明らかな少し開けた場所までやってきた時。




「よ〜し、到着っ」




透羽の声に反応し、視線を足元から前方へ移したら、俺はついに『秘色の滝』を目視した。




遥か高い位置から落ちてくる大量の水。

着水すると辺りに白い飛沫が飛び、川の中へと消えていく。

ここまでは至って普通の滝だ。

でも、全体を見ると明らかに違うものがある。

それは滝の“色”だ。

水色と言うにはまだ淡く、薄い緑も混ぜたかのような優しい色。

正に『秘色の滝』。

水飛沫は白いのに、実に不思議で神秘的だ。

この滝の美しさには、日光の加減も関わっているのだろうと思う。

それは少し上を見れば容易く分かることで、周囲には生い茂る背高のっぽの木々が、滝の上にだけないのだ。

それにより滝は必然的に周囲より明るくなり、輝きを増す。

この景色を見るだけで、欠片島の自然が美しいという評判には深く頷けた。

圧倒されて「綺麗」の一言すら出ない俺だが、十秒もしたらいつの間にか透羽を見ていた。

今彼女は、俺と滝の間の位置にいる。

俺との距離は五メートルと言ったところか。

後ろ姿が、そして辺りを見渡した時に見える横顔が、息をすることも忘れるくらい美しい。

孔雀のように優美で繊細な立ち姿。

それなのに仕草は雄々しい。

そんな彼女にどうすれば見惚れずいられるだろう。

透羽がこちらへ振り向く。

それが俺にはとても遅く見えて、髪と服の揺れや目と目が合うまでの時間、段々眩しくなっていく笑顔に世界を支配された。

すると、いつまで浸っているのかと言わんばかりに、脳内の俺がとある欲を生み出した。

この世界を崩したくなくて声を出すのを躊躇ったが、終いには言ってしまった。




「しゃ、写真っ」




あまりに説明が足りない俺の一言に、透羽はキョトンと首を傾げて反復する。




「写真?」

「う、うん、透羽の写真を撮らせて欲し、く……て……」




う……わぁっ何言ってるの俺、キモすぎ……っ




出来るなら時を戻して無かったことにしてしまいたい。

でも生憎俺はそんな能力持ち合わせていないから、怯えながら透羽の答えを待つことしか出来ず。

目を固く瞑る俺に、透羽は滝を背にして、たった一言。




「いいぞっ!」




と、変わらぬ笑顔で。




「え……い、いいの?」

「逆にどうしてダメだと思うんだ?アタシは“今”を未来に残せるのがすっごく嬉しいぞっ」

「今を、未来に……」

「ああ」




透羽の真っ直ぐな瞳に、確かにそうかもしれないと、自分の趣味を誇らしく思えてきた。




「……うん、そうだね。俺、写真たくさん撮るよ」

「おう!その意気だ!」




と、透羽は右手で作ったグッドポーズを突き出す。




あの笑顔に応えられるよう、頑張らないと。




そう気合を入れ、腹部の前に持っていたカメラを目線の高さまで持ち上げる。

すると透羽は察してくれたようで、何も言わずに再び滝の方へ向き直った。

じっと滝を見つめて動かない彼女を、まず一枚目に。

パシャ、とシャッターの落ちる音がした。

そして、目を閉じて歌を口ずさむ姿や、こちら目線で笑っている姿、空を見上げ眩しそうにしている姿など、様々な彼女を写真に収めていく。

三十枚ほど撮ったかと思われる時、透羽は柵の上へ登り始めた。




「えっ、と、透羽、危ないよっ」

「モーマンタイ!引き続き撮ってくれ!」




柵は直径十五センチほどの太い円柱で出来ているから、確かにバランスは取れそう。

現に透羽は全くふらついていない。

でも落ちたら川の中だ。

なのに平気そうっていうことは慣れているのかな?と疑問に思いながら、早く撮り終えようと再びカメラを構える。

