尾行(1)
男のそばには女性がいた。
背格好が姉に似ている。細く高いヒールに大ぶりのピアス。長く尖った爪にはグリーンとゴールドのマニキュアが塗られ、左腕には黒い石をはめ込んだ、金のブレスレッドが巻かれていた。
一瞬、肝が冷えたが、顔は全く似ていなかった。姉より十歳は年上に見えた。
二人は、代々木駅から明治神宮の方向に歩いているところだった。
デートでもしているのか、腕を組んで、女は始終笑いながら男に何か話しかけており、男は優しげに微笑んで、なんらか相槌を打っているようだった。
車道を挟んだ反対側からそれを見つけた誠人は、思わず、「ねえちゃんじゃなくて良かった」と思った。
ほっとした気持ちのあとに、まるで嵐の海に放り出されたかのように、気持ちが上下左右に振り回される。
(ねえちゃんじゃないなら、ねえちゃんはもう、こいつのターゲットから外れたのかも……。じゃあ、影を読まなくてもいい……?)
痛いのは嫌だ、やりたくない。
本能に近い部分が誠人に強く訴えている。
(……いや、ターゲットが一人だなんて限らねえじゃん。――でも、ねえちゃんのことは、知り合いだから、諦めたかも――この女の人は……? 影の濃さは三十パーセント。共犯じゃない。ねえちゃんの代わりに被害者になるかも……。でも、もしかしたら本当に彼女かも知んないし――)
ぐらぐら揺れる思考に、まっすぐ立っていることも難しい。
その時、数メートル先にあった、一軒のレストランの前で二人は止まった。
「あ……」
誠人が迷っている間に、二人は中に入ってしまう。
明らかに、デート向きの店だった。
レンガのような壁面に、黒い看板。重厚な扉には金のドアハンドルがついている。
一人でファミレスにだって入ったことのない誠人が、到底入れる空気の店でもない。
立ち尽くした誠人は、店の扉を見つめ続けた。
(……被害者じゃない……。たぶんただの、彼女だ……。俺が何かしなくたって、何も起こらない、平気のはずだ……)
そう自分を説得するも、身体がそこから離れようとしない。だからと言って、店に入り込んでまで彼等を追うこともない。
戻ることも進むことも出来ない。どうすることが正しいのか、自分ひとりでは分からない――。
そう思った時、誠人はふと、この世のすべてに取り残されたような感じがした。
周りの音が、遠くに感じる。
周囲の人間は、立ち止まる誠人を奇異な目で見やっては、存在しないもののように視線を逸らす。
たくさんいるが、誰もいない。
誠人は確かにここにいるが、どこにもいられず、どこにもいない。
やらなくていいよ、頭の中で誠人が言った。
店に入っちゃったんだし、今日はもう、仕方ない。
(ねえちゃんの件は、明日なんとかしよう……)
たとえ今日、あの女性に何かあったとして、それが誠人になんの関係あるだろうか。
男女のどちらとも、知り合いですらない。姉に関わりさえしなければ、気にかけることなどなかったはずだ。
誰も誠人の能力を知らない。誠人が男の危険性を知っていることも、誰も知らない。それだというのに、誰がどうやって、どんな理由で誠人を責めることができようか。姉に被害がないことだけ確認できれば、それで確かに十分なはずだ――。
頭の声に説得された誠人は、ようやく扉から視線を外せた。
一度床に顔を向け、もう一度、頭の声を聞く。
(ただの、彼女だ)
そう思うと気が楽になった。
顔を正面に向け、再び自転車を漕ぎ始める。予定通り、自宅に向かい、代々木駅の方に進んだ。
「……あーっ! くそっ!」
数メートル進んだところで、誠人は急ブレーキをかけた。
強引に自転車を百八十度回転させ、もと来た道に走り出す。
(なんでほんっと……!! 放っときゃいいのに!)
自分の何もかもが嫌になりそうだ。
すぐに怖気づくところも、そのくせ中途半端に逃げ出せない臆病さも、キャパオーバーのことに首を突っ込もうとしている無謀さも、本当に馬鹿だ。馬鹿馬鹿しくて嫌になる。
二人が入った店の近くまで戻った誠人は、店がすぐ見える位置に、ライバル店のコンビニを見つけ、荒々しくそこの駐輪スペースに自転車を乗り付けた。
店内に入り、適当におにぎりと飲み物を購入する。そしてイートインスペースに行くと、一番店の出入り口が見えやすいところを陣取り、購入品にかぶりついた。
(いいよ、そんなら、やってやる!)
