最終話

 朝、蝉の声で目が覚めた。いつもなら目覚ましも鳴らず、布団から出る理由もなかったはずなのに――今日は違う。


 窓の外では、ミンミンゼミが一斉に鳴いている。その声が、まるで俺を起こすために鳴いているように聞こえた。時計を見ると、午前六時半。こんな時間に起きるなんて、いつぶりだろう。


 制服に着替えて、母ちゃんが用意してくれた麦茶を一口。冷たくて、少し甘みがある。昨日の夜、冷蔵庫に入れておいてくれたんだ。「明日から頑張ってね」って言いながら。


 俺は、働きに出る。


 バス停までの道のりが、いつもと違って見える。通学中の高校生たちが制服を着て歩いている。俺も一度は着ていた制服。でも今は作業着だ。恥ずかしいとは思わない。むしろ、やっと自分の場所を見つけたような気がしていた。


 配達会社の倉庫バイト。決して楽じゃない。段ボール箱の仕分け、トラックへの積み込み、在庫管理。体力仕事だし覚えることも多い。でも、やれることをやる。それだけだ。


 最初の一週間は筋肉痛がひどかった。夜になると肩も腰も痛くて、湿布を貼って寝ていた。でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。この痛みは、俺が何かをやった証拠だから。


 同僚のおじさんたちは、最初は俺を見る目が厳しかった。「また若いのが来たけど、どうせすぐ辞めるんだろう」って顔をしてた。でも、俺が休まずに来て文句も言わずに働くのを見て、少しずつ態度が変わってきた。


「クニハル、お前意外とやるじゃないか」って、班長の比嘉さんが言ってくれた。その言葉が、すごく嬉しかった。


 汗をかいて、汚れて、それでも誰かの役に立ってると感じる瞬間がある。荷物を正確に仕分けすることで、どこかの誰かの元に大切な物が届く。そんな感覚を俺は初めて知った。


 今日も、いつものように荷物を運んでいる最中に、ふと思った。母ちゃんが通販で頼んだ薬も、親父が取り寄せた本も、きっと誰かがこうやって運んでくれてるんだ。俺の仕事は、そんな人たちの暮らしの一部になってる。


「お疲れ様でした」


 定時になって俺は倉庫を出た。夕方の空はオレンジ色に染まっている。


 仕事帰り、海へ向かった。サンダルで砂を踏む感覚が、以前とは少し違って感じる。足に力が入ってる。地面をしっかりと踏みしめてる。


 潮の匂い、夕陽の色――全部、同じなのに違って見える。以前は、ここが逃げ場所だった。でも今は、一日の終わりを静かに過ごす場所に変わった。


 波が寄せては返す。その音を聞きながら、砂浜に座った。海風が、汗で湿った髪を涼しく撫でていく。


「……いないか」


 誰もいないビーチ。赤髪の子どもみたいなやつ。キジムナーは現れなかった。


 もう一週間になる。最初の数日は、いつものように現れるんじゃないかと思っていた。でも、今はもう現れない。


「働いたぞ、今日も。……お前が言ってた『ひとつだけやる』ってやつ、ちゃんと続けてるぞ」


 波の音だけが返事をする。


「今日な、班長の比嘉さんが『お前、なかなかやるじゃないか』って言ってくれたんだ。嬉しかった」


 海鳥が一羽、水面すれすれを飛んでいく。


「……なんか言えよ。いつもみたいに、どうせ三日坊主だな、とかさ」


 風が吹いた。優しい、夏の終わりを知らせるような風。その中に、ほんの一瞬だけ、あいつの声が混じった気がした。


 ――よくやったな、クニハル。


 俺は振り返った。でも、そこには誰もいない。ただ、砂浜に残った自分の足跡があるだけ。


「……ありがとう」


 小さく呟いて、俺はゆっくりと立ち上がった。赤い影は、もうどこにもなかった。でも、その温もりは確かに残っていた。


 夕暮れの路地を抜け家に帰ると、ソファに座った母ちゃんが顔を上げた。


「おかえり」


 その声に、妙にあたたかさがにじんでいた。母ちゃんの顔色は以前より良くなってる。検査の結果も思ったより深刻じゃなかった。薬を飲んで、しばらく安静にしていれば大丈夫だって。

 母ちゃんは、俺の顔をじっと見つめた。その目は、優しくて、少し驚いたような色をしていた。


「……手、見せてごらん」


 母ちゃんが俺の手をそっと取った。そこに残っていた汗や土の匂いを、まるで宝物のように確かめるように、しばらく見つめていた。手のひらには、軽い豆ができていた。段ボール箱を運ぶときにできた、小さな印。


「働いた手、だねぇ……」


 そう言って笑ったけど、目が少し潤んでいた。


「こんな日が来るなんてねぇ。……ありがとうね、クニハル」


 母ちゃんの声が震えていた。俺が働くことを、こんなに喜んでくれるなんて思わなかった。


 俺は何も言えなかった。言葉を出したら、多分泣いてしまいそうで。


 母ちゃんは、俺の手をそっと離すと立ち上がった。


「今日は、あんたの好きなカレーにしたからね。たくさん食べなさい」

「……うん」


 そのとき、新聞を読んでいた親父が、ぽつりとつぶやいた。


「弁当な、明日は焼きそばにしようと思ってる」

「……は?」


 親父は新聞から顔を上げずに続けた。


「お前、冷たいそうめんばっか食ってたろ。たまには温かいもんもいいだろ」


 たったそれだけの言葉に、俺の胸はぎゅっと締めつけられた。親父は、俺のことをちゃんと見てくれていた。何を食べてるか、何を好きかを、ちゃんと覚えてくれていた。


「……ありがとう」


 親父は新聞をパタンと閉じて俺の方を見た。その顔は、いつもと変わらず無表情だったけど、目だけは少し笑っていた。


「明日も頑張れよ」

「うん」


 何も変わってないようで、少しずつ変わっていく。それが家族で、それが日常なんだと思った。


 夜、母ちゃんが作ってくれたカレーを食べながら、俺は今日一日のことを思い返していた。朝の蝉の声、倉庫での仕分け作業、比嘉さんの言葉、海での一人の時間、そして家族との会話。


 どれも特別なことじゃない。でも、それが今の俺にとっては、かけがえのないものだった。


「明日も頑張ろう」


 そう思いながら布団に入って目を閉じたとき、不意に涙が一滴だけこぼれた。


 キジムナーはもう見えない。でも、あいつは確かにここにいた。俺の中に、ちゃんと残ってる。あの時の言葉も、笑顔も、赤い髪も。


「お前は今、ちゃんと『生きてる』よ、クニハル」


 あの言葉が、今も俺の胸に響いている。


 ありがとう。じゃあ、俺はもう少し、ちゃんと生きてみるよ。


 窓の外で、夜の虫たちが鳴いている。明日もまた蝉の声で目が覚めるだろう。そして俺は、また働きに出る。


 ―終わり、そしてはじまり。―

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ニート・ビーチ ―赤髪の妖怪は、俺の背中を押してくれた― 2v22 @2v22

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