貴方へ贈る白い薔薇~思い出の中で

夏目奈緖

1-1

 今から32年前のことだ。俺が拓海たくみ兄さんと出会ったのは、俺が6歳の誕生日を迎えた日だった。幼稚園から帰ってくると、母と暮らしていたマンションの部屋に、見知らぬ男が立っていた。黒崎拓海、21歳だ。そして、時々訪ねてくる“おじさん”がいた。父の黒崎隆くろさきたかし、52歳だ。


 母の名前は真琴まことといい、29歳だった。母は父の愛人の一人であり、モデルの仕事をしていたが、17歳の時に父と知り合い、22歳で俺のことを妊娠した後、モデル業界を去り、父から与えられたマンションに俺と暮らしていた。家の中にはお手伝いさんが暮らす部屋が3部屋用意されており、曜日ごとに変わるメンバーから世話を受けていた。それは母の事もあり、俺のこともある。俺は母から抱かれたことが無く、産まれた頃からベビーシッターに面倒を見てもらってきた。


 6歳の誕生日を迎えた当日もお手伝いさんの付き添いで幼稚園に行き、いくつかの勉強をして、いつものように帰ってきた。3歳から続けているピアノのレッスンの日ではなく、つまらないなと思っていたことを思い出す。


 家には一台のアップライトのピアノが置いてあった。俺の憧れはグランドピアノだった。いつか自分もあのピアノの前に座ってコンサートを開きたいと思っていた。そして、その憧れがリビングに置かれていた。


 どうして家の中にあるのだろう。俺は驚いた。そして、家の中にいた男の姿に戸惑った。幼いときの自分は引っ込み思案であり、人見知りをする性格をしていたからだ。もじもじとしている俺に、その男が笑顔で語りかけてきた。お前のお兄ちゃんだよと。


「お兄ちゃん?」

「そうだよ。拓海っていうんだ。6歳の誕生日おめでとう。お前が欲しがっていたグランドピアノを持ってきた。使ってくれ」

「僕の物なの?」

「そうだよ。誕生日プレゼントだ。まだ足が着かないだろうけど、すぐに大きくなるからいいだろう。椅子に座ってごらん」

「あ……」


 拓海兄さんから抱かれてピアノの前に設置された椅子に座った。ふわりと汗の匂いがした。しかし、臭いなんて思わなかった。お手伝いさんからする女性の匂いではなく、ましてや母の匂いでも無い。父の匂いとも違う。これが拓海兄さんの匂いだと知った。そして、抱かれ慣れていない俺は戸惑い、緊張して動けなくなった。


 俺は日頃から見知らぬ人と話してはならないと、家庭教師やお手伝いさんから言い聞かされてきた。当時は“おじさん“と呼んでいた父からもきつく注意されてきた。誘拐を防ぐためだ。父は人から恨まれる性格はしていないが、先祖代々からの土地と家などの財産を狙って親族間での争いが絶えず、黒崎家の当主として恨みを買っていた。その影響下にいる俺は常に他人に警戒しろと教えられてきた。


 幼稚園にいる大人の男は理事長しかいない。家には女性しかいない。父はたまにしか訪ねてこない。俺のことを抱き上げる男など、誘拐目的の奴しかいない。そう教えられてきたはずの俺は、この時にとっさに自分の身を守れず、不甲斐ない気持ちになった。しかし、家の中にはお手伝いさんがいて、安心していいのだと判断した。

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