東インド介入<3>
1976年1月17日、攻撃から一夜明けたその日、南アジア政府は正式に東インド諸島への軍事介入開始を宣言した。
南アジア連邦という国家は大国ではあったが、軍事的には大したことはないと思われていた。南にはドラヴィダ人を中心とした民族国家であるドラヴィダ-ナードゥが成立し、常に緊張状態にあったが、宗主国であるイギリスが常に介入するため国境紛争以上にはならず、それ故に旧イギリス領インド帝国時代からかわらず『
だが南アジア政府にとっては問題はなかった。何しろ宗主国であるイギリスの後ろ盾があったからだった。もちろんイギリスとしてはその巨大な国土と経済力に見合うだけの軍事力の整備を求め続けており、特に1960年のロシア帝国の消滅後にはさらなる負担増を求めていたが、南アジア側は『
これは1857年のインド大反乱後に導入されたもので、インドにはシク教徒やラージプート、グルカといった軍務に向いた特定の集団が存在しており、軍務はそれらに任せるべきであるという概念であり、実際のところはイギリスに対して忠実とされた人々によってインド帝国軍を固めるための方便のようなものだったが、独立後の南アジア政府はそれを逆に利用して、ヒンドゥーとムスリムの融和の陰で排斥されていたシク教徒による反乱抑止のためにシク教徒を『
そんな、南アジア連邦だったが、ここ数年は明らかに動きが違っていた。大幅な軍備拡張に乗り出していたのだった。切っ掛けは満蒙戦争にまでさかのぼることになる。当時欧州で行なわれていた日清両国への反アジア主義的な"反戦"運動に際して南アジア連邦は使い古されたアーリア人学説をもとに自らをアーリア人として反アジア主義的な"反戦"運動を乗り切ろうとしたが、この行動は日清両国において強い反発を生むことになり、感情的な対立が始まった。
その時はそれで終わったと思われた対立だったが、日清両国が東インド諸島への介入を始めると、それまで北を向いていたはずの日清両国の"南進"に南アジア連邦は数年前の感情的な対立が現実の紛争につながりつつあるとして恐怖した。そのためまずはイギリスによる介入を要請するも、それまでの軍備増強を拒み続けてきた南アジア連邦の姿勢やアフリカ情勢の緊迫化、宇宙進出のための大規模な改革の最中だったため、象徴的な艦艇の派遣のほかは断られてしまい、残る道は独力での軍備増強でしかなかった。
こうした軍備増強に対して、ドラヴィダ-ナードゥは即座に反発し、独立したかつての西オーストラリアにあたるオーラリアは表向きは歓迎しつつも、従来より南アジアの経済的躍進を警戒していたオーラリア政府としては軍備増強を複雑な思いで見守っていた。そのオーラリアと国境を接するオーストラリア連邦は感情的理由から猛反発したが、日清両国の弱体化のために好意的だった同盟国アメリカとの間に微妙な亀裂を生じさせることに繋がった。
そして、自らを仮想敵として軍備増強を行なったことに日清両国は困惑し、やがて激怒した。日清両国からすれば東インドにおける軍事介入はあくまで自国の移民保護を目的としたものであり、それに対抗するような動きは当然のことだが認められなかった。外交交渉が水面下で行なわれたものの、軍事介入の中止を求める南アジア側に対して、最低でも移民たちによる何らかの国家の樹立を求める日清両国との間では話が嚙み合うこともなく、こうして南アジア連邦は独立後、初の本格的対外戦争を開始することになったのだった。
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