その時レンズの向こう側に見えたのは、右手で髪を耳にかけながらこちらを見下ろし、フッと笑いを零している透羽だった。

もちろん背景には『秘色の滝』がある。

俺はその透羽を見て、可愛いや綺麗ではなく、かっこいいと思った。

それは、見ているのが俺だけなのが贅沢に思えてくるほどで。

罪悪感からなのか、他の人に見せるためなのかすらも分からないけれど、無意識にたくさん写真を撮った気がする。

だって人差し指が、知らないうちに疲れているから。

写真を撮るのにここまで全神経を注いだのはいつぶりだろうか。

もしかしたら初めてかもしれない、と思考が働くくらいには我に返ってきた時、透羽が柵の上に立ったまま言う。




「なぁ、蒼空だって綺麗な顔してるんだから、蒼空の写真も撮るぞ!」




そら……蒼空って、俺の名前だな……




「え……えええ!?ととと透羽、それは流石に……っ」




心の底では分かっている。

この世で一番俺のことが気に食わないのは、他の誰でもない俺自身だって。

だから綺麗な写真を撮ることによって、自分の世界から自分を追い出そうとしている。

写真を撮り始めたきっかけはこれだったはずなのに、最近は自分の想像以上に自分が写真を撮ることにハマり、忘れてしまっていた。

だけどそれを思い出した今、自分が写真の中に入るなんて……

写真が汚れてしまう。




「……ダメだよ」

「なんでだ?」

「……人と目を合わせるのが、怖くて……髪で隠してるような、こんな暗いやつ……写真になんて撮ったら……」

「何言ってるんだ?蒼空はかっこいいだろ!」

「そんな、こと……」




俺がかっこいいなんて絶対嘘だ……

俺の醜さは、俺が一番分かってるんだから……




俺が癖のように俯くと、透羽は柵の上から降りてきて、俺の顔を覗き込む。




「っ……と、透羽……」

「蒼空はアタシのこの話し方をおかしいと思うか?」

「……え?」




宿で休んでいた時に知った、透羽の口調の理由。

透羽はそのことについて、自分から話し出した。




『あ、そういえば蒼空、アタシのこの話し方について気になってるだろ?』

『えっ、あ……うん……』




もしかしたら本人にとってコンプレックスなのかもしれないし、その問いに「うん」と答えるのを少し躊躇ったけど、透羽には隠せる気がしなくて、正直にそう言った。

すると透羽は、




『これなぁ、多分兄貴たちから移っちまったんだよ〜。あと父さんからもだし、漁師やってる橋本のおっちゃんからもだな!』




と笑いながら教えてくれた。

そしてやめようかと思ったけど、やめたら自分じゃない気がするからやめなかった、とも。

それを聞いて俺は、自分のことをよく分かっていて、自分のために堂々と判断が出来る透羽はすごいと思ったし、同時に俺には絶対無理だと思った。




そんな俺に、透羽の口調はおかしいなんてとても言えない。

おかしくないよ、と言おうとしたその時、透羽は再び口を開いた。




「アタシこんな話し方だけどさ、可愛いのは好きなんだ。変だって思うかもだし周りから見てアタシが可愛いのかも分かんないし……」




え……




「か、可愛いよっ」




思わず言ってしまったけど、これは絶対に間違いじゃないと言い切れる。

だって大前提として、口調と可愛さにはそこまで強い繋がりがあるわけじゃない。

それでも口調のことに触れるなら、いや、触れたとしても……

その天使が囁くような声色は、どうしたって可愛いと思わざるを得ないんだよ。




「た、確かに想像とは違ったけど、そんなの関係なく透羽は……可愛い……と、思う……」

「……」




透羽、何も言わない……

もしかしなくても、俺めちゃくちゃ気持ち悪いこと言ってない……?

