ブラックコロニー

 大学へ向かう道すがら、舗装された歩道の縁に蟻の行列を見つけた。黒く小さな粒が、切れ目なく連なり、どこかへと向かっている。頭よりも大きなパンくずのようなものを運ぶもの、列の流れに乗って前進するもの、それぞれが何の迷いもなく動いているように見えた。


 働き者の蟻――よく言うけれど、本当にそうだ。きっと指示を出す蟻がいて、全員がそれぞれの役割を果たすために黙々と動いているのだろう。

彼らには、揺らぎや迷いがないように思えた。小さな個体ひとつひとつから、力強い鼓動を感じた。


 自分も、そうなりたかった。彼らのように、自分のすべきことが最初から決められていて、黙々と人生を歩めたなら、こんなにも焦りや迷いに呑まれることはなかったのだろうか。



 就職活動がうまく進まない。エントリーシートは通らないし、面接まで行けたとしても言葉がつっかえ、顔がこわばる。企業から来るメールには「ご期待に添えず」の文面ばかりだった。友人たちは皆、すでに内定を決めている。

 夜遅くまでアルバイトをして、帰ってからようやくエントリーシートに向き合う日々。眠気と焦燥の狭間で、思考は鈍り、自分の書いた言葉が本心かどうかも分からなくなっていた。


 ――今日こそ、次のエントリーシートを出さなきゃ。これが通らなかったら、またゼロに戻る。そろそろ、後がない。



 大学の校内に入る。真っ直ぐ進んだ所に校舎がある。古びた外観とは裏腹に、校舎の中は妙に綺麗だ。昨日の夜勤バイトの疲れがまだ残っているせいか、身体が重い。エレベーターに乗り込み、三階のPC室へと向かった。


 PC室は、珍しく誰もいなかった。平日だというのに。いつもなら、夕方でもどこかの席に誰かが座っていて、キーボードの音や椅子の軋む音が断続的に響いているのだが、今日は静かだった。照明の蛍光灯だけが、乾いたジジ……という音を立てている。


 いつもは必ず埋まっている、窓際の隅の席を選んで座る。それからパソコンにログインをして、まずメールを確認する。一週間前に受けた企業から、返信が届いていた。


 「選考の結果、慎重に検討いたしましたが……」


 胃の奥がギュッと縮んだ。これで何社目だ? 二桁はとうに超えているはずだ。


 指先の震えを感じながら、新しい企業のエントリー画面を開いた。志望動機の枠にカーソルを合わせたそのとき――腕に、チリ、と微かな刺激。


 左肘のあたりを、小さな黒い粒が横切っていた。

よく見れば、それは蟻だ。


 「……え?」


 思わず身を引くと、蟻は床に落ち、机の陰、手の届かない所へと消えていった。

さっき観察した蟻をくっ付けてしまっていたのか、と――ふと、ズボンの布地に目がいく。太もものあたりを、もう一匹、小さな蟻が登っている。


 足元に視線を落とす。靴の縁、靴紐の隙間。そこにも、小さな黒い点がいくつか見える。


 「え……何だこれ」


 反射的に立ち上がった。

 視線を彷徨わせると、机の角にも蟻がいる。見間違いではない。先ほど見たのとは別の一匹が、マウスのコードの付け根を這い、動いている。

 ふと椅子に掛けていたリュックに目をやる。ジップの間から蟻が這い出してくるのが見えた。じっと見つめたまま手を伸ばし、ゆっくりと開いた。ノートの間に黒い影がひとつ。さらに、ペンのキャップに。手帳の縁に。数十――いやおそらく、数百匹の蟻がいた。


 思わず唾を飲み込む――


蟻を落とそうと、慌ててリュックを開いて逆さまにした。

 右手の甲に、一匹。皮膚の上を小さな脚が這っていることに気が付く。ぞわりとする。払っても、また別の個体が袖口から這い出してくる。

それだけじゃない。腕をたどり、肘の内側を、肩を越えて――首筋にもそれが付いているような感覚。背中が強張る。


 ふと鼻の奥が、何か詰まっているような気がして、なんだか息苦しい。指を入れても届かないような奥底に違和感を感じた。左右の鼻腔で何かが動いている。柔らかい膜の裏側に、ざらついたものがじり……じり……と、這い進んでいるようだった。


――まさか。そんなはずはない。


 全身がむず痒くなりながらも、意識は鼻に向いていた。一刻も早く鼻の不快感を取り除きたかった。

 ズボンのポケットに常備していたポケットティッシュを手にとった。ポケットティッシュの内部にも数匹、蟻がいる。

 二枚のティッシュを取り、思い切り鼻をかむ。ブシュッと空気が抜けた音と共に、粘液が出てきた。


 鼻の違和感は続いている。中で蠢いているようなそれは、眼の奥の方へと進んでいるようだった。


  誰かいないか。とりあえず外に出た方がいいのか?


