第4話

 ビーチに着くと夕焼けが海を赤く染めていた。普段なら真っ先に見つかるはずの赤髪の姿が今日もない。


 入院した母ちゃんに会ってきた。「検査だけだから心配いらない」って言葉は、心配されることへの遠慮に聞こえた。あの人は昔から自分のことを後回しにするくせがある。父ちゃんの仕事が忙しくなったときも、俺が学校でトラブルを起こしたときも、いつも笑って「大丈夫、大丈夫」って言ってた。でも今回は違う。顔色が悪くて、歩くのもつらそうだった。


 親父は無言だ。黙ってテレビをつけて、チャンネルを回すだけ。ニュースも、バラエティも、どれも同じように流れていく。あの人は喋ることで壊れそうになるのを知ってるんだろう。俺が小学生の頃に爺ちゃんが死んだとき、一晩中黙り込んでいたのを覚えている。翌朝になって、やっと「おじいちゃんは天国に行ったんだ」って言った。その時の声は情けないくらいに震えていた。


 俺は……何もしていない。ただ、海に来てる。


 いつからだろう、ここに足を向けるようになったのは。高校を中退して、働きもしないで、毎日がただ過ぎていく。友達も、恋人も、何もない。あるのは時間だけ。そんな俺にとって、この海は唯一の逃げ場所だった。


 波が足元を撫でては、さらっていく。誰かの声も、鳥の羽音も、聞こえない。ただ、風の音だけ。静かすぎて自分の心臓の音がやたらうるさく感じた。ドクン、ドクンと、まるで太鼓を叩いているみたい。生きてるって証拠なのに、なんでこんなに重く感じるんだろう。


 砂に足を埋めて遠くの水平線を見つめる。夕陽が少しずつ沈んでいく。オレンジから赤へ、赤から紫へと色が変わっていく。きれいだと思う。でも、その美しさを誰かと分かち合うことができない自分が、急に惨めに思えた。


 母ちゃんは俺のことを心配してる。親父も、きっとそうだ。でも俺は、二人が困ってるときに何もできない。何も知らない。何も持ってない。ただの役立たずだ。


「……よう。久しぶりだな」


 不意に砂浜に影がひとつできた。振り向かなくてもわかる。その声は他のどこにもいない。


「お前、昨日来なかっただろ」


 キジムナーは俺の言葉を聞いて小さくため息をついた。


「お前がひとりで考える時間、必要かなと思ってな」


 キジムナーは、珍しく座らず俺の横で海を見ていた。ふざけた口調も、いつものチャカしもなかった。その横顔は夕陽に照らされて、いつもより大人っぽく見える。


「母ちゃん、入院したんだ」

「知ってるよ」


 キジムナーは俺の家のことをよく知ってる。どうして知ってるのかは聞いたことがないけど、きっと妖怪だからなんだろう。


「……なあ」

「ん」

「俺って、なんなんだろうな」


 自分の声が、まるで自分のものじゃないように思えた。カラカラに乾いた気持ちが言葉になって出た。


「別にさ、特別になりたいとか、立派になりたいとか、ないんだよ。ただ……こんなときくらい、何かできる人間だったら、って思っただけで」


 海風が強くなった。波の音も大きくなって、俺の声をかき消しそうになる。


「お金があれば、いい病院に連れて行けるのに。知識があれば、母ちゃんを安心させる言葉が言えるのに。経験があれば、親父を支えることができるのに。でも俺には何もない」


 キジムナーは黙っていた。しばらくして、やわらかな声で言った。


「お前、できない自分をずっと守ってきたよな。それはそれで立派だと思う。でもな……誰かを大事にしたいって思った時、人は変われるんだよ」

「俺に、できることなんて――」

「あるよ。最初から全部やろうとしなくていい。ただ『ひとつだけやる』って決めれば、それで十分だ」


 キジムナーの言葉が胸に響いた。ひとつだけ。そう、ひとつだけでいいんだ。


「お前の母ちゃん、お前のことを誇りに思ってるよ」

「は?」

「お前が毎日、ちゃんと生きてることを。お前が優しいことを。お前が人を傷つけないことを」


 俺は、キジムナーを見た。その瞳は夕陽の色に染まって、温かく光っていた。


「でも、それだけじゃダメなんだ。生きてるだけじゃ、誰かを守れない。誰かを支えられない」


 波の音が少し強くなった。海風が吹いて俺の髪を揺らす。夕陽はもうすぐ沈む。空の色が、深い紫に変わり始めた。


 遠くでカモメが鳴いた。その声が、まるで俺の背中を押すように聞こえた。


「……働いてみようかな。まだ、なにをやるかも、どこに行くかもわかんねぇけどさ」

「それでいい。そっから始まるやつ、いっぱいいるからな」


 キジムナーは静かに笑った。まるで長い時間、これを待っていたかのように。


「お前は今、ちゃんと『生きてる』よ、クニハル」


 俺は何も言わなかった。ただ、うなずいた。黙って立ち上がった俺を、キジムナーは見ていた。赤い髪が夕陽に照らされて、炎みたいに揺れていた。


 砂を払って振り返る。キジムナーは、まだそこに立っていた。小さな手を振って、いつものように笑っている。


「また明日な」

「ああ、また明日」


 俺は歩き始めた。家に帰って親父と話をしよう。母ちゃんのお見舞いに行こう。そして、明日からハローワークに行ってみよう。小さな一歩だけど、それが俺にできることだ。


 海の向こうで夕陽が完全に沈んだ。でも、心の中には、まだ温かい光が残っていた。

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