見えないけれど

幸まる

瓶の中から

煮沸消毒された清潔な瓶に浄水を入れ、麦芽シロップとグラニュー糖を溶かす。

オイルコーティングなしのレーズンを入れて、同様に消毒しておいた蓋を閉める。


骨ばった固い指は、意外にも繊細に動く。

几帳面に日付と時間を書いたラベルを、真っ直ぐに、丁寧に貼り付け、彼は瓶を覗き込んだ。


瓶の中をしばらく見つめ、柔らかく目を細める。


「元気に育てよ」


たった一言だけれど、そこには愛情が滲む。

それが合図であったかのように、黒いシワシワのレーズンの周りで、見えない何かが目覚めた。




あいをください。

しんせんなくうきとともに。

じゅんすいな あい を。


いつも。

いつでも。

あいしてください。


わたしたちは生きているから。




◇ ◇




身支度を整えて、更衣室から厨房へ出てきたまさるは、店長がニマニマしながら手にした瓶を揺らしているのを見て、呆れたように眉を上げた。


「店長、ま〜たやってんスか」

「おう、おはよう」

「おはようっス。それ、知らないヤツが見たら不気味っスよ」


店長は半眼になって将を睨む。


「いいんだよ。店のモンしか見ないだろ」

「まあそうっスけど、店頭ホールバイトのあやちゃん、この間微妙な顔して見てたっスよぉ?」

「え、そうなの」


店長は持ったままだった瓶を、もう一度だけゆっくりと円を描くように揺らしてから、名残惜しそうにそっと棚に戻した。

中には、薄い飴色の液体が半分程入っていて、水分を吸って膨らみ、色が抜けたレーズンが浮いている。

隣の瓶にはリンゴの皮。

こちらはもっと色が薄い。

棚には他にも、中身の違う似たような瓶が十本近く並んでいた。


これらの液体は、店長の育てている天然酵母液だった。



ここは、個人経営のベーカリー心麦コムギ

シャッター街となっていた小さな商店街で、地域活性化の一環で、補助金付き店舗を貸ししているところに飛びついて、早八ヶ月。

周りに若者向けの個性的な店舗が集まったことが追い風となり、売り上げはまずまずの伸びだ。

専門学校を出たばかりの将や、大学生バイトの意見を聞いて、商品の見た目に“映え”とやらを意識したのも良かったらしい。


大手ベーカリーチェーンで十二年働いて、ようやく手にした自分の店。

こだわって作ったパンを美味しいと言って食べてもらえるのは、何よりの喜びだ。

だからこそ、次の美味しさもこだわりたい。


それがこの自家製天然酵母で、かれこれ半年近く試作を重ねている。




冷蔵庫から薄型コンテナ番重を取り出し、一晩寝かせておいた生地を作業台に出しながら、将は軽く肩を竦ませた。


「ぶっちゃけ、オレはあんまり天然酵母パンって好きじゃないっスけどね」


発酵機ホイロから出した天板の上で、慣れた手付きで焼成前の仕上げ作業をしながら、店長は軽く眉を上げた。

低温発酵させた生地は仄かな発酵臭がする。


「なんでだ?」

「なんか独特じゃないっスか? ちょっと酸味があって、食感もしっかりしすぎてるっていうか。第一時間がかかって面倒じゃないっスか」


パン作りに多く使われるイースト菌も、同じ酵母菌ではあるが、パン作りに最適な物を選別して人工的に培養されたものである為、発酵力は安定していて扱いやすく、クセが少ない。

