後編 風の境界(さかい)を越えて

第七章 旅立ちの舟

 朝の風が変わったのは、乾季が過ぎた兆しだった。リオンは桟橋の先端に立ち、波の向こうにうっすらと浮かぶ影を見つめていた。それは、村に年に一度だけ訪れる**交易船(パンパサグ)**の影だった。船は白い帆をたて、鉄と木の混じった重々しい船体をぎしぎしと軋ませて進んでくる。

 船から降りてきた男たちは、リオンの村には見慣れぬ衣を纏い、海ではなく陸の匂いをまとっていた。異国の言葉と笑い声、そして海図や羅針盤、バジャウには不要な“直線の道具”を腰に下げていた。


 「彼らは“海を征服する”ために来た。だがバジャウは、海と踊るだけだ」


 祖父アランがかつてそう言ったのを思い出す。だが今、祖父はもうこの世にはいなかった。あの嵐の夜から半年後、アランは海辺の小屋で静かに息を引き取った。眠るような顔だった。風のない日だった。葬いの儀式の夜、リオンは父と祖父の形見である貝笛を胸にかけ、焚き火のそばで海に誓った。


 ――俺は、行く。風の境界を越える。



**



 母ナリアは、息子の決意に何も言わなかった。ただ、リオンが出航の支度をする夜、ひとつの小袋を渡した。中には乾燥させた魚皮の包みに包まれた**“潮の護符”**が入っていた。バジャウの古い風習では、旅に出る者が「風に試されぬよう」に身につけるものだ。


 「それをつけていれば、あなたは“戻るべき風”に引かれるわ」


 母の声は穏やかで、どこか風そのもののようだった。



**



 交易船の船長は、フィリピン系の男だった。年齢は四十を越えていただろうが、海に焼かれた肌は力強く、歯には金の輪がはめられていた。


 「坊主、おまえ本気で乗るのか? この先の海は、おまえの島の海と違って“道具が必要な海”だぜ」


 「俺には風がある。風を読む目と、海の声を聴く耳がある」


 船長はふっと鼻で笑った。


 「よし、面白い。だったら連れてってやろう。風が迷っても、おまえが戻せるならな」


     

**



 出航の朝、村人たちが波打ち際に集まった。母ナリアは浜辺で静かに立ち、手を振った。リオンは舟の上から深く頷いた。それだけで十分だった。村の子どもたちが小さな貝殻の首飾りを放り投げてきた。


 「リオン兄ちゃん、帰ってきたら、教えてよ。遠い海の話!」


 風が、帆を膨らませた。船は岸を離れ、バジャウの海を後にした。リオンは、甲板の上に座り、目を閉じた。波の音。船体の軋む音。人々の声。そして、風の声――

 そのなかに、まだ誰も知らぬ“名もない風”が混じっていた。リオンは、それを感じた。


 ――この旅は、風の境界を越えてゆく。



第八章 沈む島の歌

 海が語るのは、いつも“過去”のことだ。波に削られた岩、沈んだ貝殻の欠片、そして浜辺に打ち上げられた名もなき流木――それらはすべて、かつて何かが“そこにあった”という記憶だった。

 リオンがその島に辿り着いたのは、旅に出て七日目のことだった。島の名はリブアン。地図には載っておらず、交易の寄港地としてすら扱われていない小さな土地。だが船長は言った。


 「十年前は、もっと大きな島だったらしい。けれど今じゃ、年に三尺ずつ沈んでるって話だ」


 船の甲板から見ると、島の中央にわずかな森があり、その周囲にぽつんぽつんと木造の小屋が浮かぶように建っていた。海水に沈みかけた桟橋が、まるで古い舟の骨のように軋んでいた。



**



 島に着くと、誰も港に出てこなかった。見張りもいない。声もしない。だが、人の気配はあった。湿った土のにおい、炊きたての芋の香り、水辺に干された網――すべてが、ここに

「今も人が生きている」ことを物語っていた。

 リオンは、一人で桟橋を歩き、小さな祠の前に立った。そこには、貝殻と乾いた海草、そして子どもの手で描かれたような絵が置かれていた。絵の中には、島の上に立つ一人の少年と、その背後で沈んでいく家々が描かれていた。


