追憶の梅雨、さよならの海辺
霜月校長
追憶の梅雨、さよならの海辺
眠りから覚めて耳にしたのは、降りしきる雨の音だった。カーテンを開けると、びしょ濡れになった窓から陰鬱な空が見えた。起き上がってテレビを点けると、画面越しに毎朝出会うニュースキャスターが、今日から関東が梅雨入りを迎えたことを告げた。
梅雨、か。
僕はその単語を、寝ぼけた頭で反芻する。窓の向こうでは、街を溺れさせるような勢いで雨が降り続いていた。僕はそれに顔をしかめる――
毎年この季節になると、思い出すものがある。闇に鳴る潮騒。足裏を撫でる砂。まだ十四歳だった僕の目に映る、非人間的な美しさをもつ少女。
大人になった今でも、彼女のことを憶えている。砂浜に刻まれた足跡はいつか消えてしまうけど、僕の体に残る彼女の温もりは、決してなくならない。
彼女を忘れない――それが、あの時交わした約束だった。だから、僕は今から思い出そうとおもう。改めて、彼女との記憶を焼き直すために。
これは、思春期だった僕が体験した、ある不思議な出来事。淡く儚い、初恋の話。
*
中学二年の六月、僕は入院した。腎臓の病が原因だった。丸二日ほど尿が出ず、出たら出たで血が混じっていた。両親に連れられて行った病院の医師は、急性腎不全という病名を下した。すぐに、治療のため二週間ほど入院になった。
「大丈夫だからね、
年配の看護師が励ましてくれた。最初、僕は寛解という言葉を完治と同じ意味と受け取っていた。だけど後に辞書を引き、自分が患った病は、時として一生付き合っていく必要があるものだと知った。
僕が受けたのは主に投薬治療だった。とはいえ、酷い副作用は起こさず、体調は良かった。腎臓の回復も順調で、家族がお見舞いの時に渡してくれた本を読んで過ごした。
ただ、それでもストレスはあった。両親がいない寂しさと、死に対する過剰な恐怖に襲われた。その結果、僕は不眠気味になり、長い夜を過ごすことが増えた。
それは、例のようにベッドで、夜が去るのを待っていた時だった。わずかに開いた窓から、潮風が流れ込んできた。僕がいた病院は海まで歩いて数分の場所にあった。
そうだ、海に散歩に行こう――僕はこっそり病院を抜け出した。
夜の砂浜は、ひんやりとして心地良かった。その時はまだ梅雨前で、空には星が浮かんでいた。目の前に広がる黒い海が立てる波音で、寝不足による頭痛も和らいだ。こんなに気持ち良いものなら、もっと早く来ればよかった。
浜辺を満喫していると、月が雲間から現れた。青白い月光が海を照らし、引力でも受けたようにそちらに視線が向かった。
次の瞬間、僕は声を失った。なんと、波の中から、一人の人間が跳ね上がったのだ。長い髪と細い身体は流麗な弧を描いて、キラキラとした水飛沫を散らしている。月明りに誘われるように姿を現したその人は、そのまま波打ち際まで泳いで海から上がった。
「なっ……」
僕は衝撃を受けた。それは、浜辺に腰を下ろしたその女性の美しさに心を奪われただけではない。
なんと、彼女の腰から下は、鱗に覆われた尾ひれだった。
「に、人魚……⁉」
思わず声が漏れる。するとそれに気付いたのか、彼女がこちらを振り向いた。
「誰……?」
「あ、あの……」
髪から水を滴らせて、女性が僕を見る。その瞳は不安に揺れていた。僕はどうすればいいか分からず、とりあえず視線を外した。それから再度ちらりと見返すと、今度は真っ白な肌が映った。形の良い
「う、うわあああっ!」
僕はその場から逃げ出した。信じられないほど顔が熱い。驚愕と興奮で頭がぐちゃぐちゃだった。
「……待って!」
だけど、後ろから大きな声で呼び止められた。僕はビクッと足を止め、おそるおそる振り向いた。
「お願い……いかないで」
綺麗な顔を歪めて。必死に声を絞って。彼女は、僕を見ていた。
これが僕と、人魚になってしまった少女、
*
「……それじゃあ、元は普通の人間だったと」
湿った浜辺に腰を下ろして、僕は隣を見た。力なく頷く汐織さんの肩には、薄青の病衣が掛かっている。肌を晒したままでは目のやり場に困るため、僕が着ていたのを渡したのだ。そのため、僕は今、薄いシャツ越しに風を浴びている。
