八月の渡り廊下
@Shinsapporotaro
八月の渡り廊下
昼休みの終わりを告げる鐘が、校舎の奥でわずかににぶく揺れた。
蝉の声は濃く、雲は薄く、太陽だけが分厚い。
理科室へ向かう渡り廊下にはまだ誰もいない。窓枠に指を掛け、押し広げると、むっとする熱気といっしょに草いきれが押し寄せてきた。遠くで草刈り機のエンジンがうなり、切り払われた草の青い匂いが乾いた床をすべり、私の頬にまとわりつく。
――ここには、夏だけが残っている。
そう思った瞬間、幼い記憶がふっと重なった。
小四の終わり、祖父の畑で麦わら帽子を拾った午後のこと。川面に跳ね返った光が、人の声より鮮烈に胸へ刻まれた日のこと。蒸し暑さと草の匂いは、その記憶の輪郭をいまも正確になぞる。
私は制服の袖で汗をぬぐい、深呼吸を一つ。
理科準備室のドアを開けると、薬品棚の間をすり抜ける風が白衣の裾を揺らした。ホルマリン瓶の向こうで水槽のメダカが銀の矢のように走り、壁の温度計の赤い糸が三十五度を少しだけ超えている。教卓には先に来ていた倉橋が腰掛け、ガラスビーカーに水を注いでいた。
「今日は酸素の発生実験だってさ」
彼はビーカーを光にかざし、身じろぎもせず水面を見つめている。倉橋の横顔は、汗が一筋だけこめかみを流れていて、蝉の声より静かだった。
「賑やかな方が、酸素も増えるんじゃない?」
私が冗談めかして言うと、倉橋は小さく笑った。
午前の授業で使ったガラス管を洗い終えたころ、クラスメイトたちがようやくぞろぞろ入ってきた。扇子であおぐ者、首の後ろにタオルを挟む者。誰もが汗を光らせているが、不思議と声は弾んでいた。夏の疲れと高揚が同じ重さで肩に乗っている。
先生が到着し、実験が始まる。過酸化水素水に触媒を垂らすと、ほどなく細かな泡が立ち、ガラス管の先で水面がゆっくりと押し上げられる。泡が弾けるかすかな音。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
私たちはガス瓶を覗き込み、目に見えない気体を目撃し、その名を確認する。先生の声が説明を続けるあいだ、私は窓辺の熱気を感じながら耳だけをそちらへ向けた。
「酸素は無色無臭。しかし、火が近づくと――」
ガラス瓶に差し込まれた火のついた線香は、一瞬だけ赤く燃え上がり、すぐに細い灰だけを残した。教室の空気もまた、何かがゆっくり燃えているようだった。
放課後、机に広げた実験ノートには、測定値とスケッチの間に小さな汗の染みが残った。倉橋は窓際で鞄を閉じ、私に視線を送る。
「渡り廊下、寄っていくか」
うなずき合って、誰もいなくなった廊下へ踏み出す。夕方の蝉は昼より低く、長く鳴き続ける。陽射しは傾き、窓ガラスに田んぼの緑と空の白が重なっている。
「今日は特別暑かったね」
私がつぶやくと、倉橋は手すりに肘をつけて外を眺めた。
「暑いけど、一年でいちばん透明な匂いがする」
「透明な匂い?」
「刈りたての草と、夕立前の土の匂い。混ざると透けてるみたいだろ」
彼の言葉に耳を傾けると、たしかに風の温度は少し下がり、空気は甘い土埃を含んでいた。
とつぜん西の空で雲が裂け、遠い稲光が白く走った。地平のずっと向こうで起きているのに、一瞬で私たちの影法師を長く伸ばした。
雷鳴はまだ届かない。渡り廊下の床板だけが、わずかに軋む。
「夕立、来るかもね」
私が言うと、倉橋はポケットから折り畳み傘を取り出して振ってみせた。
「実験の後始末もしたし、帰ろう」
校門までの道を歩くあいだ、風に混じる湿った匂いが少しずつ強くなる。坂を下りきると、アスファルトの端に小さく雨粒が跳ねた。
「走る?」
私が問うと、倉橋は肩をすくめた。
「走るほどの距離でもないさ。それに――」
言葉を切った瞬間、ぶあっと大粒の雨が降り出した。私たちは顔を見合わせ、同時に笑った。倉橋の開いた傘の下に頭を寄せ合う。傘を叩く雨音は、昼の蝉時雨と同じリズムを刻んでいた。
校門の外、バス停の屋根の下で息を整えていると、湿った風が背後から吹き抜けた。振り返ると、渡り廊下の窓がまだ一枚だけ開いている。そこから漏れるオレンジ色の光は、雨粒を金色に染めながら静かに揺れていた。
――夏は、そこに置き忘れられたままなのだろうか。
私は頬に触れた雨粒を拭い、傘の外へ手を伸ばした。冷たい水は指先で跳ね、また地面へ戻る。
「八月は、もう半分過ぎたんだね」
私が言うと、倉橋はバスのライトを眺めながらこくりと頷いた。
「でも、まだ間に合うよ」
その言葉の意味を、私は聞き返さなかった。ただ、走り去るバスの後ろ姿を目で追いかけ、雨音に混じる蝉の声の切れはしを探していた。
やがて雲を裂く稲光が、もう一度空を白く塗り替えた。私たちの影は伸び、縮み、それから闇に溶けた。
八月の渡り廊下――そこに残った夏は、次の鐘が鳴るまで眠り続けるのだろう。
八月の渡り廊下 @Shinsapporotaro
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