風と沈黙と、父の名を継ぐ日
はるか かなた
前編 風と沈黙と、父の名を継ぐ日
第一章 沈黙の海
朝の海は、声をひそめていた。波は穏やかに呼吸しているように、ひたり、ひたりと浜辺を撫でている。空は白金色に煙り、夜の名残を水面に薄く残していた。木造の高床式小屋がいくつも海上に並び、その足元には小舟がゆらゆらと揺れていた。バジャウの村――そのすべては、海の上に在った。
リオンは目を覚ますと、屋根の隙間から差し込む朝光に目を細めた。潮の匂いが、母の布に染み込んだ石鹸の香りと混ざっていた。小屋の外では、魚を焼く煙が立ちのぼり、遠くで誰かが貝笛を吹いていた。
けれど、父の笛の音は、もう二度と戻らない。リオンがまだ七つだったあの日、父は海に出て、帰らなかった。母は多くを語らなかった。祖父はそれ以上に何も言わなかった。
そして今、十歳になったリオンは、沈黙の海と暮らしている。
「リオン、起きなさい。今日は魚を売りに行く日よ」
母ナリアの声がやさしく響いた。彼女の手には、まだ干したばかりの小魚を詰めた籠があった。彼女は肌を覆う薄布をまとい、目元だけを出していた。バジャウの女たちは、海と風と太陽から自分たちを守るため、昔からこうして生きてきた。
「祖父と海に出たい」
リオンがぽつりと言った。
母はしばらく何も言わず、潮の音に耳を澄ませるように黙っていた。
「おじいちゃんに聞いてごらん。でも、無理をしてはいけないのよ」
母の声には、柔らかい拒絶が混じっていた。
祖父アランは、島で最も古い漁師のひとりだった。かつては父とともに沖に出て、深海の魚を仕留めることで知られていた。今では白い髭をたくわえ、村の端で古びた銛を磨いている。
リオンは祖父のもとへ向かった。波板の桟橋を渡るたびに、海が静かにうねり、足元から話しかけてくるようだった。
「じいちゃん、今日は……連れてって」
アランは返事をしなかった。ただ、磨いていた銛の先をじっと見つめていた。
「……海は、今朝、まだ眠っている」
やがてそう言うと、ひとつ籠を取り、リオンに差し出した。
「舟に乗れ。漕ぎ方は、お前の腕に訊け」
祖父の声は低く、波の底に沈んでいるようだった。
**
小舟は波を裂いて進む。アランが舵をとり、リオンは前に座った。海の色は浅瀬のエメラルドから、やがて濃い群青へと変わっていく。
「父さんは……どんな漁師だったの?」
リオンの問いに、アランはしばらく空を見つめていた。
「風の声を聴けた男だった」
それだけ言うと、祖父は舟を止めた。彼は籠から木の板を取り出し、水面に浮かべ、潮の流れを読む仕草をした。
「お前はどうだ。風の呼吸がわかるか?」
リオンは静かに耳を澄ました。潮騒、鳥の声、波のささやき――そのどれが風の声かは、まだわからなかった。
「バジャウの男は、海の鼓動に耳を澄まし、風の息に目を凝らす。海は母だ。だが同時に、牙をもった神でもある」
アランの言葉には、海への祈りと警戒が同居していた。リオンはうなずいた。わかるような、わからないような不思議な感覚が胸に残った。
**
帰路、アランは一本の銛をリオンに渡した。
「これは、お前の父が十のとき、初めて魚を獲ったときに使ったものだ」
リオンは銛を両手で受け取り、恐る恐る握った。
「使い方はまだ教えん。ただ、持て。匂いを覚え、重みを知れ。お前の掌が、いつかその意味を思い出す日が来る」
沈黙の中に、確かな継承の響きがあった。
第二章 祖父と海の言葉
潮が引くと、海は静かに骨を晒す。珊瑚のかけら、欠けた貝殻、船をつなぐ縄の先に絡まった海草。そのすべてが、海が語らずに残したものだ。
祖父アランは、朝のうちに舟を岸へ寄せ、リオンに古びた銛と籠を手渡した。今日からは、ひとりで浅瀬に立つことが許された。とはいえ、祖父は常に少し離れた場所にいて、鋭い眼差しでリオンの背中を見守っていた。