「なんで私……人魚なんかに」
汐織さんが物憂げに呟いた。僕は彼女から聞いた話を今一度整理する。
鴨野汐織。十七歳。この町にある高校の二年生。それが、彼女がまだ人間だった頃のプロフィールだ。
人魚になったのはつい先日。ちょうど、僕と同じように夜の散歩に出掛けて、この海辺に辿り着いた。浅瀬に足を浸して物思いに沈んでいると、突如めまいがして気を失う。次に意識が戻った時には、下半身が尾ひれに変貌していた。
以上が、彼女から聞いた経緯だ。正直、どこをどう信じればいいか分からない。まだ童話の『人魚姫』のように、海底で暮らしていましたと告白された方が、信用できるレベルだ。
「あの……今更だけど、ごめんね。こんな変な話に巻き込んで」
僕が唸っていると、汐織さんが申し訳なさそうに言った。
「そ、そんなことはな……くもない、です」
やはり怪しいものは怪しい。
「だよね。あなた、私より歳下に見えるけど……」
「あっ、僕、十四歳です。
「十四歳……じゃあ、まだ中学生?どうして、こんな夜更けに海に?」
汐織さんが小首を傾げる。当然といえば当然の疑問だが、さっきと立場が逆転した。
「えっと……実は僕、この近くの病院に入院してて」
僕はそれから、患っている腎臓の病と、悩まされている不眠症について軽く話した。
「そうなんだ……司くん、そんな大変な病気に」
「い、いえ!大変って言っても、あと一週間もすれば退院ですから」
今日、看護婦から言われた慰めの言葉をそのまま投げた。
「でも、やっぱり大変だと思う。ごめんなさい、自分の治療に専念すべき時に、人魚になったなんて訳の分からない話をして……」
汐織さんが項垂れる。湿っぽい髪が潮風に流れる姿は、風前の灯火めいていた。
僕の胸を、罪悪感がよぎる。彼女の表情を曇らせてしまった……。
続けて、自分への怒りも湧く。原理はどうあれ、彼女が置かれた状況は僕よりよっぽど深刻だ。ならば一度関わった以上、僕が彼女のために出来ることは何でもやるべきじゃないのか。
「あ、あのっ!」
自分でも驚くほどの声が出た。汐織さんが目を丸めて、僕は羞恥で熱くなる。
「……協力します。汐織さんが、元の姿に戻れるよう。あ、僕なんかで良ければ、ですけど」
声は頼りなく先細る。理性から切り離された感情が勝手に口を動かしているようで、僕は自分自身を制御できなくなっていくのを感じた。
「……いいの?本当に」
「!」
汐織さんが意外そうに僕を見ていた。ぱっちりと開いた両眼に希望が宿るのが見え、僕は勢いよく頷きを繰り返した。
「ありがとう、司くんっ」
きゅ、と手を握られた。汐織さんの手のひらは冷たくて柔らかで、脳の奥に甘い痺れが広がるのが分かった。
「あ……ごめん、つい」
硬直する僕を見て、汐織さんがパッと手を離した。僕は「いえ」なんて呟きながら、もう少し彼女の手の感触を味わっていたかったのに、と悔しい気持ちになったのを今でも憶えている。
「ふぁ……」
その時。不意に欠伸が出た。すると汐織さんは微笑んで、
「司くん、今晩はもう帰った方がいいよ。ゆっくり休んで、改めて気が向いたら明日……って、もう日付変わってるか」
「わ、分かりました!来ます!絶対また明日……じゃなくて、十何時間後に!」
僕が焦ったように言うと、汐織さんは僅かに目を細めて「ありがとう」と呟いた。
「汐織さんは、ずっとここに居るんですか?」
両手に病衣を抱えて訊ねる。一糸纏わぬ姿に戻った汐織さんは、海に再び身を沈めていた。
「どのみち、この姿じゃ家には帰れないから。それに……」
ゆらゆらと揺れる波が、汐織さんの口元を覆い隠す。
「私が居ても居なくても、何も変わらないから」
「………」
妙な爪痕を残す、一言だった。僕はそのまま、尾ひれを翻して夜の海に消えていく彼女を、見送った。
*
次の夜、またしても僕は海に向かった。前回と違うのは、自分が着ている分の他に、病衣をもう一枚と、おにぎり等の軽食を持参したことだった。
