三
薄暗い森の中を行く当てもなく孤独に走り続ける。霧のように薄く漂う光が森を微かに照らし、虫の鳴き続ける中を脇目もふらず、森を出るためではなく未だ姿の知らぬ殺戮者から逃れるために絶大な疲れと狂気を背負って足を動かした。木々の合間を蛇行し、或いはぐるぐると周り、どこまでも続く時間の失われた樹海を逃げ続けた。しかし、それが私を見逃すことは無く、あの忌々しい醜悪な風が背後から私を捕え続ける。大きく重い足音が何度も轟き、狂える森に恐怖と悪夢を齎す。虫たちは自らの身を案じて沈黙を守り、吹き上がる光の霧も風に呑まれて消し飛んでいく。この不可思議な森は私と同じように、それを恐れているように思えた。私を追う者に怯えて光が更に弱弱しくなり、視界も悪くなってきた頃、とうとう私は一歩も歩けなくなるまでに至ってしまった。身体を休めるために固まって生えた木々の中に身を隠し、繁茂する野草の裏側から闇の向こうから響く地ならしを眺めた。大地を踏みしめる衝撃がずっと遠くにあった木々の隙間の暗闇から聞こえ、それは二呼吸もしない内に木陰の一つ隣にまで迫った。私は自分の一切を悟られぬよう息を殺し、影に徹した。恐怖と威圧で震える身体を強引に冷たく柔らかい地面に押し付けて、状況の変化を知るための目以外を全力で縛り付けた。よく耳をすませば、一つ一つが土砂崩れのように空気を揺らす足音に混じってずるずると重量のある肉の塊を引き摺る音が聞こえた。私が命を預けるように隠れた数本の木の群れの前をゆっくりと真っ黒な巨躯が闊歩していく。通り過ぎていくまでのたったの数秒が永久に引き延ばされて、その瞬間だけ私は異常なまでの神経質な思考に囚われていた。自らの鼓動にすら苛立つほど、私はそれに怯えていたのだ。しかし私の微かな筋肉の痙攣にすら気付いたか、或いは光や音に頼らない感覚を持っていたのか、それはこの森に残された僅かな私の安息の領地に目を付けた。巨大に凝固した生々しい肉の塊が鞭のように撓い、この現実感の喪われた朦朧の森を構成する万物を巻き込みながら私の潜む微かな影を蹂躙する。木々が千切れて風に舞えば、その残骸がため込んだ光の霧を噴き出して辺りの色をより鮮明な濃淡に変えた。そして赤黒く濡れた鋭い爪が光を掻き、私は突風のように吹き込む狼狽と後悔、身体を芯から冷やし凍えさせる恐怖と共に、遂にそれを目の当たりにした。
二本の腕と二本の脚、私の呼吸の一片すら見逃すまいと血で染まった皮膚の無い顔の正面で丸く見開かれた二つの円らな瞳。その下には肉を引き裂いたように大きく開いた口があり、その巨大に空いた血肉の穴の中には、未だ消化されず怪物の口腔に飛び散っていた友人の小さな塊がいくつも残っていた。小さく尖った無数の犬歯はどれも黄ばみ、涎と血で濡れ、その一つ一つが私を穿ち削り、原型の面影の一切を破壊するまで咀嚼せんと気味悪くがちゃがちゃと蠢く。嫌悪される死肉の匂いを漂わせる圧倒的な肉の巨木から伸びる腕の補足避けた繊維の合間から数本の骨が零れると、それは新たな鋭い爪となって傘のように広がった。背後には金属のような光沢を見せる轢き潰した肉と血のこびりついた緒が地面を扇状に抉っている。何より恐るべき事実は、それがただの動物であることだった。鋭く欠けた木の一片を弾き、刃や爆炎すらも通さないであろう鎧の如き肉の胴も、何もかもを引き裂き打ち砕く血濡れの爪と怪腕も、矮小な二足歩行の知的生命体を圧倒し恐怖させる醜悪な姿も、鋭く尖った大量の牙も深淵と絶望へ続く口内も。何もかもが運命と動物的本能によって偶然にも仕立て上げられた普通の進化の成果でしかないのだ。この森の、悍ましいと人に言わしめる者の全てがこの巨躯の王にあった。私は理解が出来なかった、我々にとっての日常であり母とも父ともいうべき偉大なる大地、しいては我らの尊き母星がこの生命の冒瀆者を作り出したとは!ここは、どれだけの奇特な性質を有していようと只の森に過ぎなかった。この森が、或いはこの星の運命というものが何らかの過ちで生み落としてしまった私の眼前に立つ生来の殺戮者こそが、この森を恐ろしき死の闇たらしめているのだ。それが腕を大きく振り上げて私に叩きつけた時、私は動くことが出来なかった。決して遅くはなかったが、回避することが全く想定できないほどのものではなかったにもかかわらず、私は防御もせずにその衝撃を受け入れてしまったのだ。視界が意味を成さない色彩を捉えて、身体が宙に浮かんだ。私はうつ伏せで見覚えの無い木の下にいた。急になだれ込んでくる息の詰まる苦しさと全身を炙るような痛みに喘ぎを漏らしながら、遠くから伝わる振動を感じながら私は慎重に起き上がった。身体のどこか複数の場所が骨折していたと思う。そしてその時初めて、私は自分の胸部から腹部にかけて浅く大きな傷がつけられていることに気が付いた。衣服の前面も血でべっとりと濡れており、そこから突き刺すような痛みが体内に響く。その赤色を見れば、そこから血が流れ出るほど死が近付いているような生々しいものが感じられた。それ自体にもはや恐怖は無かった。死は消滅であると私は思っているからだ。私が歯を震わせるほど恐ろしく感じていたのは、今急速に迫り来るあれの鈍重な足音だ。あれは副隊長のように一瞬で私を殺さなかった、私に対する警戒を不要なものと判断したのだろう。故に今から行われるのは奴にとっての単なる遊びで、意味の無い蹂躙だけだ。苦痛と絶望を全身に浴びながら、私は私自身の実在を否定して全てを無かったものとしたかった、夢であることを願った。これから起こる地獄を知りたくなかったのだ。真の恐怖とは、死ではない「終焉」に対する星の子としての本能的理解である。故に恐怖とは、思考から至るものではなく、認識から至るものだ。見ること、聞くこと、触れることと同列に位置する人間の機能なのだ。それが再び私の前に姿を見せる直前、頭の中で引き摺り出されたのはある男と交わした短い討論から切り出された数分の記憶だった。
「―――つまり、その動物には抵抗できないということですか?」
「ええ、ですから獲物を捕らえる脚力や狡猾に騙す小細工は必要ないのです。獲物は勝手に絶望し、自ら「殺してくれ」と希ってくれますから」
「では、どうすれば狙われた獲物は助かるのでしょう」
「そうですね、ありきたりな言葉ですが、重要なのは諦めないことです。煮え滾る溶岩に半身を焼かれながら、希望を抱いてコップ一杯の水を被るようなものですが」
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