「魚は、目で獲るな。心で追え。波が語ることを、耳ではなく、肌で聴け」
祖父はそう言って、遠くの水平線を眺めていた。リオンは水中に目をこらした。小魚の群れが、光を鏡のように反射して泳いでいる。そのすべてが、音もなく移ろう沈黙の言語で語り合っていた。銛を構える。だが、狙いを定めようとするたびに、魚はするりと散っていく。
「急ぐな。魚は、お前を見ている。恐れているのではない。ただ、問うているだけ――“お前は海を知っているか”と」
祖父の言葉は、まるで呪文のようだった。
**
その夜、リオンは久しぶりに父の夢を見た。水面の上に立つ男――背中は大きく、波の音に重なるように、なにかを口ずさんでいた。顔は影に隠れて見えなかったが、その手に持っていたものは、間違いなくあの銛だった。
夢の中で、リオンは声をかけた。けれど男は振り返らず、風に吹かれて、波にとけるように消えていった。
目が覚めると、外では夜の海が唸っていた。風が南から吹きつけ、屋根の隙間から波音を引き込んでいた。母ナリアが小さな明かりのもと、黙って網を繕っていた。
「お母さん、父さんのこと……教えてくれない?」
ナリアの手が一瞬止まった。
「あなたは父の匂いがする。背中の線も、目を細める癖も、同じ。だから私は、あなたが海に近づくたび、胸が張り裂けそうになるの」
リオンは黙って座った。
「でもね、リオン。あなたが海を恐れずに進もうとするのなら……私は止められない。きっとそれは、海があなたに贈った宿命だから」
ナリアの手が再び動き出した。網の糸が、光にかすかに揺れていた。
**
次の日、祖父アランはリオンを連れてさらに深い入り江へ向かった。そこは、村でもっとも古い言い伝えの残る場所――「沈む森」と呼ばれていた。
「この海の下には、昔、陸があったと聞く。木々も人も、風の都もあった。けれどある日、風が怒り、海が飲み込んだ。今もその声が、ここに残っている」
リオンは、足を海に入れ、静かに潜った。水の中は冷たく、薄暗い世界だった。珊瑚が森のように広がり、魚たちがその間をすり抜けていた。底に近づくにつれ、水の音が変わる。遠くで、誰かのささやく声が聞こえるようだった。
耳を澄ます。胸が締めつけられるように苦しくなる。だがリオンは、水中に留まった。
――そこには、沈黙の中に確かに何かがあった。水から顔を出すと、祖父がじっと見ていた。
「聴こえたか?」
「……誰かが、いた気がした」
祖父は小さく頷いた。
「それが“風の記憶”だ。お前の父は、それを追いかけていた。誰よりも深く、誰よりも遠く。それが、奴の誇りであり、呪いだったのかもしれん」
**
その夜、祖父は焚き火を囲みながら、語りの火を灯した。
「海には、名を持たぬ神々がいる。風に潜み、波に宿り、船の底にすら囁く声をもっている。バジャウの男は、彼らの語らぬ言葉を聴く者だ」
リオンは火を見つめながら、自分の掌を見た。銛を握ったときのあの冷たさと重み。それが、まだ体に残っていた。
「リオン、お前の耳が風を聴いた日……そのときが、お前の“誕生日”だ。血ではなく、魂でバジャウの名を継ぐ日が来る」
その言葉は、父の声のようでもあり、海の声のようでもあった。
第三章 波の記憶
風祭りの朝、村は静かに色づいていた。高床の家々には色とりどりの布が吊るされ、屋根には貝殻の飾りが風を受けて軽やかに揺れていた。女たちは海水で洗った米を炊き、男たちは木製の太鼓を鳴らしながら、船の周囲に香を焚いていた。
風祭り――それは、海と風の精霊に一年の安寧を祈る、バジャウの古い儀式だった。
けれどこの日、リオンの胸の中には、どこか落ち着かない波があった。祭りの雑踏の中、リオンはひとり桟橋を歩いていた。祖父も母も、祭りの準備で忙しく、誰も彼を止めなかった。