「司くん」
さくさくと砂を走っていると、浅瀬の方から声がした。見ると、汐織さんが水面から顔を出していた。濡れそぼった長い髪と、月明りを受けた肌は艶めかしく、同時に神秘的でもあった。暴れる鼓動を悟られないよう近づくと、汐織さんも海から上がった。モザイク画のように輝く尾ひれと、その上の女性らしい体つきから目を逸らして、僕は持ってきた病衣を手渡した。
「あの。これ、良かったら」
汐織さんの隣に座り込み、中身の入ったレジ袋を差し出す。病院の売店で買った軽食が入っていた。
「え?どうして、わざわざ……」
「人魚になって以降、食べてないんですよね。お腹、空いてると思って」
僕が答えると、汐織さんは迷うような表情を見せた。すると突然、ぐぅ、と間の抜けた音がする。僕ではない。チラリと見ると、汐織さんが照れ笑いを浮かべていた。
「じゃあ、お言葉に甘えて……。司くんも、一緒に食べよ?」
「せっかくですけど、遠慮します。治療の一環で、病院食以外は口にできないんです」
「あ……そっか。ごめんね」
汐織さんの声が沈む。僕は失言したと思った。この逢瀬の目的は汐織さんを元の姿に戻すことにあって、病気について僕への同情を引くためではない。だから、早いとこ本題に入った方が良さそうだ。
「僕、自分なりに考えたんです。なぜ、汐織さんが人魚になってしまったか」
おにぎりの包装を剝ぐ汐織さんの手が止まる。
「汐織さん、
「『山月記』……たしか、前に現代文の授業で」
そこまで言って、汐織さんがハッとなる。どうやら僕の考えが伝わったようだ。
「そうです。『山月記』では、詩人になれなかった男、
僕の声が、人気のない浜辺に響く。汐織さんは思案気に海を見つめ、やがて口を開いた。
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心……それが、李徴が虎になった理由だっけ」
「ですね」
僕はコクリと頷く。『山月記』では、自分が虎に変身したことに対する、李徴自身の考察が述べられている。それによると、人は誰しも、心の中に猛獣を飼っている。ここで言う猛獣とは、各人の性情――それも、理性とは遠い本能的なものだ。誰にだって、口に出さずとも心に秘めている醜い感情があるだろう。李徴の場合、まさにそれが臆病な自尊心と尊大な羞恥心だった。明晰な頭脳に恵まれ、詩人を目指した彼は、しかし何も結果を残せなかった。それは、プライドの高さ故に周囲を突き放したように見え、その実、人と交わって比較することで、自分に詩作の才能がないことが露呈するのではという、自らを信じ切れない弱さが原因だった。
「李徴は孤独でした。加えて、独りよがりに夢を追って妻子を貧困に追い込みました。この点で、群れを作らず、他の動物を傷付けて捕食する虎と重なります」
「つまり、心の内側に潜む弱さ、その象徴としての虎に変身した……」
汐織さんが短くまとめた。僕はそこで、問題の核心に触れる。
「汐織さんは、人魚になったのではなく、今まさに魚になっている途中じゃないかって……つまり、汐織さんの心に、何か魚に象徴されるような悩みがあって、それが汐織さんを、今まさに魚に変えようとしている」
僕は結論を述べる。すると汐織さんは、何か思い当たりを感じさせる態度で俯いた。
「そうだね……たしかに、私の心には、魚に喩えられる悩みがあるかも」
汐織さんが呟く。それから、心を静めるように息を吸って吐き出した。
「私、小さい頃に親が離婚したの。それからはずっと、父と二人で暮らしてきた。父は銀行員で、仕事柄、転勤が多かった。だから私も、色々な学校を移り変わった。仲の良い友達が出来ても、すぐにまた転校で別れてしまう。父は仕事で忙しくて、家に帰っても私しかいない。……私には、ずっと、安心できる居場所がなかった」
「そう、だったんですね」
寂しそうに語る汐織さんに、胸が痛む。だけど同時に、なぜそれが魚と関係あるのか、とも思う。
