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 すると、拓海兄さんが笑った。落第点だと言った。その意味を知っている。ピアノのレッスンで聞いたことのある言葉だった。


圭一けいいち。だめだな。とっさに抱かれたら、誘拐されてしまう。俺のことを信用しただろう」

「あ……」

「こういう時は大声をあげないといけない。わーーーー!って言ってみろ」

「あ……」

「遠慮するな。わーーーー!」

「あ、あ、あの……。わーーーー……」

「わーーーーー!」

「わーーーーー!」


 ほとんど脅されたようになって、俺は大声を上げた。すると、リビングの隣の部屋から母が出てきた。そして、俺を見て、おかえりなさいと言った。俺はただいま帰りましたと報告し、ペコッと頭を下げた。これが黒崎家の挨拶だ。そう躾けられてきた。黒崎家の一員としての教育だった。


 母は父との結婚話が進行中であり、この時も父が母の説得に来ていた。母は黒崎家に馴染めないと言い、父との結婚を拒んでいたが、俺のためにという説得に負けて、結婚を選んだ。それはこの日の夕方だった。


 お母さんが違うけど兄弟なんだと分かったのは拓海兄さんからの話からだった。彼の母は家を出て行ったのだ教えられた。そこで、母の事を結婚相手にしたいのだと説明を受けた。俺には難しい話題だったと思う。しかし、必要な話だった。俺は拓海兄さんのことを好ましいと思っていた。自分に兄弟が居たら良いと思っていたからだ。


 しかし、兄弟を名乗られたからといってすぐに信用してはいけないと思っていた。しつけの影響だ。砂粒の中から真実を導き出す作業のようで、幼い俺は疲弊していたと思う。そこで、拓海兄さんの笑顔に引き寄せられるようにして、この人の前では安心できる感覚を持った。


「圭一。いい大声だった。そうだな。誘拐犯がお手伝いさんを誘拐するかも知れない。その時がお前が大声を上げないといけない」

「はい」

「俺の前では、“うん”でいいぞ。お父さんの前では、“はい”って返事をしているんだろう?」

「うん……」

「俺のことは信用してくれ。ママも居る。お手伝いさんもいる。お父さんもいる。ああ、そうか。おじさんって呼んでいるのか」

「うん……」


 父のことは“お父さん”と呼べと母から言われていたが、毎日家に居ない男に対してそう呼べなかった。同じマンションに住んでいる初老のおじさんそっくりだったからでもある。


「そうか。今日からお父さんって呼んだらどうだ?お前のお父さんなんだぞ。ママのことはママだって分かっているのか?」

「分かっているよ」

「ママの名前を知っているのか?」

「言わない」

「その通りだ。俺に教えるべきじゃ無いな。俺は知っているんだ。烏丸からすまる真琴さんだ。年も知っている。29歳だ」

「うん」

「ママは真琴さんっていうんだな。お母さんだって分かっているか?」

「お母さんは幼稚園のバスを迎えに来ている人達のことだよ。うちには居ないんだ」

「へえーー。お前には居ないのか」

「うん」

「じゃあ。ママってなんだ?」

「ママの名前だよ。ママはママだよ」

「……」


 拓海兄さんが笑った。それは大きな笑い声だった。その声に驚いたようで、父が隣の部屋から出てきた。さっき母が出てきた部屋だ。話をしていたのだろうと思った。


「おじさん!こんにちは!」

「こんにちは。おかえり。そのお兄さんは拓海という。お前のお兄ちゃんだ。ピアノが欲しかったんだろう。こっちのピアノはどうする?元からある方だ」

「持っていたい!ずっと弾くよ」

「そうか。ピアノだらけだな。もうすぐで新しい家に引っ越すから、もっとピアノが置ける」

「引っ越し?」

「お父さん。まだ決まっていないだろう」

「今日、決める」


 拓海兄さんが父のことを止めた。そして、父が俺に、拓海兄さんと話をするようにと言ってきた。幼いながらにそれは命令だと分かった。優しい口調だが、否と言わせない物を感じた。そして、その父がまた部屋に戻っていった。母と何か話すのだろうと思った。


 当時の俺は母を追いかけなかった。ママというのは同じ家で暮らす女の名前であり、お母さんとは思っていなかった。幼稚園でも母の事を訪ねられるときには、圭一君のおうちの方はという聞き方をされていた。“お母さん”という言葉を使って話題を向けられたことがなく、疑問にも思わなかった。羨ましいという感覚も無かった。幼稚園では授業が多く、集中することが多くて、各家庭の話題が出されなかったせいもあると思う。


 では、行事には母が姿を見せなかったかというと、そうではない。入園式と卒園式、クリスマス会の時には保護者席にいた。それ以外はお手伝いさんが出席していた。それでいいという幼稚園だった。そんな俺は家庭の温もりが足りなかったかも知れない。しかし、この日から、自分の全てを預けられる存在に出会った。それが拓海兄さんだった。

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