波打ち際、サンゴの破片に混ざって、ひとつの貝笛が落ちていた。手に取ると、それは見覚えのある色をしていた。赤褐色の滑らかな肌、側面に彫られた、バジャウの象形文字。それは――父がいつも腰に提げていた貝笛だった。
リオンは笛を唇にあて、そっと吹いてみた。音は掠れていたが、確かに空気を裂くような、かすかな音が出た。波の音と混ざって、その笛の声は空へと昇っていった。
「……風を起こすには、風に語りかけねばならない」
低い声が背後から響いた。振り向くと、そこに立っていたのは、シランだった。村の外れに住む、老いた語り部。しわ深く刻まれたその顔は、潮風とともに歳を重ねたような気配を帯びていた。バジャウ語の古い詩を唇に乗せて囁く、精霊と交わす最後の巫女。
「その笛は、おまえの父が“風の谷”で見つけたもの。海が彼に与え、風が返した。だがおまえは、吹いてはならぬ時に吹いた」
リオンは笛を胸に抱え、黙って首を振った。
「俺は……父に会いたかっただけなんだ」
「では、耳を澄ませ。この村には語られぬ物語がある。沈んだ名、忘れられた風。風を喰らう者の話だ」
そう言うと、シランは貝殻の杖で足元の砂を円に描いた。
「昔々、“サミ・アングィン”という少年がいた。彼は風を呼ぶ歌を持ち、生まれながらにして海と語る力を持っていた。だが、その声に嫉妬した者が、彼の舌を切った。歌えなくなった少年は、風に乗って消えた。今も嵐の夜、彼の歌声が波の底から聞こえるという」
リオンは黙ってその話を聞いていた。物語の中に父の影がちらついた気がした。
「おまえの父も、“風の谷”を目指した男だよ。だが風は、すべてを許すわけではない。風に愛された者は、時に、風に呑まれる」
シランは杖を掲げ、貝笛を指さした。
「その笛は、風の鍵だ。吹くたびに、過去が目覚める。だがおまえが持つなら、心せよ。風は試す。“おまえは、誰の名を継ぐ者か”と」
**
リオンは母のいる家に戻った。母ナリアは、リオンの顔を見るなり、手にした貝笛に目をとめた。
「それは……あなたの父の」
声が震えた。リオンは答えず、ただ笛を胸に抱いたまま、母の隣に座った。
「ねえ母さん、父さんは、どうして“風の谷”に行ったの?」
ナリアはしばらく黙っていたが、やがて静かに語り始めた。
「あなたの父はね、嵐の前夜、夢を見たと言ってたの。“風の底に、人が呼んでる”って。それが誰かはわからない。でも、彼は海に出た。戻らなかった」
母の目に、潮のような涙が浮かんでいた。
「私は、信じてる。あの人は死んだんじゃない。風とともにいるのよ。だからあなたが笛を吹いたとき、あの人が……どこかで、耳を澄ましてる気がしたの」
リオンは、母の手をそっと握った。
**
夜、波は深く、星は遠かった。リオンは家の縁に座り、笛を膝に置いた。
「父さん、俺……」
声にはならなかった。代わりに、海が小さく打ち寄せた。その瞬間、遠くで吹いた一陣の風が、貝笛の穴をすり抜けて、かすかな音を響かせた。それは、たしかに――答えだった。
第四章 深く潜れ、静かに聴け
息を吸い、胸を張り、静かに沈む。波の上では風が囁き、波の下では沈黙が支配する。リオンは祖父アランに連れられて、村から離れた入り江の洞窟にいた。水面には誰の足跡もない。そこは、バジャウの少年が“海に名を問われる”ための試練の地だった。
「潜れ。ただそれだけだ。だが、もし海が怒れば、すぐに戻れ。お前はまだ、風を連れていない」
祖父の声は厳しくも、どこか祈るようでもあった。リオンは銛も持たず、ただ自分の体と肺だけを頼りに、水に身を投げた。
**
水の世界は、色を変える。陽光の揺らぎが肌を撫で、珊瑚の陰に魚が群れる。耳は詰まり、時間は引き延ばされる。音のない世界に、すべての意味が漂っていた。
祖父からは「目ではなく、耳で聴け」と言われた。けれど水中に入ると、耳は自分の血の音しか届けない。
――では、海の声はどこにある?
