第3話 特別



翌朝、午前七時半。

アラームが鳴る前に朝日で目が覚め、僅かに開いていた窓の隙間から気持ちの良い潮風が流れ込んできた。

窓の向こうの海を、なんの気持ちも無く眺める。

そして思い出す。




「……、あっ」




透羽と約束してるんだから、準備しないと。




透羽とは『海の里』の前、つまり昨日透羽がラムネを飲んでいた所に、九時に会うことになっている。

それまでに身支度をして、部屋を片付け、なるべく早くから透羽のことを待っていよう。

そう心に決め、早速俺は布団から片付け始めた。




身支度、片付け共に終わり、現在時刻は午前八時過ぎ。

まだ朝食をとっていないから宿に売ってあったあんぱんを買い、それを食べながら透羽を待つ。

久しぶりに食べるけど、あんこの優しい甘みは変わっていなくて安心した。




透羽……会いたいなぁ……




って、




「もうほんと、昨日からおかしいよ俺……っ」




両手で顔を覆って一人悶絶しながら待つ時間は、とてもとても長いものに感じられた。




約束時間の十分前になった時、左の道に歩いてやってくる人の姿が。

透羽だ。

今日は昨日よりも丈の短いデニムワンピースに麦わら帽子、そしてスニーカーというアウトドア感溢れる夏らしいコーデ。

変わらないのは、ただ歩いているだけでも彼女は美しいということ。

俺が透羽に気づいたのと同時に透羽もこちらに気がついたようで、小走りでこちらへやってくる。




「蒼空、おはようっ」

「お、おはよう透羽」




緊張して、体に力が入っていたのだろう。

俺はベンチから勢いよく立ち上がり、透羽に挨拶を返した。




「蒼空は十時半のフェリーに乗って帰るんだろ?あと一時間半しかないから、早く行くぞっ」

「う、うんっ」




一時間半。

それが、俺に残された透羽との時間だ。

そう思うととても短くて、残念で、寂しくて。

だからせめて、この一時間半を特別なものにしよう。

そう決意し、自分の意思でしっかりと、その一言を口にする。




「と、透羽、今日の服、すごく可愛いよっ」




そしてすぐにしまった、と思い付け加える。




「あっ、いやもちろん昨日も可愛ったんだけど……っえっと……」




やはり慣れないことをするとボロが出る。

数秒前の自分を殴りたい。

でも透羽は俺をバカにしたりなんかせず、昨日のようにまた「ふふっ」と笑って。




「ありがとう、蒼空っ」

「っ……い、や……全然……っ」




少し頬の赤い透羽は初めてで、不意の攻撃に俺はうまく喋れなかった。

二人の間に甘酸っぱい空気が流れる。

そこには耐え難い何かがあり、沈黙を破るために何か話題をと思ったが、透羽の方が一足先だった。




「じゃあ、行くぞっ、蒼空っ」

「う、うん!」




体だけでなく声にも力が入るし裏返るしで、またも変な空気が漂い始める。

こうにまでなってしまえば、本当にこの一時間半を特別なものに出来るのかと、自分を疑わざるを得なかった。




この島へやってきた時に登って来た坂を今度は下り、フェリー乗り場も通り過ぎて進んだ先にあるのが、この島唯一の海水浴場。

昨日フェリーの中からも見たが、『欠片島の海』は綺麗なエメラルド色で底まで透き通っている。

サンゴ礁や暖かい海にしか生息しない魚たちはとても色とりどりで、目を奪われるほど綺麗だ。

そんな『欠片島の海』の写真を撮らずに帰るなんてとても出来ない。

それに透羽も写ってくれれば、その写真はその瞬間その場所でしか撮ることの出来ない特別なものになるだろう。




……というそんな予想は、どうやら合っていたらしい。

海水浴場へ着いて、俺はすぐに海だけの写真を撮り始めた。

それを三分ほどで終えると、次は海と透羽の写真に取り掛かる。

昨日言ったことがあるからか、透羽にまた写真を撮らせて欲しいと言うのにあまり緊張はしなかった。

また、透羽も昨日のように「いいぞっ!」と。




相変わらずの暑さだけど、俺に残された時間は少ないからいつも以上に真剣に写真を撮る。




鮮やかな色をした波と水平線、

スポットライトのような太陽、

昨日から知っている潮の香り、

昨日から知っている波の音、

そして一人の天使がそこに。




その時その全てが透羽を輝かす舞台となっているみたいで、彼女が写真へ入ると、世界は明度と彩度が高くなる。

昨日みたくシャッターを押す音が辺りへ伝わり、その音が何故かとても心地よかった。

五分ほどすると透羽は靴を脱いで、足を海へ入れる。

貝殻などで足を切ってしまわないか心配だったが、辺りにそういったものは無かったので、今までよりも無邪気さのある写真を撮り続けた。




相変わらず透羽が美しい被写体モデルとなってくれていると、透羽は急に俺の所へやってきて。




「写真ばかり撮ってないで、蒼空も遊ぼうぜっ」