 「君、よそ者か?」


 背後から、鋭い声が飛んできた。振り返ると、そこには年の頃12か13ほどの少年が立っていた。日焼けした肌に布を巻き、竹の槍を握っていた。


 「名前は?」


 「リオン。バジャウの村から来た。船に乗ってここへ……」


 「船はすぐ戻れ。この島はもう沈む。残ってはだめだ」


 少年の言葉は、感情を抑えていたが、どこか必死だった。


 「君は?」


 「カユ。この島の最後の守り人だ。島は消える。でも、消えることと“忘れること”は違う」



**



 その日の夕方、リオンはカユの案内で島を歩いた。かつては200人以上が住んでいたという。だが、今は30人もいない。多くは都市部へ移った。ある者は海に住まいを移し、ある者は沈んだ家に魂を置いたまま行方を絶った。


 「僕はこの島の唄を知ってる。母が、祖母が、ずっと教えてくれた。でも、もうそれを唄う相手がいない」


 カユは、海辺の岩に腰を下ろし、ぽつりとそう呟いた。


 「沈んでいくこの土地に、誰も名前をつけ直さない。なら僕が、それをする。島が消えても、島の唄を残すために」


 リオンはその言葉に心を打たれた。自分は「風の名を継ぐ者」だと思っていた。けれどこの少年は、「沈むものの名を刻む者」だった。



**



 夜、リオンは焚き火のそばで貝笛を吹いた。カユは目を閉じて、その音に耳を澄ました。


 「君の風は静かだ。悲しみが混じってる。けど、あたたかい」


 リオンはうなずいた。


 「海は、持っていくものばかりじゃない。時に、言葉も返してくれる。君の唄と、俺の風。……一緒に、海に届けてみないか?」


 カユは、少し驚いたように笑った。


 「じゃあ、教えるよ。島の唄。君が風に乗せてくれるなら、僕の島は、もう沈まないかもしれない」


 その夜、二人の少年の声が、沈みゆく島の上に響いた。それは、波にも記録されない、けれど確かに“伝えられた”声だった。



第九章 影を喰らう風

 海は、時に「音を吸い込む」。波は立っているのに、風が吹いているのに、どこにも“声”が届かない日がある。リオンがその異変に気づいたのは、モロクという港町に入ったときだった。

 そこは交易の要所だった。かつては珊瑚の村として知られ、バジャウたちも季節ごとに立ち寄っていた。だが、いまは違った。港の周辺は油で黒く染まり、浮かんでいるはずの魚の姿は見えず、空気には機械の焼けたにおいが立ち込めていた。


 「なんだ、この海は……?」


 リオンは、初めて“風の声”が届かないことに気づいた。



  **



 港の裏手に、ひっそりと舟を泊めている老人がいた。名前はトゥラス。元は珊瑚の漁師だったが、今は密漁船団に仕事を奪われ、網を捨てていた。


 「お前、バジャウの子だな。……風が、聴こえなくなったろう」


 リオンは息を呑んだ。


 「なぜ、それが……?」


 「俺たちも昔は聴こえてたさ。風の呼ぶ方へ舵を切った。魚の動きを“肌”で知った。けどな、あいつらが来てからは、風の道が切れた。海は“商品”になったんだ」


 彼が指差す沖合には、巨大な黒い鉄船が浮かんでいた。ナンバープレートもなければ、旗もない。光の届かない船腹には、重機と網が詰まっていた。


 「密漁だ。珊瑚を砕き、魚を根こそぎ攫う。夜の間に仕掛けて、夜明け前に消える。……風すら、声を上げられねえ」



**



 リオンはその晩、港に泊めた舟の上で貝笛を吹こうとした。けれど、吹けなかった。音が出ないのではない。出すことができなかった。この海は、声を拒んでいた。風も、答えてくれなかった。リオンは思った。


 ――俺は、名を継いだはずだった。海と話せるはずだった。


 けれどいま、この“影を喰らう風”の前では、何も聴こえない。貝笛をそっと置いたとき、誰かの声がした。


 「声が出ないのは、海のせいじゃないよ。……君の中に、声がまだあるかどうかだ」


 振り返ると、そこに立っていたのは、少女だった。腰まである黒髪、浅く微笑む目、そして左耳には貝殻の小さな飾りが揺れていた。


 「誰?」


 「ミナ。風を見る夢を見てここまで来た。私は“風の記憶”を追ってるの」


 リオンは黙った。彼女は続けた。


 「ここは“風を失った町”。だけど、本当に失ったのは海じゃない。“人”だよ」



**



 次の日の朝、リオンはミナに案内され、港から少し離れた“沈黙の入り江”へ向かった。そこは、風も波も静まり返った場所だった。

 ミナは貝笛を持っていた。リオンのそれとは違う、小さく尖った形のもの。彼女はそれを吹いた。音が出た。けれど、音ではなかった。
 それは「記憶」だった。かすかにかつての珊瑚の唄が聞こえた。


