『Noise』

月白紬

Noise

高橋健太の朝は、ディスプレイに映る誤字を直す作業から始まる。フリーランスの校正者である彼の世界は、この八畳のワンルームで完結していた。社会との接点は、メールで送られてくる原稿データと、たまに鳴る宅配便のインターホンだけ。静寂は、彼の集中力を高めるためのパートナーだった。


唯一の気晴らしは、窓の外に広がる、ありふれた都会の風景を眺めることだった。正確には、風景そのものではない。向かいに立つ、瓜二つの古いマンションの一室。彼の部屋とちょうど同じ高さにある「305号室」。そこが、健太だけのスクリーンだった。


半年ほど前、そこに若い女性が越してきた。カーテンの隙間から垣間見える彼女の生活は、健太の単調な日々に微かな彩りを与えた。朝はヨガをし、夜はアロマを焚く。几帳面で、丁寧な暮らし。健太はいつしか、安物の双眼鏡をデスクの脇に常備するようになっていた。これは犯罪だろうか。こんなことをしては駄目だ。健太は自問する。だが、罪悪感はすぐに軽薄な好奇心とうっすらと隠した下卑た下心に溶けていった。彼女の顔さえ、はっきりと見たことはない。ただ、そこに「彼女の生活」があるという生々しい事実だけが、健太の孤独をわずかに慰めてくれた。


異変に気づいたのは、梅雨寒の続く六月の夜だった。


いつものように双眼鏡を覗くと、305号室の様子が違った。いつもは暖色の間接照明が灯るはずの部屋が、青白い光で不気味に明滅している。テレビだろうか。だが、その光は生命感に欠け、まるで深海の生物のようだった。


翌日も、その次の日も、異変は続いた。カーテンの隙間から、男物のような黒いジャケットがハンガーにかかっているのが見えた。彼女に恋人ができたのかもしれない。健太の胸が小さく軋んだ。その日から、夜中に壁を叩くような鈍い音が、幻聴のように健太の耳に届くようになった。その音は朝まで消えない。


校正の仕事が手につかなくなる。ディスプレイの文字は意味をなさず、ただの記号の羅列にしか見えない。健太は、ほとんどの時間を向かいのマンションの監視に費やすようになった。「彼女を助けなければ」。その妄想にも似た使命感が、覗き見という背徳感を正当化していく。


ある晩、健太は双眼鏡を覗いたまま凍りついた。カーテンの隙間を、長い髪を振り乱した彼女が横切った。何かに怯えるように、両手で頭を抱えている。その背後を、黒い影がゆっくりと通り過ぎた。見間違いではない。あれは確かに、人影だった。


心臓に氷塊が突っ込まれる。通報すべきか。いや、何を根拠に?「双眼鏡で覗いていたら、女性が怯えていました」。そんなことを言えば、まず自分がストーカーとして疑われる、そして捕まるだろう。何もできない無力感が、石の壁のように健太の心を圧迫した。


深夜2時。

下の階から響くような、くぐもった悲鳴が聞こえた。健太はベッドから跳ね起きた。いや、違う。音の発生源は、この部屋ではない。向かいのマンションだ。


健太は双眼鏡に飛びついた。305号室のカーテンが、僅かに揺れている。その隙間の向こう、部屋の奥で、何かが倒れるような大きな物音がした。


もう、限界だった。震える手でiPhoneを掴み、110番をタップする。

「あ、あの、向かいのマンションで…人が、争うような物音が…」


数分後、マンションの前にパトカーの赤い光が滲んだ。健太は向かいのマンションの入口と305号室のドアが見通せる物陰に移動し、双眼鏡を構え固唾をのんで成り行きを見守った。二人の警察官がエントランスに吸い込まれていく。やがて、3階の廊下に光が灯り、305号室のドアの前で止まった。インターホンを鳴らし、ドアをノックする。応答はない。しばらくのやりとりの後、警察官の一人が合鍵らしきものを取り出し、鍵を開けた。


