この神と生者に忘却された慈悲なき転寝の森で、私はまだそれらの内の一つとなりたくはなかった。視界に見える大地の向こうまで永久に続く現実感の無いこの空間で、私はその瞬間唯一生きている者になっていた。私以外の隊員は既に死んでいるだろう。目の前でその全てを断絶された副隊長はともかくとして、隊長と学者はこの瀆神せし凄絶な嫌悪感を催す怪物による蹂躙によって死に至らんとしているわけではなく、その上私はまだ彼らの死をこの目で捉えたわけではないが、しかしその瞳に命への執着から齎される、燃えるような輝きは見られなかったのだ。その上あの毒が、と私が彼らを見捨てて逃げるべき理由を思考しながら、目の前に迫り来る動物的な死の風を感じたところで、私は見落としていた事実の存在に漸く気付いた。このじめついた森に満ち、我々の首を絞めていたはずの不純な空気が消えているのだ。洞窟を抜けた頃から二人を殺した毒虫と胞子がどこにもなくなっており、樹海は静かな弱光だけとなっていたではないか。私はそれが妙に引っ掛かり、それこそが私に残されたコップ一杯の水のように思えた。私は私の中に浮かんだ限りある足掻きの中で、最も容易にできるものを選び、肺の中の少なくなった空気を吐き出すように喉を切り裂くわざとらしい悲鳴を上げた。怪物は何も動じることはなかった。この醜悪な狩人にとって獲物の悲痛な鳴き声はただの音でしかなく、皮膚の切り裂く音や骨の砕ける音と何ら変わらない狩りの音の一つに過ぎないのだろう。怪物は鼻の先にある私という肉の塊を貪ることだけに拘っていた。そしてゆっくりと横に裂かれた顔の穴を広げ、その内側で嵐に吹かれたように暴れる数多の小さく尖った牙を蠢かせた。そのいくつかの隙間から溶けた蝋のように副隊長が垂れ落ち、ぽっかりと開かれた暗い恐怖の空洞からは腐った死の風の突風が吹いた。私の体は動かなかった。そして私の頭蓋を噛み砕かんと開かれた口が私の頭を咥えようと閉じ始めた時、どこからかずるずるとものを引き摺る音が聞こえた。この目の前の怪物から時折聞こえる尾を引く音よりも重く、巨大な音だった。怪物は動きを止め、ゆっくりと私から離れ始めた。そして驚くべきことにこの怪物は、動物らしく、しかしこの森の恐怖の象徴とは思えぬ様子で辺りを見渡して警戒しだした。その双眸からは私のような取るに足らない矮小なものに見せることの無い明確な動物的怒りと敵意が、膨れ上がる野性の炎となって覗いて見えた気がした。そして突然、目の前に二つの物体の衝突があった!流木の如き艶めきと黒さを持つ大蛇が怪物に飛び掛かったのだ。怪物は太い肉の腕から開かれた四つの骨の爪で蛇を切り裂きながらそれと共にごろりと床を回った。大木の蛇は呼吸するように胴体の側面にある穴を広げ、そこから見覚えのある悍ましい黄色の煙を噴出させた。それこそが隊長と学者を殺した、死の霧の主だったのだ。私はそれが毒虫と胞子の漂う忌々しい粉塵であることを知っていたので、それを浴びぬように切り裂かれた鈍重な鉛の身体で地面を這ってその衝突から距離を取った。


 汗が玉となって額や背に浮かび、胴の前面から血を滴らせる傷が焼き付くような痛みが広がる中で、ようやく私が最低限の安心を得られる場所まで遠ざかった私は、あの二つの巨躯を確認すべく後ろを振り返った。その時、間断なき雷鳴が如く、奴らの荒々しく憎悪に満ちた慟哭が辺り一帯に緊張を齎すと、森がそれから逃げるように風が吹いた。視界を遮るものの無くなった私の前には、規格外の悍ましい怪物共の炎のように木々の揺れるコロッセオが、今まさに爆発せんと熱気と威圧を纏った野蛮な決闘があった。首から先がヤツメウナギのようになっている森の大蛇は大地に抉ったような深く広い塹壕を掘りながら恐怖の主へ鞭のように撓う尾を振りかぶり、肉と爪の魔物はそれを怪腕で殴り返している。そしてそれがぶつかる度に、森を轟かす腐乱死体と毒の風が強烈な重力を持って大地へ撃ち落されるのだ。ここに居続けるべきでないことを分かり切っていた私は震える脚で立ち上がり、あの絶望を纏う捕食者がもう一度私に対してその爪を向ける前に逃げ出した。耳を劈く暴力的な闘争に背を向ける直前、あの捕食者が、あの爪痕の主が私を見た気がした。


 そこからの明確な記憶は残っていないが、私は無我夢中であの森を走り続けていたと思う。何度か地響きが鳴り、その度に酷い死の臭いが追い風となって漂ってきたので、それを頼りに私は自分の進む方向を定めた。あれがいなくなると、そこは何もない深閑とした仄暗い森となった。私に安らぎを与える陽光も月光も一切差し込まなかったので、私がどれだけ走っていたのかは分からない。そして走り始めてからずっと後に、私は遂に森の外を見た。森の外で私たちの帰りを待っていた現地の救助隊に対し、私は半狂乱に陥ったまま、自らの身を脅かした悪夢について支離滅裂に語ったようだが、常識を覆されることをひどく嫌う保守的な現実主義をこよなく愛する者たちは、私のそれを神経症患者の怯えと共に吐き出される妄言であり、彼らにとって一考に値しない戯言に過ぎないものと解釈したようだった。私は森の中に一週間ほど滞在していたようで、それが原因で気が違ったのだと診断された。隊長と学者の現状についてを告げたことは何度もあったが、彼らが森の中に入ったり木々の中を調べることはなかった。彼らはあれについて知っているわけではないようで、森に対しては恐怖よりも畏敬の念を抱いていた。森へ立ち入らない理由も、森の神秘を穢すことを恐れているのみであったのだ。


 私は今でも断言できる。弾け飛んだ副隊長の血肉の練り混ぜられたものの断片が私の頬に張りついた時、あの動物的な温度が張りついた時、あれが現実の紛れもない惨劇であったことを!私の正気と理性に深く巨大な爪痕を刻んだ怪物は、今もあの森にいる。油のような涎で牙の生え揃う口内を満たしながら、あれは次の獲物を待っているに違いない。でなければ、今私の脰に触れる忌々しい死の風の持ち主こそ

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爪痕の主 手帳溶解 @tatarimizu

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