結局、弱い自分と付き合っていくのは自分しかいない。
誠人は母に「友達と飯食べてくる」と送り、警察官のように、二人が出てくるのを監視することとした。
***
二人を待つこと二時間。
その間、さすがに店員の視線が辛くなった誠人は、何度か外に出て時間を潰しては再来店した。雑誌を眺め、欲しくもないものを買ってイートインを利用し、視線が気になったら退店する――そんなことを何度も繰り返した。
短時間に何度も来店と退店を繰り返すので、店員は完全に不審者を見る目で誠人を見た。
三回目の来店時には、誠人を見ながら店員同士でヒソヒソ話をしていた。もうあと少ししたら、警察に通報されるかも――と誠人が危惧した頃になって、ようやく男達が出てきたのが見えた。
影が見えた瞬間、恐ろしいと感じるはずが、「やっとこの視線から逃れられる!」とありがたく感じてしまい、自分でも大変遺憾だった。
二人はその後、新宿駅に向かって歩き出した。
少し酒でも入っているのか、女は先ほど見た時より上機嫌で、男に肩を抱かれながら歩いている。誠人もあわてて自転車にまたがり、影が見えるギリギリの距離で二人を追った。
駅に近づくにつれて、人通りが多くなり、ゆっくり自転車をこいでいることが難しくなる。
やむを得ず誠人は、大通りに設置されている駐輪場に自転車を停めた。
二人から極力視線を外さないようにしながら鍵をかけるのは至難の業だった。
幸い、人が多くても影の濃さで見失うことはない。ボディバッグひとつを身につけて、誠人は二人の様子を見守った。
二人は「ダーツバー」と書かれた店に入っていった。
どうやら、誠人はまた時間をつぶさないといけないらしい。
巡回している警察の視線からなんとか身を隠しつつ、二人が出てくるのを待ち続ける。
警察の制服姿を見ているうちに、誠人は、「いつ影を見て、どうやって通報しよう」と、そのタイミングについて考え始めた。
人の多い場所で男が凶行に及ぶこともないだろうが、影を読んだ後、自分がどれだけ動けるのかも分からない。影の内容によっては、いま通報しても動いてもらえない可能性もある。
(どっちにしろ、スマホからは通報できない。俺だって分からないように通報するには――公衆電話)
小学校の時、「街中には必ず公衆電話が設定してある」と聞いたことを思い出した。確か、110番をする際は、小銭を入れる必要もなかったはずだ。
スマホで公衆電話について調べると、公衆電話の設置場所検索サイトがすぐに出てきた。現在地周辺には、二十四時間使える屋外設置の電話ボックスがいくつもあるらしい。その中には、今通ってきた道沿いにも「ある」と表示されている。そうだっただろうか? 言われてみればあったような気もするが……とにかく、読むチャンスがあれば、公衆電話に駆け込もう。
時刻は二十二時をまわっていた。甲高い声が聞こえ、見ると二人が店から出てくるところが見えた。良かった、今度はさほど長くなかった。
女はほぼ出来上がっていた。
歩き方もふらついており、男に支えられながら歩いている。
二人はそのまま、新宿駅構内を通り抜け、東口側に向かっていく。よく歩くなあ、と誠人は思った。
駅を出て、繁華街を通り抜け、北東へと向かう内に、あたりの雰囲気が変わっていく。
人は変わらず歩いているが、周囲に店が減ってきた。
歩いている人々も二人連れ以上だ。誠人のように、一人で歩いている人はたいてい仕事終わりの社会人で、足早にそこから駅に向かっていく人ばかりだった。
こんな時間まで一人で外を歩いていたことがなかったので、周囲で大きな笑い声が聞こえるたびに、誠人は身を小さくした。
影の濃さも闇に紛れて見づらくなってきている。
危険人物が分からないということは、誰にいつ、からまれて、理不尽な目にあわされるか見当もつかず、世の中の人はよくこんな不安の中で生きているなと逆に感心してしまうほどだった。
ようやく二人は目的地についたらしい。窓のない、出入り口もわかりにくい、殺風景な建物の前で二人は止まった。
その入り口で、女が少し、にやにや笑いながら、男の胸を指で押した。
なんだか妙な雰囲気だ。嫌な予感がして、建物の名前をよく見る。そこには『HOTEL』と書いてあった。ラブホテル――さすがの誠人にも、どこだか分かった。
(今しかない!)