今この天板に並んでいる生地は、イースト菌を使って作られたものだ。


対して、天然酵母と呼ばれるものは、自然界の野生酵母だ。

様々な酵母菌が混ざっている為に、発酵力にはばらつきがあり、その味わいも様々。

クセを掴めば風味豊かな味わい深いパンが作れるが、慣れないと扱いには手こずる場合もある。



焼成待ちの天板を業務用オーブンに次々と差し入れると、店長は棚に並んだ瓶の内、ちょうど使い頃の一瓶を取って開ける。

プシッと小さくガスの抜ける音がした。


「日本人は柔らかくて甘味のあるパンが好きだからなぁ」

「まあ米の国ですからね」


日本人の傾向として、しっとりもちもちとした食感と、甘みのある生地が好まれることは分かっている。

米を主食とする為か、パサつき、モサモサとして口中の水分を取られるようなパンの人気は、前者よりは低い。


天然酵母で作ったパンは、大体保湿力が高くてしっとりしている。

劣化してパサつき始めるのはイーストで作ったパンよりも遅く、食感としては日本人の好みに近い。

しかし、日本人向けに改良を重ねて来た今日こんにちのイーストパンに比べれば、やはり好まれない傾向にあるようだった。



「それでもな、天然酵母のパンって、“なんだコレ、すごく美味うまい!”って思うようなインパクトがあるんだよ」

「インパクトっスか」

「そう。その日の調子を見ながら時間かけて育ててさ、ここ!っていうタイミングで生地が出来て焼けた時は、他の比じゃなく良いパンが焼けたと思うんだよね」


瓶の下に澱が溜まった天然酵母液をそっと混ぜ、網で濾して計量する。

梅雨入りして、ここ数日は雨続き。

晴れて乾燥している時よりも、僅かに量を減らす。

店長は粉の入ったステンレスのボウルに液を流し入れ、愛おしいものに触れる手付きで利き手を差し込む。


「時間かけた分、気持ちが入るってことっスか?」

「まあ、それもあるけど……。とにかくさ、いっつも同じじゃないんだよ。日によって発酵具合が変わってさ、ちょっと宥めてみたり、様子見て空気をよく入れたり応援したりさ」


指先で混ぜ合わせた生地は、続けてヘラと手の平を使って軽くまとめる。

イーストの生地と違って長く捏ねはせず、そこからの発酵を気長に見守る。


「上手く導けているようで、思うようには行かない。本気で向き合って、時間をかけて分かり合うっていうか……、上手く言えないけどさ、なんか人間くさいんだよな。そこが愛おしいの」


ボウルに濡れ布巾を掛けながら、どことなく照れくさそうに言った店長を、手を止めた将が顔を歪めて見た。


「……なんか、店長がしょっちゅう彼女に振られる理由が分かった気がするっス」

「ああ〜ん?」

「パン屋には良いかもしれないっスけど、彼氏がじゃあ、気持ち悪いっス」


ピキッと店長のこめかみに青筋が浮く。


「お前、ボーナスカット決定」

「え! ちょっ、まっ! 店長、冗談っスよ!」

「い〜や、本気だったね」

「いやいやいや、職人ベイカーとして尊敬してるっス、店長っ!」

「嘘くせぇ!」



ブーッ、ブーッというオーブンのブザーが鳴ると同時に、「おはようございまーす」とホールのアルバイトの子が顔を覗かせた。




◇ ◇




「うん、お前、綺麗だな」


閉店後、一人になった厨房で朝仕込んだ生地を覗き込み、思わずうっとりと漏れた自分の声に、店長は苦笑した。

はあぁ……と深く息を吐いて、丸椅子に腰を落とす。


将に言われた通りだ。

自覚はある。

パン作りに向けるだけの愛情や熱量を、自分は付き合う相手に向けられた試しがない。


働いている姿を知っているなら理解してもらえるかと、一度見習いで入った女性と付き合ったこともあるが、結局別れた。

「パンに向ける程優しい目をして見つめられたことがない」というのが、決別の言葉だった。


「……仕方ないよなぁ。好きなもんは、好きなんだ。理屈じゃないんだからさ」


独りごちて、作業台に突っ伏す。 


厨房に残る、嗅ぎ慣れた発酵臭と粉の香り。

それに混じる、微かな香ばしさ。

身体は疲れているのに、心地良さを感じる。



好きなことに、理由はない。

惹かれる時は、どうやったって惹かれてしまう。

コントロールなんて出来ないのだ。

発酵を始めたら、完全には止められない酵母菌のように。


「生きてんだもんな、お前も、俺も」


ボウルの側面を指先で撫で、眠気にウトウトしながら見上げる棚の上。

透明瓶の液体の中で、小さく小さく、泡が揺れた。





ありがとう。

いつもあいしてくれて。


あなたにも。

あいをあげる。

わたしたちの あい を。




外の密かな雨だれの音に混じり、小さな泡が弾けるように、くすぐったいような、微かな声が聴こえた気がした……。




◇ ◇




「うまっ! 店長、これ超美味いっス!」

「だろ!? ほら見ろ!」


翌日の閉店直後、試作で丸く焼かれた天然酵母パンを頬張って、将が興奮気味に言えば、店長は満面の笑みで彼の肩を叩いた。


「今回は渾身の出来だと思ったんだ! これが毎回作れるようになれば、店にも出せる」

「お先に失礼しまーす。……あ、いい匂い」

「あ! あやちゃん! あやちゃんも試食してみて!」


バイトの女子大生あやが片付け終わって挨拶に顔を出したので、店長は大きく手招きして、カットしたパンを差し出した。


タイミングが合えばこうして試食させてくれることはあるが、店長と将が二人揃ってこんなにテンションが高いことは珍しい。

あやは期待して、一欠片手にして口に運ぶ。

パクリとかじって目を見開き、咀嚼してキラキラと輝かせると、店長を見上げた。


「とっても美味しいです店長! 私、これすごく好きっ!」

「おっ、あ、ありがとう」


向けられたストレートな感情に、店長は一瞬喉の奥が詰まった。



……うん?

今のなに?


棚の瓶の中で、プチリ、と泡が笑うように弾けた。





《 終 》




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見えないけれど 幸まる @karamitu

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