周りを見渡すが人の気配は感じられなかった。

「すみません!どなたかいらっしゃいますか!?」

声を発するが、裏返ってしまう。やがて掠れ始めた。

乾いた咳が止まらない。咳き込むたびに、奥の方で「ジャリ」と音がして、何かを飲み込んだ気がした。ごくり、と唾を飲み下したとき、舌の付け根で何かがざらりと動いた。


 「うっ……!」


 思わず口を開いた。喉の奥まで手を伸ばしたくなる衝動。だが、どうしても届かない。


 なんだか耳鳴りがする。


 ――今日は疲れている。周りの蟻を払い落として帰ろう。すぐ寝よう。


 やがて、耳の奥が詰まったように空気がこもった。耳かきでは触れない深部で、「ジュ……」と湿った音がした。肉と肉が擦れ、何かが破れるような生々しい音。音は膨らみ、反響し、こめかみに鋭い痛みを打ちつけてくる。それらはまとまりを持って動いているようだった。耳の中から、生温いものが垂れる気がした。手で触ると、ぬるりとした感触。


 払っても払っても、それらは何かを目指して登っていく。視界がにじむ。左目の奥がじん、と痛む。鈍い痛みに涙が溢れてしまう。眼を拭おうとしたとき、眼球の裏に「ぐにゅ」と抵抗があった。

 瞼を閉じる。裏側から、カリ……カリ……と擦る音。涙腺の奥を、小さな脚がゆっくりと這っている。見えない。けれど、確かにそこにいる。


 鉄の味が広がる。血の味か、それとも……。わからない。ただ、歯と歯茎の隙間にそれが入り込もうとしている。小さな針で刺したような痛みが口の中に広まっていく。舌先で表面を擦っても、それは取れないようだった。



 頭が焼けるように熱い。意識の奥、言葉にならない場所で、いくつものそれらが蠢いている。

 そのまま、それらは体の中へ、血管へ、神経へと侵入していく感覚がある。実際に見なくても分かる。自分の中に「列」ができているのが分かる。あの道で見た、列。それが、今、体内に――。


 息ができない。吐き気がする。ひどく頭が揺れる。吐けない。音が歪む。光がにじむ。視界が暗くなる。何かに吸い込まれる。痛い。痛い。苦しい。誰か助け――。




「おい、起きろー! もうすぐ閉まるぞ」


 肩を軽く叩かれた。その瞬間、背筋がビクンと跳ねた。まぶたを開けると、ぼやけた蛍光灯の光が視界を貫いた。


 隣にいたのは、同じゼミの友人だった。顔が曇っている。

 「大丈夫か? なんかうなされてたけど」


 頭が重い。ひどく汗をかいていた。息が少しだけ荒れているのを自覚する。喉がカラカラで、掌にはじっとりと汗が張りついていた。


 視線を落とす。マウスを握った右手――そこには、ついさっきまで「それら」がいたはずなのに、今はただ自分の手があるだけだった。


――夢だった?


 どれくらい時間が経ったのだろうか。窓の外はすっかり暗くなっていた。

 画面に映る文字列を目で追いながら、首をひねる。……自分で打った記憶はなかった。


 「ん、、疲れてたのかもな」

 そう言って、席を立った。





 数週間後。思いのほか、就職活動は確かに前に進んでいた。夜遅くまでのバイトと、その合間を縫うようなエントリーシートの作成。

 何かが劇的に変わったわけではない――はずだ。けれど、書類はなぜかよく通るようになり、面接でも口が滑らかに動くようになった。以前のように、声が震えることもなくなったが、自分の話し方がどこか「他人のようだ」と感じる瞬間がある。反射のように出る受け答え。表情。相手の目を見るタイミング。


 自然体、ではある。だがその“自然さ”が、あまりにスムーズすぎて――まるで、あらかじめ決められた動線をなぞっているような気がするのだ。


 ある企業からは、「あなたのような方にぜひ来てほしい」と言われた。驚きはした。けれどそのとき、不思議と“当然だ”という気持ちが、胸の奥に静かに広がっていったのだった。




 昼休み、久しぶりに友人たちと並んで、ファストフード店のテーブルを囲む。大学から徒歩数分の距離にあるその店舗は最近できたばかりで、学生たちの溜まり場になっていた。お昼時ということもあり、店内は賑わっている。


 「最近マジで顔つき変わったよな」

 「もう内定確定だろ。やったじゃん!」

 「今度、内定祝いしようぜ!」


 先程までくだらない芸能ゴシップについて話をしていたはずだが、いつの間にか自分の話題に移り変わっていた。友人たちの声に、思わず笑みが溢れる。自分でも、自然に笑えているような気がして嬉しかった。

 やっと、同じ目線に立てた。もうひとりじゃないんだ。あの取り残されたような感覚も、遠い昔のことのようだった。

 「ほんと、やっと俺もお前らに追いついたよ」


 笑い声が交差する中で、自然に口元がゆるむ。言葉も、空気も、ぬるく心地いい。ようやく自分も、その輪の中にいると感じられる。

 自分でも気づかないうちに、口角がせり上がっていた。さらに頬が持ち上がっていく。


 そのときだった。

 頬の内側を、チクッ、と何かが刺すような感覚が襲った。

 ――いたっ!

 顔が歪む。声にもならない音を発しながら、咄嗟に頬を触った。

賑やかだった店内の音が、急に耳の奥でこもった。どこか遠く、まるで自分だけが、別の場所にいるようだった。


 「……どした?」

 隣の友人が、笑いながら顔を覗き込む。


「あ、いや、なんでもない」


 そう答えたとき、ほんの一瞬だけ――友人の目の端に、小さな黒いものが動いた気がした。

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笑み 東村 啓助 @keisuke_higashimura

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