東インド介入<5>
1976年も中頃を過ぎると自称"独立国家"群と東インド諸島連邦の双方で疲弊が目立つようになっていたが、それぞれを"援助"している側の諸国、つまり、大日本帝国、大清帝国、そして南アジア連邦はまだまだやる気に満ち溢れており、ますます戦果は拡大していく一方だった。
それとともに行なわれていたのが諸外国への工作だった。プロパガンダによる宣伝に始まり、軍事的、経済的援助を含んだ外交戦が各地で展開された。欧州諸国においては南アジア連邦が有利であり、かつての満蒙戦争のときと同じく黄禍論が喧伝されて反アジア的活動が行なわれ、『アーリア人の国家』である南アジア連邦を援助する草の根的活動が各地で見られた。対して南アジア連邦が自らの勢力圏であるとみなしていたインド洋地域などではそうした南アジア連邦支持の活動は盛り上がらず、むしろ、南アジアの経済的支配に対する反発から日清両国を支持する動きが生じ始めた。
日清両国もそれに答える形で1965年にオマーン統一戦争で敗れたオマーン-スルタン国の亡命政権がグワーダルに存在していた関係で、南アジア連邦と対立していたオマーン-イマーム国に対して莫大な援助を行なった他、汎ツラン主義を前面に出して、
一方で東インド介入は直接に参戦した各国の社会も大きく揺さぶること繋がった。
南アジア連邦ではそれまでのヒンドゥーとムスリムの調和という政策の下で行なわれていた排除政策に反発したシク教徒や仏教徒、
対する日清両国においては、特に農村部において不在地主たちが国民配当に加えて重い小作料を課すことで豊かな生活を続ける一方で小作人たちは国家による工業保護政策によりある程度の福祉政策が行なわれていた労働者たちとは違い、国家から毎月支払われるわずかな国民配当によって細々と暮らしていかねばならない状況だったため現在でも移民熱は盛んであり、日清両国での東インド介入についても農村部については移民先としても新たな土地が手に入るという熱意から支持するものが多かったが、一方で移民ではなく国内における政策そのものの変革を求める意見も70年代に入ると出始めていた。
そうした農村部における変革運動の中で最初に支持されたのは
アメリカ生まれのジョージズムは日清両国ではそれだけで忌避される思想だったが、過激なものはそれゆえに閉塞した社会を変える原動力とみなし、穏健派はより社会に受け入れられるよう、例えばともにアメリカを敵とする同盟国のパタゴニア執政府でもその経済イデオロギーの基礎を築いたシルビオ-ゲゼルが
こうして始まった変革運動は日清両国の政府にとって無視できないものに成長することになるのだがそれはまだ先の話だった。
砲声は未だ鳴りやまず スキットル @UQT9L5
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