 「この笛は、曾祖母が吹いてたの。珊瑚を育てる民の、最後の声。風を呼ぶには、“風の生まれた場所”を知る必要があるの。君の笛も、そうでしょ?」


 リオンは、自分の胸の奥で何かが目覚めるのを感じた。忘れていたもの。失ったと思っていたもの。それは、“風は常に自分の外にある”と思い込んでいたことへの、ひとつの反証だった。


 ――風は、どこかにあるのではない。
 風は、ここにある。 自分の内に。



**



 夜。リオンは再び、貝笛を手に取った。今回は、吹けた。音は低く、まだ不確かだったが、それでも「ここに在る」という手応えを持って海へ届いた。

 ミナは言った。


 「君の風は、まだ揺れてる。でも、それが本当の風だよ。止まってる風なんてない。海の声も、きっと……どこかで、君を待ってる」



第十章 祖霊の声

 旅は風の導きで進む。けれど時に、風は“立ち止まれ”と囁く。リオンとミナは、港町モロクからさらに南、ほとんど記録にも残っていない環礁地帯へと向かっていた。そこは、バジャウの中でもとくに古い一族が「風の誕生地」として語り継ぐ場所――“パギ・バワン”、すなわち“日の底”と呼ばれる地。昼でも水は深く蒼く、底が見えなかった。珊瑚は溶けるように崩れ、周囲には祠のような岩が点在していた。


 「この場所、夢で見たことがある」


 ミナがそう呟いた。


 「ここには昔、“風を喰らう祖霊”たちが眠っていた。海に声があった頃、バジャウはこの地で、初めて“名を持つ者”になったって」


 リオンは黙ってその言葉を噛みしめた。“名を継ぐ者”として育てられた自分。けれど今、自分の名は問い直されている。名は血ではない。形見ではない。


 では、名とは何か?



**



 二人は祠のひとつに足を踏み入れた。風の音が急に消え、波の囁きも遠のいた。中には、石に刻まれたバジャウ古文字が残っていた。ミナがそっと指でなぞり、囁いた。


 「……“沈黙の中で、風を選べ”」


 リオンは目を閉じた。すると、暗闇の中から、声がした。


 《名を求めるか》


 《風に問いを持つか》


 それは“誰か”ではなかった。海そのもの。風そのもの。あるいは、名もなき祖霊。リオンは心の中で応えた。


 ――はい。僕は問いを持っている。僕の名が、誰の名でもなくなるその日まで。


 その瞬間、胸の貝笛が震えた。波が一陣吹き抜け、風が祠の中に入り込んだ。そしてまた声が響いた。


 《ならば、おまえに“忘れられた名”を託す》


 《風の名ではなく、風が“忘れた”名だ》



**



 翌朝、二人は岩場の上で夜明けを迎えた。リオンは、自分の手のひらを見つめていた。何も変わってはいない。けれど、何かが違っていた。


 「ねえ、ミナ……」


 「うん?」


 「俺はきっと、名を継ぐためじゃなくて、“問いを持つため”に旅に出たんだと思う」


 ミナは小さく笑った。


 「その問いが君の名なら、君の風はまだ終わらないね」



**



 その日の午後、ミナは島に残ると言った。


 「私はここで“風の記憶”を聞き続ける。君は……もう別の風を探してる目をしてる」


 リオンは少しだけ寂しさを感じた。でも、それは“別れ”ではなかった。風は、どこかでまた交わる。海を越えても、記憶を越えても。別れ際、ミナは最後に言った。


 「あなたが見つけた“忘れられた名”……それは、きっと、誰かがまた生きるための風になる。君は、風を生む人になる」


 リオンは、静かに貝笛を吹いた。音は優しく、そして深く、島の空にのぼっていった。



第十一章 選ばれる者、選ぶ者

 リブアン島は、静かに沈み続けていた。リオンが再びその島に戻ったとき、かつてあった小さな森は海に浸かり、桟橋の半分は波の中に没していた。けれど、そこにはまだ“声”があった。