リオンはさらに深く、足を動かし、岩の影に入った。海藻が静かに揺れていた。そこに、なにかの気配があった。魚でも、貝でもない。空気ではなく、でも確かに“声”だった。それは沈黙ではない。音よりも深く、皮膚の裏に触れる“波動”だった。
そのとき、リオンの胸に、父の姿がよぎった。あの夢の中の男。海とともに立ち、何かを待っていた背中。呼吸が限界に近づいた。リオンは浮上する。水面が崩れ、空気が喉に戻る。だが彼の瞳は、もう子どものものではなかった。
**
岸に戻ると、母ナリアが立っていた。細い肩に布をかけ、波打ち際に立ち尽くしていた。
「あなた、もうこんなに……」
濡れた身体で歩み寄るリオンを見て、彼女は言葉を失った。
「母さん……俺、あの海の中で、何かを聴いた気がした。声じゃないんだけど、ちゃんといた」
「誰がいたの?」
「わからない。でも……そこにいた」
ナリアは静かに膝をつき、息子の濡れた髪に手を当てた。
「怖いの。海は人を連れていく。あなたの父も、海に愛されて、海に返された。……だから、私にはあなたが遠くに見える日がある」
リオンはしばらく黙っていた。けれど、祖父の言葉が胸によみがえった。
「父さんは、海に呑まれたんじゃない。海を選んだんだ。俺は……その理由を知りたい。だから、聴くんだ。もっと深く、もっと静かに」
ナリアは震える指で、彼の頬を撫でた。
「ならば、祈らせて。海に奪われぬように。風が、あなたを導くように」
**
その夜、祖父アランは焚き火を前に、古い儀式を始めた。乾いた木の枝を折り、貝殻を並べ、煙草の葉を火にくべる。
「今日、お前の耳は水の底に届いた。だが、まだ風を呼ぶには遠い」
リオンは焚き火を見つめながら、深く息を吸った。
「じいちゃん、風って……なに?」
祖父は煙をくゆらせ、ゆっくりと応えた。
「風は、見えない道だ。目には見えぬが、すべての舟を導く。バジャウの男は、その道を読む者。海が語る言葉を拾い、風が示す方角に従う。おまえの父も……そうしていた」
「じゃあ、俺も……?」
「お前がそれを選ぶなら、だ。バジャウの名は、血で継がれるのではない。海と風に、名を呼ばれて継がれる」
焚き火の火が、静かにパチパチと弾けた。リオンは、濡れた髪を乾かしながら、遠くに揺れる波の音を聴いた。それはもう、ただの音ではなかった。
第五章 名を継ぐ
風は、前触れもなく姿を変える。それはまるで、海が眠りから目覚める瞬間のようだった。雲が渦を巻き、空が灰に染まり、波が舟の舳先を叩いた。
その朝、リオンと祖父アランは沖へ出た。潮の流れがよく、大魚が浅瀬に近づいているという予感があった。けれど、海はいつでも、予感の裏をかく。空が黒く染まり始めたのは、網を下ろした直後だった。
「戻るぞ。風が怒っている」
祖父の声は鋭く、低かった。リオンは櫂を握った。だが、その瞬間、波が横から打ちつけ、小舟は大きく傾いた。アランの体が、ぐらりと揺れた。
「じいちゃん!」
祖父の足が滑り、舟の端に身体を打ちつけた。銛が舟底を転がり、アランは肩を押さえたまま動けなくなった。
「舵は……お前が取れ」
リオンは、船の中心に座り直し、櫂を握りしめた。波は高く、風はうねるように吹き上げる。雨が空を切り裂き、視界を塞いだ。どこが北で、どこが村か――見えない。
「風を……聴け」
祖父の言葉が背後から届いた。リオンは目を閉じた。風の音があった。波の叫びではなく、耳の奥に吹きこむ、低く、確かな“道しるべ”のような風の声が。それは、遠い昔に聞いたような、父の貝笛の響きに似ていた。
――右舷。風は押している。舟は返せる。
リオンは舵を切り、風を背に受けた。舟が動き始める。
「よし……そのまま……」
祖父がかすかに呟いた。リオンは必死に舟を漕ぎ続けた。指が裂け、腕が震えても、波を読み、風の背を滑るように進んだ。