ドアが開き、警察官が部屋の中に消える。健太の額から、冷たい汗が流れ落ちた。頼む、無事でいてくれ。心の中で、名前も知らない彼女の無事を祈った。


十分ほど経っただろうか。部屋から出てきた警察官は、隣の部屋の住人に何かを尋ねているようだった。やがて、彼らは首を傾げながら階下へ去っていった。救急車が来る気配はない。最悪の事態は免れたのか。安堵のため息をつき、こっそりと自分の部屋に戻った。その時だった。


ピンポーン。


部屋に着いた瞬間、部屋のインターホンが鳴った。健太の心臓が、喉から飛び出しそうになる。モニターを覗くと、そこに立っていたのは、先ほどの警察官だった。


「夜分にすみません。通報された方ですね」

ドアを開けると、年配の警察官が穏やかな、しかし全てを見透かすような目で言った。

「向かいの305号室の件ですが…」

健太はゴクリと唾を飲んだ。

「何か、あったのでしょうか」

「ええ、まあ…。ただ、あなたの勘違いだったようですよ」

警察官は困ったように眉を下げた。


「あの部屋、もう五年も空き家なんです」


健太は、警察官が何を言っているのか理解できなかった。空き家?じゃあ、毎朝ヨガをしていた彼女は?あの黒いジャケットは?怯えていた彼女の姿は?


「そんなはずは…。半年前から女性が住んでいました。私は、毎日…」

そこまで言って、健太は口をつぐんだ。「毎日見ていた」と、自らの罪を告白するようなものだ。

警察官は、健太の動揺を見抜いたように、静かに続けた。

「実は、あなたと同じような通報が、過去に何度かありましてね。不思議なことに、全てこの『301号室』の住人からなんです」

警察官の視線が、健太の部屋番号のプレートに向けられる。

「前の住人さんも、その前の住人さんも、皆さん『向かいの部屋の様子がおかしい』と…。皆さん、すぐに引っ越されていきましたよ。まるで、何かに怯えるようにね」


全身の血が逆流するような感覚。健太が見ていたのは、向かいのアパートの部屋ではなかった。この部屋だ。この部屋が、過去の惨劇を、まるでフィルムのように向かいの空き家に映し出していたのだ。健太が聞いていたノイズは、壁や床に染みついた、決して消えることのない記憶の残響だった。


警察官が帰った後、健太は力なくその場に座り込んだ。静寂が、今は恐ろしい。壁の染みが人の顔に見え、エアコンの運転音が誰かの囁き声に聞こえる。ここには、かつて「誰か」がいたのだ。そして、その「誰か」は、まだこの部屋にいる。


ふと、健太はデスクの上の双眼鏡に目をやった。魔が差したとしか言いようがない。震える手でそれを取り、もう一度、向かいの305号室にレンズを向けた。


そこは、がらんとした、ただの暗い空間のはずだった。


だが、違った。


レンズの向こう、暗闇が支配する空き家の窓際に、誰かが立っていた。

長い髪の女が、こちらを、健太の部屋を、いや、健太自身を、じっと見つめていた。

その目は、双眼鏡のレンズ越しでもはっきりとわかるほど、深く、暗い悪意に満ちていた。


女の唇が、ゆっくりと動いた。なにかをしゃべっている?


『次は、貴方』


声は聞こえない。だが、健太にははっきりとわかった。

次の瞬間、双眼鏡のレンズが内側からパリンと割れ、健太の網膜に鋭い痛みが走った。手元から滑り落ちた双眼鏡が、床に乾いた音を立てて転がる。


健太は、もう何も見ることができなかった。ただ、頬を伝う生暖かい液体の感触と、耳元でささやき続けるノイズだけが、そこにあった。


『ずぅっと、見てたよ』


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『Noise』 月白紬 @shin-korori

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