「回遊魚、っているじゃない?マグロとか、カツオとか。あの子たちって、季節や成長に合わせて、色々な海を移動し続けるのよ。どこの海域にも永住せず、一生移動し続ける。そして、止まったら最後、呼吸が出来なくて死んでしまう……居場所を持てない私と、似てると思わない?」
僕は思わず息を止めた。安住の地を持たない……それが、汐織さんと魚に共通する悲しい運命だったのか。
静寂が、辺りを包んだ。ぽつ、と鼻先で水が弾ける。上を見ると、真っ黒な夜空から雨が降ってきた。たしか、今夜から梅雨入りだと、お見舞いに来た母さんが言っていた。
「雨だね。司くん、濡れちゃうから帰った方がいいよ」
汐織さんが優しく言った。平気だとごねたが、それでも彼女は首を振る。
「ダメだよ、病気に障っちゃう。それに、私はもう大丈夫。人魚になった理由が分かっただけでも、凄く助かったから……。服とご飯、ありがとね」
そう言い残して、汐織さんは海へ帰った。空のレジ袋と、彼女の体温が残る病衣を握り締めて、僕は雨に打たれた。
*
次の晩も、僕は海に足を運んだ。雨が酷かったので、病院の玄関にある傘を拝借した。
水平線の手前に浮かぶテトラポットの上に、汐織さんは座っていた。雨の中、綺麗な背中をこちらに向ける汐織さんは、誰かを待っているようだ。
「しおりさーん!」
雨と波の音にかき消されないよう、彼女の名前を叫んだ。すると汐織さんはすぐに振り向き、僕の元まで泳いでくる。
「司くん……今日も、来てくれたんだ」
「雨にも負けず、ですよ」
僕の言葉に、汐織さんは困ったような、だけど嬉しさを隠し切れない表情をした。
「雨凄いですけど、どうします?」
「私はこのまま海に浸かってるよ。司くんこそ、濡れないようちゃんと傘差してね」
「でも……寒くないですか?」
「それが平気なの。多分、体が魚に近づいてるからだと思う」
汐織さんの発言に、ハッとなる。そうだ、彼女はすでに人間ではない。しかも、これから先さらに魚化が進むと思われる。ちょうど、李徴が人としての自我を失って完全な虎になったように。
「汐織さん、あの……」
「どうしたの?」
俯き加減の僕を、汐織さんが見上げる。
「僕、これからも、汐織さんに会いに来ていいですか?たとえ、人の姿に戻れないとしても。せめて、汐織さんがそんなになるまで求めていた居場所に、僕がなっても、いいですか……?」
汐織さんの顔に驚愕が浮かぶ。降りしきる雨粒が海面に叩きつけられ、遠くの波が荒れ狂う音が聞こえた。返答を待つ間、僕の心臓は尋常じゃない暴れようだった。
「司くんって、思わずドキッとする台詞を言うんだね」
僅かな間を置いて、汐織さんが呟いた。
「す、すみません。本ばっかり読んでると、つい……」
「謝ることないよ。すごく……嬉しかったから」
夜闇の中、海に浮かぶ汐織さんの頬に、微かな朱が差す。僕はその返答に安堵すると共に、彼女の可憐さに見惚れて、冷えた体が一気に火照った。
「汐織さん、ぼく……」
好きです、という言葉が喉元まで来ていた。だけど何とか堪えた。多分、そんなことを言われても、汐織さんは困るだけだ。
「ねぇ、司くん」
ちゃぷ、と水音がした。汐織さんが上目遣いをしている。いつの間にか雨は止んで、浜辺には静けさが戻っていた。
「何でもいいから、お話しない?私、あなたのことを、もっと知りたいな」
この時の言葉が、どれだけ思春期の純情を揺さぶっただろう。僕は夢中になって、彼女との会話に興じた。病院に戻ったのは、夜が明けてからだった。
*
それから梅雨が明けるまで、毎晩、汐織さんと過ごした。僕は傘を差して、汐織さんは海に浮かんで、学校のことや趣味のこと、それから、僕はこの話を避けたかったけど――恋愛についても話した。汐織さんは今まで、男子から告白されたことはあっても、付き合ったことはないらしい。それを聞いた僕は、後でこっそり胸を撫で下ろした。
印象的だったのは、二人で紫陽花を見に行ったことだ。病院から海までの道で、紫陽花が綺麗に咲いている場所があって、僕がその話をしたら、汐織さんが見てみたいと呟いた。だけど彼女の足は尾ひれになっているから、歩くことが出来ない。だから僕は、病院の貸し出し用の車椅子を無断で持ち出した。今思えば普通に犯罪だが、この時の僕に躊躇いはなかった。汐織さんのためなら、僕は何だってやるつもりでいた。