いよいよ二人きりになってしまう。幸い、街灯の下で影も読みやすい。たとえ何事もなかったとしても、次出てくるまでどれだけ待てば良いか分からないなんてごめんだった。
急いで先ほどまで開いていた公衆電話設置場所検索サイトを開く。今いる場所にもっとも近い公衆電話を見つけ、そこへの行き方を頭に叩き込んだ。
そして、まだホテルの前で駆け引きを続けている男の方を見て、誠人は集中した。
男の影を、「読む」――!
意識すると、自分の視界がどんどん真っ黒な影に吸い込まれるように、男に近づいていっているのを感じた。
男の着ている服の、その繊維の一本一本。粒子のつなぎまで視界が近付き――誠人は、男の秘密に触れた。
瞬間、影が噴出するように誠人を貫く。
火山の噴気孔に近づいたかのようだ。灼熱と毒気の混ざった情報が、一気に誠人の中を通り抜けた。
目の前に、見知らぬ女性が見えた。
姉にも、今日、男が連れていたあの女性にも、似た雰囲気の女性だった。
女性は裸のまま、後ろ手に縛られていた。
涙で崩れたアイラインとマスカラが、目の下を真っ黒にしている。口には布を嚙まされており、恐怖に震えた瞳が誠人を見ていた。
『助けてほしい?』
自分の後頭部から男の声がする。ひどく優しく、楽しそうな声だった。
『君の友達を、一人代わりに紹介してよ。そうしたら、君のことは助けてあげる』
目の前の女性は驚愕してわずかに硬直し、しかし数秒後に、泣きながら何度も何度も頷いた。
男の笑い声が響いた。
『自分の為に友達を売っちゃうなんて。たいした女だな、お前』
視界に男の腕が見えた。男は、明らかに女物のカバーのついたスマホを手に取り、彼女の方に向けてロックを解いた。
『どれ? どの子を売るの?』
悪魔のような問いかけだ。連絡帳の一覧を見せられた彼女は、男が順に指さす相手に、しばらくして頷いた。
『へー。この子ね。じゃあ、今から、この子に、一緒に遊ぼうって送りなよ。そうだな……渋谷集合がいいな。二時間後にしよう。もし来なかったら――分かるよね。さっき、君の腹に決めたやつ。あれを今度、君の自慢のおっぱいにやってやるよ。どっちが痛いかな? 俺は楽しみだけど』
男の視線が彼女の腹から胸に移動する。彼女の腹には、痛々しいほどくっきりと、赤紫色の痣が残っていた。
彼女は泣きながら首を振った。
『大丈夫だよ。友達がくれば返してあげる。あ、君のママからも連絡がきている。なんて返そうか? 普段は……あー結構、ドライな返事だね。似た感じに返しておくね。それじゃ、行こうか。友達を迎えに。この子、来てくれるかな? 来てくれるといいね』
そう言った後、男は彼女に服を着せ、崩れた化粧をぬぐってやった。
そして肩をしっかり抱きながら部屋を出る。『もし、大声を出したら、君の家まで会いに行くね』耳元で囁かれた内容に、彼女は抵抗する気にもならないようだった。
二人がいた部屋はラブホテルの一室だったようだ。男は自動精算機を利用して、彼女のスマホで会計を済ませ、ホテルを出ると、近くのコインパーキングまで彼女を連れて行って助手席に彼女を乗せた。
乗せる時、男は彼女の履いていたズボンと下着を脱がせた。
下半身を露出させられた彼女は、両手で上着を懸命に引っ張り、陰部が見えないようにしながらおとなしく座った。
しっかり施錠をしたのち、男は車を発進させる。
彼女はずっと下を見ていた。彼女の貴重品も脱がされた服も、座布団のように男が踏んでいる。どうしたらいいかずっと考えているようだった。
そのうち、彼女は顔を上げた。渋谷に向かうにしては、発進してからずいぶん時間が経っていた。誠人も気づいた。男の見ている景色は、いつの間にか、都心から離れているように見えた。
はっとした彼女が男を見る。男は笑った。
