第二話 昭和二十年四月二日 萬世橋
臭気漂う風が吹いていた。
普段なら爽やかなはずの春風には、焼け焦げた臭いと確かな死臭が未だくっきりと染みついている。
家々は影のように平たくなって消え去り、黒い柱だけが空に突き刺さっていた。
昼なのに陽は鈍く、遠くで小さく聞こえる瓦の崩れる音だけが、時の流れを感じさせた。
小夜は立ち止まり、空を仰いだ。
――父も、この空の下で戦っている。
あたしもこの荒野で踏ん張って立っていなくては。
そう思わなければ、心が崩れてしまいそうだった。
そんな帝都の真ん中、昼の
この橋を行きかう僅かな人々は、これを無視して通り過ぎてゆく。まるで何もないかのように。みんな自分のことで精一杯だったし、人の死に対してあまりにも慣れ過ぎてしまっていた。
小夜はそれを最初、犬や猫の死骸だと思った。
けれど近づくにつれて、それは同じくらいの年ごろの女の子だと判る。
そして、その死骸はわずかに薄い胸を上下させていた。
生きている。
肌は煤にまみれ、唇はひび割れ、髪は泥を吸って黒く固まっている。
それでも、どうしようもなくきれいに見えた。自分でもよく判らぬ感覚が、胸の奥で小さく爆ぜた。
思わずつっけんどんな言葉が口を突いて出る。その声は少し上ずっていたかも知れない。
「……何やってんの、あんた」
小夜の声に、少女は微かに顔を上げた。
「具合が、悪くて……」
清らかに囁くようなその声に、胸の奥がゆっくりと脈打つ。
死臭漂うこの帝都の中で、突然、ひとの生々しい温度に触れた気がした。
胸の奥で爆ぜた得体の知れない何かが、熱く小夜を支配する。
なぜだろう、ただの哀れみなんかじゃない。女の子をこんなふうに見つめるなんて、絶対におかしいのに。どうかしてる。
ようやくの思いで言葉を吐き出す。
「だからって、こんなとこに転がってても悪くなるばかりだ」
「この辺には詳しくないんです。近くに病院はありませんか」
「病院なんてみんな燃えた。医者なんてみんな召集を受けた。あるのは陸軍の第一
「父は軍の士官でした。案内していただけませんか。お礼はします」
「礼なんかいい」
また口が勝手に言葉を吐く。金を取ったら、それだけの繋がりで終わってしまう気がした。
この声をもっと聴いていたたかった。
可憐な少女は
へちま襟のブラウスも紺の上着も、煤と血でまだらに汚れている。
それなのに、陽に透ける横顔はやけに白かった。
――こんな時に、女の子を美しいと思うなんて。
小夜の小さな胸は、熱い何かに浸食されたかのようにきゅっと縮むのを感じると同時に、理由もなく罪悪感を覚えた。下腹部の奥に重たい何かが沈んでいく。
小夜は芙美の身体を支えながら瓦礫のあいだを進んだ。寄りかかる芙美の身体と触れたところに、痺れるような感覚がまつわりつく。
「がんばりな、あと二十分もあれば着くからさ」
「……はい」
芙美は唇を噛む。震える足で前に進んだ。
しかし、ようやくの思いでたどり着いた病院では、門前払いを喰らってしまう。
「矢嵜慎一海軍少佐? 知るか。ここは陸軍だ。海軍だったら築地の海軍病院に行け。まあ診てもらえるかなんざ知らんがな」
兵士たちの眼は冷えた石のようだった。
どんな人を見ても、どんな死体を見ても、もう何も感じない眼。
「あんたら……」
芙美に肩を貸したままで、歯ぎしりして二人の衛兵をにらむ小夜。
「いいの…… もういいわ花田さん」
「じゃ築地まで行けって言うのかよ。都電だってもうまともに動いてやしないのに、こんな身体じゃ無理だ。もっと悪くなっちまうよ……」
「いいの。少し休めば楽になるわ。お気遣いありがとう」
その弱弱しい微笑みが、焦げた風に吹かれて微かに揺れた。
小夜の心の中にある何かが崩れた。
――父さん。
こんな世界にどうして私を残していったの。
だが、このままこの哀れな少女を捨ておくわけにはいかない。そうだ、静子みたいな目に遭わせるわけにはいかないんだ。
「どんだけ人でなしなんだあんたら!」
叫んだ声は、灰の空に溶けていった。
小夜の胸の奥を支配していた熱が突然噴き上がった。
それが、愛なのか怒りなのか、まだ分からなかった。
▼次回 第三話 第一
次の更新予定
【百合】残花――焦土に取りこされた五輪の花。少女たちは、敗戦後の焼け跡で生きることを諦めない 永倉圭夏 @Marble98551
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