尾行(2)
電話の相手が「あなたはどこにいますか?」と言っているように聞こえた。しかし、それに答えられる体力も気力はもはやなかった。
警察を待っている間、誠人はただただ、不安だった。
もしも、いたずら電話と相手にされなかったら――。駆けつけてくれたとしても、事件を警察が見逃すかもしれない。
尽きない不安に押しつぶされそうになりながら、なんとか、先程のホテルが遠目からも見れる裏路地に身を潜める。
飲食店の大きなゴミ箱と、換気扇の隙間にしゃがみ込んだので、生臭い油と湿ったゴミの臭いに包まれる羽目になった。清潔とは程遠い場所であったが、すでに体調不良の誠人にとっては大した問題ではない。
今すぐ吐きたいし倒れ込みたい。なんなら気を失いたい。
体調面は最悪だったが、最後の力を振り絞って、誠人はじっと、警察が来ることを祈り続けた。
まもなく、遠くから、パトカーのサイレンが聞こえた。
繁華街に突如現れたパトカーは、ラブホテルの前に車を停めた。
到着したの二台。それぞれの車から二人ずつ、制服警察官が降りてくる。いたずら通報を疑ったのか、彼らはホテルを見上げた後、苦笑いを交わしあった。それからゆっくりとした歩調で、ホテルの中に入っていった。
その後の時間が、誠人には永遠に感じられた。
更に間をおいて、二台のパトカーと救急車が到着した。今度は駆け込むように、警官たちが救急隊と一緒にホテルの中に入っていく。
異常な雰囲気に通行人も立ち止まり、興味津々に、ホテルの周りに人集りを作り始める。
ストレッチャーを押した救急隊が出てきた。誰かを乗せている。
ちらりと一瞬見えたその左腕には、グリーンとゴールドのマニキュアに、あの、黒い石をはめ込んだ、特徴的な金のブレスレッドが巻かれていた。
彼女だ――!
野次馬が一斉にスマホを向ける。しかし、救急隊の体に阻まれ、彼女の生死は分からない。
だが誠人には、ゆらゆらと、不安定ながらも確かにそこにある、三十%の彼女の影が見えていた。
生きている!
「ぐっ……げえっ!」
安堵と嘔吐が同時だった。
止めていた息が吐き出されるのを待っていたように、息とともに内臓がひっくり返る。耐えきれず、誠人はそこに四つん這いになって嘔吐した。
(いってええ……!!)
全身がすり鉢ですり潰されているような痛みだ。何度体験しても乗り越えられない。上体を腕で支え続けることも難しくなり、誠人はアスファルトに崩れ落ちた。
額が地面に擦り付けられる。
もはや全身が痛すぎて、自分が立っているのか倒れているのか座っているのかも分からない。
(あー無理無理無理。もう絶対やんない……!!)
こりずにいつもの後悔をして、空っぽの胃の中身を限界まで吐き出し、胃液で服も顔も腕も汚す。
いつもの後悔と少しだけ違うのは、ほんの少し、砂粒のような達成感が、誠人の心を小さく燃やしていることだけだった。
(……でもやっぱ、もう、二度と、やんない、絶対に)
ホテルの前ではまだ、パトカーと野次馬たちが騒いでいるようだった。
そのうち、何人もの警官に囲まれながら、九十%の影の男が、ホテルから出てくるところが見えた。
男の顔は混乱しているようだった。
なぜ自分が捕まっているのか、全く理解できないようで、怒りや嘆き、疑問、落胆を、忙しなく顔に浮かべていた。
自身の苦痛の相手をすることにすっかり疲れてしまっていた誠人は、もうどうでも良くなってしまった。
彼がこの後どうなろうとどうでもいい。実刑判決が下ろうが、釈放されて出てこようが、どちらにしたって、もうこれからは、そう簡単に犯行に及ぶことは出来ないはずだ。それよりも、自転車で家に帰らないといけない。その現実の方が、誠人にとってはよほど深刻で悩ましい事柄だった。
パトカーに乗せられた男は、野次馬の興味本意な視線に見送られ、警察署に向かって去っていった。
一連の騒動が終わった後、徐々に誠人の苦痛も収まってくる。
自宅に帰る億劫さと戦う時が来たようだ。
ため息をつき、なんとか腕で身体を持ち上げる。
腕も口周りも酷い有様だった。通行人の視線が冷たい。