なんて少年のように言ったかと思えば、透羽はパシャッと俺の足元に海水をかけてくる。

初めは驚いたけど、そういえば海で遊ぶなんてもうずっとしていないなと思い、カメラを収めてから俺も海へ入った。

そして「いいのかな?」と不安になりながらも、俺も透羽の足元へ海水をかけてみた。

すると透羽はやんちゃな顔をして、




「やったな〜?」




なんて言ってくる。

それはどちらかというと先に海水をかけられた俺が言うセリフなのだろうが、俺にはとても似合わない。

そんなことを思っていると、雪合戦ならぬ海水合戦の威力は無意識のうちに段々と上がっていた。

人見知りであるはずの俺はいつの間にかそれを忘れ、全力で楽しんでいたのだ。

それはきっと、透羽を楽しませたい、そして自分自身も透羽と楽しみたいという思いがあったからだろう。




ふと防水腕時計を見ると、時刻はいつの間にか十時を回っていた。

どうやら、三十分以上も海水合戦をしていたらしい。

そのことを透羽に伝えると、




「もうそんな時間なのか?楽しい時間はあっという間に過ぎるなっ」




と、浜に上がりながら言う。




「うん……そうだね」




それはつまり、もうすぐ終わりの時間だということだ。

悲しいがそれと同時にこの時間を透羽に楽しいと思ってもらえているのが分かり嬉しかった。

波打ち際から離れたところに腰を下ろし、足は砂を払ってから靴の上に乗せ、自然乾燥に頼る。

そうして『欠片島の海』を前に、お別れの前の最後の雑談が始まった。




「なぁ蒼空、この島はどうだった?」

「すごく綺麗だったよっ、島のどこもかしこも。たくさんの綺麗な写真が撮れてこれ以上ないほど満足してるっ。ほんと、この島に来て良かったなぁって思うよ」




そう答えると、透羽は満面の笑みを浮かべて、




「そうか!蒼空にこの島の良さを知ってもらえて……蒼空に出会えて、良かったぞっ」




と風鈴の音の如く綺麗な声で言った。

かと思えば、今度は少し頬を赤らめて。




「それに嬉しかったぞっ、蒼空に可愛いって言ってもらえて……」

「っ……うんっ、透羽は可愛いっ」




透羽、本当の本当だよ。

だってほら、今だって俺は透羽から目が離せない。




「ありがとうな、蒼空!……ほんとは少し、自信なかったから……」

「……?透羽、何か言った?」

「いや、なんでもないぞっ。ふふっ」




俺は、ついその透羽の微笑みに驚き照れてしまう。




だって、まるで恋をしているみたいな表情で……

って、そんなわけないよね。




「俺も……透羽と出会えて、良かったよっ」




こんな俺なのに出会えて良かったと言ってもらえて、俺は幸せ者だ。




そう思いながら、俺は終わりが来るのを惜しむように言葉を返した。




「なあ蒼空!そういえば海の里のおばちゃんが……」




時が止まってほしい。

俺の心にはただそれだけだった。




気がついた時にはもう十時二十分。

タイムリミットまで残り十分となった。

服がまだ乾ききっていないけどそんなこと気にしていられないので、二人で急いでフェリー乗り場まで向かった。

フェリー乗り場へ着くと、どうしても思ってしまう。

もう終わりなのか、と。

帰りたくないなと思いながら遠くの島を見ていると、右側の少し下の方から可愛らしい声が聞こえてきて。




「そ〜らっ、二人で写真撮ろうぜっ」




二人で、って……

ツーショットってこと?




確かに、この二日間でたくさんの写真を撮ったけど、俺たち二人の写真は一枚も撮っていない。

透羽のおかげで自分への嫌悪も少し減ったし、いい案かもしれない。




「うん、撮ろう」

「よしっ、じゃあアタシにカメラ持たせてくれよ!」




透羽にカメラを渡すと、透羽は小さな両手でカメラを持って俺の隣へくっついてくる。

このままだと俺がデカすぎて画角に入らないので、中腰にして透羽に合わせる。

そして、透羽の元気で明るい声が響く。




「いくぞっ、はいっ、チーズ!」




────




フェリーに乗り込んだ俺は、少し離れた所にいる透羽を見る。

それは透羽も同じで、透羽は俺に大きな声で言ってくれる。




「また絶対来てくれよ〜!」

「う、うんっ、絶対行くから、待ってて!」

「でもあんまり遅いと、アタシが会いに行くからな〜!」

「っ……す、すぐ会いに行くから!結果報告しに来るから!」

「おう!蒼空またな〜!」




どこまでも晴れ渡っている空の下、今までで一番大きな声で言う。




「透羽っ、またね!」




天使のような見た目で、実はかっこいい一面もある君。

そんな君と過ごした二日間は、俺にとってとても“特別”なものになった。


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