いや、俺が言うから気持ち悪いんだよ、きっと……

ああ、どうしよう……っ




いつもの如く俺が自分を悪く言っていると、ふふっ、という随分と可愛らしい笑い声が聞こえてきて。




「そっか、アタシ、可愛いのか……」




透羽が少し照れくさそうにそう言うから、強く首を縦に振る。




「ありがとな、嬉しいぞっ」

「っ……」




でも透羽は、なんで急にこんな話を……




不思議に思っていると、そんな俺の心を読んだかのように、透羽は尋ねてくる。




「じゃあ蒼空は、アタシの口調のことをおかしいと思わないんだな?」

「もちろん、絶対っ」

「アタシもそれと一緒だ」

「へ……」




それと一緒って、どういう……




「蒼空がアタシをおかしいと思わないのと同じで、アタシも蒼空のことをおかしいなんて思ってない。蒼空は身長が高いから、きっとモデルさんみたいな写真が撮れると思うぞっ。それに……」




言葉を一度区切ったかと思うと、透羽は精一杯腕を伸ばして、右手で俺の前髪を上げた。

そして俺に驚く間も与えないまま、




「うんっ、綺麗な空色の瞳じゃないか!」




と笑った。

彼女の言葉には、何かすごい魔法がかかっているんじゃないか。

そう思わざるを得ないほど、その一言には心を温められた。

そして透羽は静かに浸る俺を待ってはくれず、なぜか俺にしゃがめと言ってくる。

困惑しながらもその通りにすると、透羽は俺の首にかかっていたカメラをスルッと取ってしまった。




身長差があるからしゃがまないと取れなかったんだ……

可愛い……って言ったら怒られちゃうかな。




密かにそんなことを思いながら、透羽がどうするのか見守る。

すると透羽は、




「蒼空っ、そこの柵の前で撮るぞ!」




と、いつの間にか首にかけたカメラを構えながら言ってきた。




おかしいと思わないって言ってくれたけど、本当に撮るのかぁ……




いざとなると少し身構えてしまう。

でも写真を撮るのを楽しみにしているのか、自分の周りに花を浮かばせている透羽を見たら、言う通りにするしか選択肢はない。

足取りゆっくりと柵の前へ移動した。

それを確認した透羽は、




「じゃあ撮るぞ〜っ」




と、先程まで俺がいた位置から手を振ってくる。




え、え、もう……?

ちょっと待って、撮られるこっち側ってどうしてればいいの?

初めてだから分からないよ……っ




とりあえず、恥ずかしいから顔をカメラから逸らし横を向き、これから次どう動けばいいのか考える。

でもシャッター音がたくさん聞こえてくるから、耐えきれずに透羽の後ろへ走って逃げてしまった。




「と、透羽、ストップ……終わりっ」

「むぅ、まだ撮り足りないぞっ」

「でももう終わりっ」




渋々といった感じだけど、透羽はカメラを返してくれた。




「せっかくの綺麗な瞳も少ししか写らなかった……本当にモデルさんみたいだったのに、勿体ないぞっ」

「いいいいやいや、世界のモデルに失礼だよ……っ」




俺がモデルみたいなんて、いくらお世辞でもバチが当たりそう……




と、そんなこんなで『秘色の滝』の写真は無事取り終えることが出来た。

その後は内部の岩が青く光る『青鍾せいしょう洞窟』と、綺麗な円形をしており周りの木々とのコントラストが美しい『欠片湖』を巡った。

欠片島の自然はどれも想像以上に魅力的で、写真を何枚撮ったか分からないほど。

けれど透羽の言葉や表情に勝るものは無くて、絶景スポットを撮っている間も、俺の心を掴んでいたのは清く眩しい透羽だった。







気づけば時刻はもう午後の六時。

明日、一緒に『欠片島の海』を撮りに行こうと約束をして、とりあえず今日は別れることにした。




「じゃあまた明日な!」

「う、うんっ、また明日っ……」




「また明日」なんて言われたの、いつぶりだろう。

でも明日は家へ帰らなければならない。

早く時が過ぎて欲しいような、欲しくないような。




趣味を笑わないで憧れると言ってくれた透羽が相手だから、何よりも美しい透羽が相手だから、こんなことを思うのかな。

もし、そうでないなら………?




こう思うことさえ新鮮で、寝入るまでは時間がかかった。


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