その時、誠人はふと、背後に誰かの気配を感じた。
今の今まで、全く気付いていなかったが、誰かが誠人の後ろに立っており、誠人のことを見ている――そんな気配が後ろにあった。
この時の誠人には、少し、気持ちに余裕があった。
体の痛みは残っているものの、頭を下げるぐらいの力は残っている。おおかたこの店の店員が、店の裏で吐いている誠人を追い払いに来たのだろう。あたりをつけて、誠人は謝罪の準備をしながら、振り返った。
謝罪の言葉は、口から発せられることはなかった。
誠人が振り向いたそこには、ゆうに百九十cmはある、大男が立っていた。
いつもとは、着ている服の系統も、雰囲気も全く違う。
それでも誠人は、彼が誰なのか、すぐに分かった。
ここ最近、誠人のバイト先に出没し、誠人以外の全員を魅了して歩いている――六十パーセントの影を持つ、美貌の男・『神』が、立っていた。
『神』はオーバーサイズの白いパーカーにジーパンを履いていた。いつもよりも随分、カジュアルな格好だった。その上、キャップとパーカーのフードと目深に被り、はるか高みから誠人のことを見下ろしていた。
厚みのある肉体から発せられる威圧感に、誠人は思わず、息を止めた。
「……最高だ」
静かな興奮をもって、『神』の声が響いた。
その声を聞いた瞬間、誠人の全身が総毛立った。
――あの男の秘密の中からは、共犯者は
そうだと言うのに、なぜか、誠人は絶望的な気持ちになった。
誠人の本能とも呼べる部分が、「見つかった」と騒いでいる。
誠人が身構えたことを知ってか知らずか、『神』が一歩踏み出した。
瞬間、誠人は考えるよりも早く――それこそ、全身の細胞が生存本能に向けて一致団結したように――ほとんど反射で、叫んだ。
「わあああああああああああああ!」
叫んだ声の大きさに、自分自身でびっくりした。
続いて飛び出た言葉も想定外の内容だった。
「モデルのユタカがこんなところで密会してるぅううー!!」
言った内容に誠人自身が驚いたのだから、言われた『神』は言わずもがな。大きな体がびくりと震える。
パトカーが去ったことでまばらになっていた野次馬が、誠人の言葉に足を止める。
「え、なに? モデル?」
幾人かが誠人達のいる路地裏に顔を出した。
おそらく、『モデルのユタカ』を知っていて顔を出した者などいないだろう。しかし『神』を一目見た時、彼らは『ユタカ』というモデルが本当にいるかなど、どうでも良くなっただろう。顔こそ伏せていて見えにくいが、完璧な均衡の『神』を見た瞬間、人々は彼がモデルだと思い込んだ。
野次馬が半端にカメラを向ける。『神』の巨体に圧倒され、不躾な真似がしづらい者がほとんどだった。しかし中には、彼の隠された美貌に気が付き、「あの……今から飲むんですけど、一緒にどうですか……?」なんて、頬を染めて逆ナンをする女性も出てきた。一人が近寄ればあっという間に恐怖心が薄れるようで、見る見るうちに『神』の周りには男女問わず、人集りが出来たのだった。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
野次馬は誰も誠人のことなど見ていなかった。気をつけないと踏みつけられそうになるほどだ。
ずりずりと尻を擦りながら後退した誠人は、自分のコンディションを少しずつ確認した。
よし、走れる――! そう確信できた瞬間、誠人はくるりと身体を捻って立ち上がり、脱兎の如く逃げ出した。
一瞬、身につけているボディバッグが誰かに掴まれたような、そんな感覚が身体に走った。
地面からふわりと身体が浮いた気がしたが、振り向くのも怖かった。身体をよじり、なんとか誠人は走り抜ける。
背後に『神』に対する様々な人の黄色い声が聞こえる。おそらく『神』は、人の壁に阻まれて追ってこない。たぶん、たぶん、追ってこない。
そう思いたいが、振り向いたらすぐ後ろにいるような気がして、誠人は最後まで振り向けなかった。
ただがむしゃらに、深夜の新宿を走って逃げた。
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