**
帰還は夕方だった。嵐の後の海は、驚くほど静かだった。空は澄み、太陽は雲の切れ間から差し込み、舟の上に光の道を描いていた。岸に着くと、母ナリアが波打ち際に駆け寄ってきた。
「リオン!」
彼女の手が息子の頬を撫で、目が涙に濡れた。祖父アランは傷ついた肩を押さえながら、立ち上がった。
「こいつが、俺を連れて帰ってくれた」
ナリアが目を見開いた。アランは、舟の床に転がっていた銛を拾い、それをリオンに渡した。
「今夜から、お前のものだ。お前は、風を読んだ。俺が読めなくなった風を、聴いた。ならば……お前は、“名を継ぐ者”だ」
村の長老たちが見守る中、祖父はリオンの肩に手を置いた。
「今日、お前は“海の子”から、“海の男”になった」
**
その夜、村は火を灯し、リオンの名を讃える唄を歌った。女たちは太鼓を叩き、子どもたちは舟の形をした灯篭を海に浮かべた。リオンは焚き火のそばで貝笛を取り出し、そっと唇を寄せた。低く、深く、海に溶けるような音が響いた。その音は、父が遺したもの。そして今、リオンの中に息づくもの。祖父アランはそれを聴きながら、かすかに微笑んだ。
「よく、聴こえた」
そして母ナリアは、火を見つめながら静かに囁いた。
「あなたの中に、彼がいる。だけど……あなたは、あなたの風を吹かせなさい」
リオンは頷き、胸の中で答えた。
――海よ、風よ。今日から、俺の名を呼べ。
第六章 風を喰らう者
風祭りの夜、村は光に包まれていた。舟の骨組みで作られた櫓に火が灯され、波間には貝殻の灯篭が漂っていた。バジャウの人々は、海に生かされ、風に導かれてきた。その感謝と祈りを捧げる夜――この日、風は神となり、海は母に還る。
リオンは、祖父アランとともに小舟に乗り、海の中央に漕ぎ出た。舟には一本の銛と、一つの貝笛、そして風への供物が積まれていた。
祖父は小さな壺に鶏の血を少し垂らし、海に流した。
「これは贈り物だ。海の底で眠るものへ。そして風のなかに還った者たちへ」
リオンは目を閉じた。舟の下に、父の影が揺れている気がした。けれどそれは恐怖ではなかった。むしろ、安堵に近いものだった。
「じいちゃん、俺……海の声が、少しだけわかる気がする」
祖父は頷いた。
「声は、聞こうとする者にだけ、届くものだ」
リオンは、父の貝笛を手に取った。風が吹いた。潮の匂いが濃くなり、海がゆっくりと舟を揺らした。リオンは、笛を唇に寄せ、深く息を吸った。そして、吹いた。
――ひと吹き。
音は、夜の海に染み込むように広がった。波が静まり、風が呼応するように周囲を包み込んだ。その瞬間、リオンの耳の奥で、何かがささやいた。
《もう戻っていい》
声ではなかった。だが、確かに伝わった。父の存在。海の沈黙。風の記憶。それは、「さようなら」でもなく、「ようこそ」でもなかった。ただ一言、「継げ」という、命の継承だった。
**
村に戻ると、人々が彼を迎えた。
「風を喰らう者よ」
誰かがそう呟いた。それはかつて巫女シランが語った伝説の名。風と話し、海と眠り、名を残さぬ者。
リオンは、自分が語られる側になるとは思っていなかった。けれど、いま、その物語が自分の内から静かに芽生えているのを感じていた。母ナリアがそっと近づき、彼の手を握った。
「あなたの名を、教えて」
リオンは少し迷って、そして言った。
「俺は、リオン。風とともにある者。父の名を継ぎ、けれど自分の足で、波の上を歩く者」
その言葉に、祖父は深く頷いた。
**
夜が更けても、海は語り続けていた。焚き火の残り香のなかで、リオンはひとり浜に立った。星が波に映り、風が髪を撫でた。遠く、貝笛の音がもう一度、夜空を貫いた。それは、今夜この村に誕生した一つの新しい伝説だった。
(後編へ続く)
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