『気が変わった。君の友達は、今度にするよ。今日はもう少し、君と一緒にいたいんだ』
絶望的な顔をする彼女に、男の興奮が伝わってきた。
その後は気が狂いそうな記憶だった。
街灯の一つもついていないような山奥に彼女を連れていき、車を停めた後は、全裸にさせた彼女を山の中まで歩かせた。
彼女の足の裏や肌が、石や草木で切れて汚れていく。虫も彼女の肌を刺した。
そんな劣悪な環境で、男は彼女に奉仕をさせた。
気に入らないと彼女を殴り、自分の汚物を食べさせ、泣いて懇願する彼女の指を踏みつけて折ったうえ、最後は彼女に――自分自身で首を吊るように命じた。
震えながら彼女は、自らの首を絞めるための紐を木に結び、その輪に首をかけた。
踏み台から降りろと笑いながら命じられた時、彼女は泣きながら唇を噛み、全身を震わせ失禁した。
男は終始「愉快」と感じていた。
決心できない彼女を嬉し気に見て、『手伝ってあげるよ』と言って、踏み台を蹴った。彼女の首が絞まる。もがき苦しんでいると、枝が折れ、結び目も外れた。
『あー失敗だー』
喉を押さえ、咳をしながら必死に酸素を求める彼女の背中を、男は優しく撫でながら言った。
『もう一回、やり直しだね』
彼女は泣きながら、助けて、と願った。
男は嬉しそうに笑い、返事した。
『俺ね、君みたいに、気の強い女を従わせるのが、大好きなんだ』
彼女はもう、一言も話さなかった。
そうして何度目かのやり直しの中で、彼女はとうとう、息を引き取った。
アウトドアチェアに座り、コーヒーを飲みながらくつろいでいた男は、しばらくの間、物言わぬ体となった彼女のことを眺めていた。
男の胸が満たされていることが誠人にも分かった。
そして、一通り満足した後、男はあらかじめ掘っていたらしい深い穴の中に、彼女を埋めた。
記憶の映像が、すっと波のように引いて消える。
次の瞬間、断片的な情報が目の前をいくつも通り過ぎていった。
男がマッチングアプリで、何人かの女性とやり取りをしているところ。
そのうちの一人に、今日一緒にいる、あの女性がいるところ。
レンタカーを借りて、駐車場に停めているところ。
事前に監視カメラの位置をチェックしているところ――。
そこで映像は途切れ、誠人は現実に戻ってきた。
「はっ……かっ……」
全身の激痛に呼吸が止まる。
吸おうと思っても息が入ってこず、声を出そうとするとうめき声しか発せられない。
酸素不足による目眩がひどく、誠人は地面に崩れ落ちた。
何時間も経っているように感じたが、実際には物の数秒。
誠人の視界の先には、まだホテルに入るか入らないか、楽しそうに攻防している男女の姿がそこにあった。
(通報……)
吐き気が腹の底からせり上がってきた。歯を食いしばらないと意識を失いそうだ。
(通報!)
ついに二人の攻防は終わったらしい。
鼻歌でも歌いそうな女を連れ、男はホテルに入っていく。
咄嗟に、自分の太ももを手のひらで強く叩いた。
全身痛いが、より身近な痛みに集中することで、なんとか誠人は立ち上がれた。
急ぐ気持ちとは裏腹に、めまいがひどくてうまく歩けない。
よろよろと、壁にぶつかり、通行人にぶつかり、罵声を浴びせられながら――。なんとか予定していた電話ボックスになだれ込む。
震える手で、緑の受話器を外し、誠人は必死に、110を押した。即座に、硬い女性の声が「事件ですか、事故ですか」と問いかけてきた。首を振って遠のきそうな意識を取り戻す。絞り出すように、誠人は叫んだ。
「女の人が、ホテルで暴行されてる……! 場所は新宿の✕✕ホテル……。すぐ……すぐ来てください……殺される!」
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