「揺れとか、早さとか、大丈夫ですか?」
「うん。抜群のハンドリングだよ」
その晩は曇りだった。僕は汗ばんだ手の平で、汐織さんの乗る車椅子を押していた。足元まである病衣のおかげで彼女の肌は隠れていたが、端の方からは尾ひれの光沢が覗いていた。
「あ」
汐織さんが声を上げる。左方にある花壇に、色とりどりの紫陽花が奥に向かって続いているのが見えた。汐織さんが頬を綻ばせるのが嬉しくて、つい急ぎ気味に車椅子を走らせる。
「こういうお花たちって、誰が植えてるんだろうね」
「さあ……ボランティア、でしょうか」
紫陽花の花弁から、透明な雨粒が垂れる。実際のところ、勝手に道端に花を植えるのって、どうなんだろう。花だって生命だ。一度植えたのなら、枯れるまで面倒を見るのが筋だ。猫に餌をやる人を見ても、同じことを思う。彼らは安易に手を差し伸べるけど、そこに覚悟はあるのか。命あるものに関わることは、それだけ責任がつきまとう。もし、ただの気まぐれだとしたら、それって無責任だ。
「今はこんなに綺麗なのに、梅雨が明けると枯れるんだね」
汐織さんが、青い紫陽花に手を伸ばす。僕はそれを見て、急に息が詰まった。
僕たちも、もう長くはいられない。僕はもうすぐ退院だし、汐織さんもいつ魚になってしまうか分からない。ちょうど、梅雨明けくらいがタイムリミットだろう。
不意に、一つの疑問が生じる。僕は無責任だったのではないか。汐織さんの居場所になるなんて大口を叩いたけど、結局、彼女と一緒にいられる時間は長くなかった。だとすれば、他でもない僕こそが、安易に人を助けようとする、慈善に見せかけた偽善を行っていたんじゃないか。
「司くん?どうしたの?」
僕が黙り込んだので、汐織さんが車椅子越しに振り向いてくる。僕は「なんでもないですよ」と笑って誤魔化した。彼女が何の憂いもなく過ごせる時間を邪魔したくなかった。
*
別れの時は、すぐにやって来た。その夜もまた、僕と汐織さんは海にいた。天が蓋をしたように辺りは真っ暗で、雨がしとしとと砂浜を濡らしていた。長いようで短かった梅雨も、その晩が最後だった。
僕と汐織さんは、防波堤の上に座って海を眺めていた。僕が握る傘の下、お互い濡れないよう肩を寄せ合って。さっきまで響いていた波音は消え去り、今はただ凪いでいる。まるでそれに合わせるかのように、僕たちも無言の時間を過ごしていた。
「僕、退院が決まりました」
雨の間に滑り込ませるように、僕は声を発した。ついに、沈黙が破れる。
「おめでとう。無事に回復して、よかったね。いつ頃になるの?」
「それが、僕次第らしくて……一応、明日にでも出れるみたいです」
「なら、なるべく早い方がいいよ。学校に行かないと、勉強が大変になっちゃう」
「べ、勉強なんて、いくらでもっ!」
思わず声を荒げる。すると、汐織さんは一瞬悲しそうな顔をした。だけどすぐに、いつもの微笑みを取り戻す。
「勉強だけじゃないよ。友達とか、先生とか、司くんのことを待っている人たちが、沢山いるでしょ。だから学校に」
「そんなのどうでもいい!僕には汐織さんさえいれば…」
「家族はどうするの?お母さんは?お父さんは?」
汐織さんの口調がきつくなる。僕は毎日お見舞いに来てくれる親の顔を思い出して、うっ、と言葉に詰まる。
「……そんなの、汐織さんに言えたことじゃない。だって、ずっと家に帰ってないんでしょ?」
つい不貞腐れた発言が出る。だけど、すぐに後悔した。
汐織さんは、帰りたくても帰れない。人魚になってしまった以上、人前に出ることは不可能だから。そもそも、彼女にはもっと以前から、帰るべき場所がなかった。対して、僕には友達がいる。家族がいる。なのに、汐織さんに八つ当たりして……
「……ごめんなさい」
「別に謝らなくても。……でも、そうね。司くんの言う通り、私も、人のことを言えた義理じゃないよ」
