君の顔料の下には
ヨシキヤスヒサ
1.君の顔料の下には
学校帰り、なつきと一緒にカフェ・ポストマンに立ち寄った。
マスターがカウンターの上に何かを乗せて、それを愛おしげに磨いていた。
「レッドウイング。ロットナンバー九〇三〇。ベックマン・フラットボックスさ」
それが何かを聞いたとき、マスターは自慢げに鼻を鳴らした。
一足の、黒いブーツである。
それでも結構、履き込まれているのかもしれない。足の甲の部分には鱗のような履き皺が刻まれており、蝋引きされた靴紐が交差するシュータンは、それが食い込み、盛り上がっている部分が蠱惑的な光を放っている。
なによりつま先の部分やくるぶしの部分。削れたようになったところから、うっすらと美しい茶が滲んでいた。
「なんか、ぼろっちいね」
なつきのひと言に、なぜだか俺もむっとしてしまった。
「ああ、
「
「仕組みを説明するとだね。この革は染めていないんだ。革の上に顔料を塗ってある。履いていくうちに、それがこうやって剥げてきて、元の茶色い革が見えてくるんだ」
「へえ。それ、塗り直さないの?」
「塗り直さないよ。長い年月を履き込んで、ようやく出てきてくれるものだからね。付き合いの長さの証明みたいなもんさ」
なつきは、ふうん、というふうにしていた。
ブーツは一足だけ、持っていた。
ティンバーランドの黄色いやつ。靴紐を緩めて、シュータンをひっくり返して履いている。
お小遣いやお年玉とかを貯めて買ったお気に入りで、真夏日だっていう今日でも履いている。
「これとはまだ五年だ。皺は入りきったけど、
マスターはうっとりした表情で、ブーツを眺めていた。
ふと、自分の履いているティンバーランドに視線を落とした。
眺める。毛羽立った黄色い革。のっぺりして、なんだか味気ない。
この黒と茶のコントラストと比べてしまうと、なんだかがきっぽく見えてしまう。
「ティンバーもいいブーツだよ」
それが俺の顔に出ていたのかもしれない。マスターが苦笑いしながら言ってくれた。
「もともとはアウトドア、というより森林労働者向けのブーツだもんよ。それがニューヨークのヒップホップ・アーティストに受け入れられたんだよね」
「そうなんだ。俺、そこまでは知らなくって」
「俺も昔は履いてたよ。スヌープとかネリーとか聴いてたなあ」
きっとミュージシャンの名前だろう。俺は好きなタレントが履いてたからっていうぐらいだから、わからなかった。
「履いてみていい?あたし、足大きいから、案外いけるかも」
なつきがまた、突拍子もないことを言い出した。
「履けないことはないと思う。紐をきつくすれば、足首が固定されるから」
「やった。へえ。こう見ると綺麗だね。上品な感じ」
「クラシカルな作りだからね。女の子でも似合うと思うよ」
靴紐を結ぶためか、なつきは片足を上げ、座っているスツールに踵を乗せた。
「おい、ちょっと」
言うより、早かった。
ちらりと、見えてしまった。
水色の布。
はだけた胸元の、日に焼けたところと、そうでないところの境界線。
「見んなよ」
不機嫌そうな言葉と、瞳が返ってきた。
「なつきちゃんも、大胆というか、不用心というかなあ」
「マスターも見んなし」
「淑女の恥にはモラルをもって対応するのが紳士の務めだよ」
「は?意味わかんない」
言葉は、耳に入っていた。
でも、どうにもできなかった。
思い出してしまった。
先週の金曜日のこと。
なつきと、ただの友だちではなくなった、あのときのこと。
「じゃあん」
こつこつと踵を鳴らしながら、なつきはくるりと回ってみせた。
「いいじゃないか。なつきちゃん、足が長いからよく似合う」
「えへへ、ありがと。でもやっぱりぶかぶかだね。あと固い」
「ブラック・クロンダイク。特別、固い皮なんだよ。これでも柔らかくなったほうさ。履きたては、履き口のパイプのところが痛いのなんのって」
「なんでそんな靴、履きたがるの?」
「そりゃあもう、
やっぱり、会話は耳に入ってくるばかりだった。
その日はもう、なつきのことを真っ直ぐ見ることができなくなっていた。
なつきの肌の白さ。
知っているのはきっと、俺だけのはず。
君の顔料の下には ヨシキヤスヒサ @yoshikiyasuhisa
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