東インド介入<4>
1976年1月16日の奇襲攻撃と続く17日の南アジア連邦の東インドへの派兵は大日本帝国と大清帝国にそれなりの衝撃を与えるにとどまった。もちろんマラッカ海峡が即座に封鎖されたことなどは大問題だったが、10年ほど前の満蒙戦争での欧州列強の動きを覚えていた日清両国はそれ以来資源備蓄に精を出しており、少なくとも"弱体な"南アジア連邦相手には短期で勝てるだろうと考えていたため、特に問題はないとされた。両国の軍部は"勝利"のためにあくまでも戦い続けるつもりだった。それが満蒙戦争を敗北という形で不本意にも終わらせてしまった両国の軍部の総意だった。
経済界などからも突然の事態に戸惑いつつも歓迎する声が多かったのも事実だった。そもそも、イギリスの力を背景に市場を広げていた南アジア連邦を経済界は快く思ってはいなかったし、加えて言えばここ半世紀で大きく数を増やしたユダヤ系も積極的に自分たちの居場所を守るために後押しした。大日本帝国をはじめとした東アジア圏で信奉される社会信用論においては金融は国家の管理下にあり、欧州においてユダヤ系が重宝される理由であった金融において富を築いたものはいなかったが、それでも高い教育水準については健在であり、発明家や技術者としていくらかの事業を成功させることで新たに富を築くものさえいた。社会信用論の提唱者であるクリフォード-ヒュー-ダグラスが(かつての)既得権益に反対するあまり偽書であるシオン賢者の議定書を引用して反ユダヤ的とも思える主張をしていたことからすれば皮肉でもあったが、とにかく一定の地位をユダヤ系は占めるに至っていたのだった。
一方で、そうしたユダヤ系に対して南アジア連邦の側に立ったのが
この時供与された兵器は
こうした大アルメニア《ハヤスタン》共和国からの支援に対して大日本帝国と大清帝国は抗議したが、大アルメニア《ハヤスタン》共和国は取り合わず、大日本帝国に対しては逆にアルメニア系から圧力を受けたフランス共和国からの抗議が行なわれる有様だった。これは、日本側の満蒙戦争から続く不信感をさらに増大させることになり、1902年の日仏協商以来の関係を完全に崩壊させることに繋がったのだった。
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