 波の合間を縫って、唄が聴こえた。島の唄。あの夜、リオンとカユがともに歌った旋律。その唄に導かれるように、リオンは岩の上に立つカユの背中を見つけた。


 「……戻ったのか、リオン」


 カユは振り向かなかった。唄を止めもせず、貝殻で作った小さな笛を吹き続けていた。


 「君の唄が、まだ聴こえていた」


 リオンはそう言って、波打ち際に腰を下ろした。しばらく沈黙が続いた。ようやくカユが口を開いた。


 「島はもう、完全に沈む。母さんたちは出ていった。僕だけが残った。でも、リオン……僕は、もう“守る”ってことに疲れたんだ」


 リオンは黙って耳を傾けた。


 「唄を残せればそれでいいと思ってた。でもね、唄だけじゃ、人は帰ってこない。僕がこの島に残っても、潮は戻らない」


 波が足元を洗った。


 「じゃあ、選ぼう。もう誰かの後を継ぐんじゃなくて、自分で選べばいい」


 リオンの声には、かつてと違う落ち着きがあった。


 「君がこの島を出るのは、“裏切り”じゃない。島の声を他の海に連れて行く。それも、継ぐことだ」


 カユはゆっくりと振り返った。その顔には、かすかに涙の跡があった。


 「……それでも、僕は選んでもいいんだね」


 「そうだよ。君は選ばれる者じゃない。“選ぶ者”なんだ」


 リオンは胸元から、ひとつの貝笛を差し出した。それは、ミナから託された“風の記憶”の笛だった。風を見た夢、風を聞いた夜、風に問われた名。そのすべてが刻まれている。


 「これを、持って行ってくれ。君の唄と、風の記憶を一緒に」


 カユはそれを手に取り、両手でそっと握った。



**



 出航の朝、島の空は静かだった。潮は高く、最後の家の軒が海に飲まれていった。リオンとカユは並んで舟に乗った。小さな帆に風が入り、舟はゆっくりと動き出す。


 「リオン……君の旅は、もう終わった?」


 「まだ。けど、風はもう俺を待っていない。今度は、俺が“風を探す”番だ」


 「なら僕も……自分の唄を探すよ。海の上で」


 島が遠ざかる。けれど、それは“別れ”ではなかった。風が吹いていた。二人の舟を押し出す、やさしくも力強い風が。



第十二章(最終章) 風の彼方へ

 風は戻る場所を持たない。けれど、人は時に、風に帰る。



**



 旅の果て、リオンは一人、海のただなかにいた。舟の帆は降ろされ、波は凪いでいた。水平線はどこまでも静かで、空は音のない青をたたえていた。潮の流れも風のささやきも消えた世界。けれど、リオンの胸の中では、何かが確かに鳴っていた。“名”が、そこにあった。父の名。祖父の名。島の名。風の名。すべては、継ぐためにあった。けれど今、リオンはそれを手放す時が来たことを知っていた。



**



 小舟の上で、リオンは最後の儀式を始めた。

 ミナから託された笛、父から受け継いだ笛、そして自分が拾った記憶のすべてを、舟の上に並べた。ひとつずつに、ささやくように語りかける。


 「ありがとう」


 それだけを残して、彼は海へそっと笛を放った。貝笛は、音を立てずに波間に沈んでいった。それは喪失ではなく、“脱ぎ捨てる”ことだった。風の衣を脱ぎ、海の声を受け入れるということ。もう「誰かの名」は必要なかった。これからは、自分が名のはじまりになる。



**



 すると、風が吹いた。それは旅の始まりに吹いた風とは違う。どこか懐かしく、けれどまったく知らない匂いを孕んだ風。

 リオンは顔を上げ、目を細めた。遠くの空に、小さく光る白い帆があった。見知らぬ舟。見知らぬ海。見知らぬ風。リオンはゆっくりと舵をとった。風に帆を立て、舟を進めた。そこに地図はない。けれど、今のリオンには、風が地図だった。



**



 夕暮れ、リオンは貝笛のない胸にそっと手を置いた。なにもない。けれど、すべてがあった。風が呼ぶ。今度は、リオンの名で。“継がれた名”ではなく、“選びとった名”で。


エピローグの言葉

風は継がれるものではない。
風は、選ばれる者に寄り添うのではない。
風は、選びとる者にだけ、応える。

そしてその者は、いつか“風そのもの”になるだろう。


これにて、『風を喰らう者』から始まった
バジャウの少年リオンの旅の物語はひとまず幕を閉じます。



(了)


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風と沈黙と、父の名を継ぐ日 はるか かなた @JoyWorksDesigns

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