僕は目を丸める。汐織さんは自嘲気味に呟いた。
「どうせすぐに転校するんだから、仲良くなっても無駄……そう思い込んで、見えない線を引いてたのは、私だもの。そりゃあ、できる友達もできないよね」
汐織さんはぎこちなく笑う。それから、そっと病衣の襟元をずらした。
「ちょ、汐織さん、何して……」
露わになる白い肌から、僕は目を逸らす。だけど汐織さんは「見て」と促すように言った。僕は困惑しつつも、ゆっくりと視線を動かす。
「……汐織さん、これ」
「そう。だいぶ進行してきたの」
病衣から覗く肌に、鱗のような模様が浮かんでいた。そしてその模様は、汐織さんの鎖骨あたりまでのぼってきている。どうやら、上半身でも魚化が始まったようだ。
「今さら後悔しても、もう、人間には戻れないんだ」
「そんな……」
僕はこの時、生まれて初めて、はっきりと絶望した。
「私、夜が明けたら、海に還るね」
汐織さんが言った。僕は声を失う。
「今晩で梅雨は終わりでしょ?そしたら夏が来て、一気に暑くなる。魚化が進んでいる以上、もう、こうして陸にいるわけにもいかないの」
「じゃ、じゃあ……」
「うん。今夜でお別れ、だね」
汐織さんが瞳を細めた。雨脚は強まり、辺りに濃密な雨の匂いが立ち込める。迫り来る現実に、僕は泣くことすら出来なかった。ただその時、汐織さんが僕にもたれかかってきた。
肩に乗せられた頭から、彼女の髪の毛の香りがした。そこに混じる微かな塩気に、彼女と過ごした海での日々が、一気に蘇った。僕はそこで泣いた。
すると、それが伝播したのか、汐織さんの肩が震え出した。彼女も泣いていた。
*
東の空が、明るくなった。雨も止み、わずかだが背中も汗ばみ始めた。海鳥が滑空して、夜明けを知らせるかのように鳴く。僕たちは防波堤から降りて、砂浜に移っていた。ついに、別れの時だ。
「汐織さん」
ざざぁー、と流れる波が足元を濡らす。朝陽を受けて輝く海に、今まさに入ろうとする彼女が振り返った。
「僕、あなたのことを忘れません。退院しても、学校を卒業しても、大人になっても……ずっと、あなたのことを憶えています」
「司くん……」
「だから、汐織さんも、僕のことを忘れないで下さい。僕は、あなたにとっての居場所にはなれなかった。それでも、ここでの日々は、思い出として残り続けるはずです。僕たちが、それを忘れてしまわない限り」
永遠なんて、はじめから存在しない。物事はいつか終わるし、僕たちは必ず死ぬ。だけど、誰かの記憶の中でなら、永久に近い時間を生きられるはずだ。たとえ汐織さんが世界から忘れ去られても、僕だけは、彼女のことを憶え続ける。それが僕に課せられた責任であり――願わくば、彼女にとっての居場所であれば嬉しい。
「私も……司くんのこと、絶対忘れない」
汐織さんが、声を震わせた。水平線から現れた光が、彼女の背中を照らし上げる。
「絶対、忘れないよ。たとえ魚になっても、どこかの海で泳ぎながら、ずっと、あなたのことを想ってる」
「嬉しいです……僕も、いつまでも汐織さんのことを、好きでいます」
僕の宣言に、汐織さんは泣き笑いを浮かべた。それから、彼女は前に向き直り、海に入っていく。そしてついに、尾ひれを揺らして、泳ぎ始めた――。
「さようなら!しおりさーん!」
僕が大きく手を振ると、彼女も振り返してくれた。涙を滲ませた瞳で、僕は、初恋の人が消える海を見た。
どうしてか、今までに見たどの海よりも、美しかった。
*
こうして、僕の初恋は終わった。あれから十余年、いまだ少年の心を残した僕は、精一杯、大人を演じる日々を送っている。
あの朝以来、汐織さんとは会っていない。だけどこうして、梅雨が来る度に、あの浜辺での日々を回想して。そして、最後には必ずこう思うんだ。
汐織さん。あなたが生きた証は、今でも、朽ちることなく僕の胸に残り続けています。
〈了〉
追憶の梅雨、さよならの海辺 霜月校長 @jksicou
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