32話:春の日の点描
安賀多先輩は文芸部を出るときに部活に顔を出してくると言っていたが、それすら小一時間前のことだ。
会えるかどうかは微妙な情勢と言わざるをえない。
と、私が文芸部のある2階にたどり着くと、階段のほうに安賀多先輩がやってきた。
そこでちょうど、下校時間のチャイムが鳴った。
チャイムが鳴り終わると、
「チャイム鳴ったよ」と安賀多先輩は笑った。
「先輩は帰らなくていいんですか?」
「だからいま帰るところ」
「部活はどうしたんですか?」
「ちょっとだけ早く抜けてきた。まだ数日こっちにいるから、また来られるし」
「そうですか。ところでですが――」
「いや、待って」と安賀多先輩は言った。「まずさきに私の話を聞いてもらってもいいか?」
「いいですよ」
「今日の依頼、なにか落としたことがあるだろうか。これは質問というよりは確認だ」
「いえ、依頼内容は十全です」
「だろうね。わたしもそう理解している」
「ぼくにとっても意外なんですが、その意味のない質問は意味がある気がする」
「きみにも意外なことがあるんだね」
「あったみたいです。それで、先輩の話は終わりですか?」
「そうだね。悪かった」と安賀多先輩は言った。「きみはなにを言おうとしていた?」
「先輩はなぜこんなところに?」
「もっともだ。なんだろうね、本当に根拠はないんだけど、なんとなく文芸部に戻ったところだ」
「部活を早く抜けて?」
「そうだね」
「安賀多先輩、ぼくはあなたのことを好いています」
「……ん? ん?」
「冷静な分析は難しいが、つまりぼくはあなたに性的興味を含む意味で好意を抱いているということです」
「それは……意外だね?」
「意外ですか?」
「だって意外じゃないとダメじゃない? 意外よりほかに形容のしようがない気がするが」
「ダメってことはないでしょう」
「告白については性的な部分以外はありがたく受け取っておくよ」
「性的については早瀬莉子の感情のくだりで先輩が言ったんですよ」
「それはそうだけど、いまのはきみの願望だろう?」
「可能な限り正直に言ったまででそもそも現時点の願望というわけではありません。ただ、先輩の回答がどういう意図かわからない」
「意図ねえ」と安賀多は言った。「意図を答える前に今度は確認じゃなくて質問していい?」
「その質問は先輩の回答の変数ですか?」
「いいや。変数じゃなくてコミュニケーションだね。他人を試すほどわたしは自分を高く買っていないし、安く売ってもいない」
「なるほど」
「そんなにすましこんで。とても好きだ、と書いてあるよ」
「すでに宣言していることです」
「そっか。では、質問。きみはわたしのどんなところが好き?」
月並みだ、と私は思えなかった。
私の世界はいま、なにも解き明かされておらず、私自身が事象をなにも類型化出来ていない。
経験則など実感の前ではなんの役にも立たない。
「安賀多先輩はぼくにとってとても具体的なんです。実感がある。なぜだかはわからないが、安賀多先輩はそこにいるんです。
たとえばですが、学校の前には坂がありますよね?
バスで来ないかぎりはなかなか骨が折れる。
淡田彗星が雨の中原稿を抱えて走れば濡れるのもわかる。
そんなことは当たり前の実感としてあるんですよ。登校するたびに坂を登るし、下るんだから。
坂はそこにあるんです。
でも、これがそうですね……たとえばですが、海抜100メートル、歩いてコンビニに買い物に行く気も起きない、部誌が『雲海』、田舎の海沿いの工業都市、とかいう情報を漫然と与えられたとしたらどうでしょうか?
情報を与えられた者は学校につく前に坂があると想像するでしょうか。
海辺の街の高台にこの学校があることは考えれば誰でもわかるし、なにも隠さずに漫然とした情報が与えられています。
考えればわかる。
でも、坂をだれもかれもが実感できるわけではない。
事実、ここから窓の外を見れば、海が遠くに光る絶景なのに。
この目の前の情報は、ぼくには実感があるが、情報だけでは実感はわかない。
ぼくにとっての世界はいわばそういうもので、坂があることに考えれば至るわけですが、それでも学校につづく坂を登るということに実感がない。
世界はぼくにとってそういう実感のなさをともなうものなのに、安賀多先輩はぼくにとって実感ある坂です。
情報密度はほかと同じはずなのに、なぜか具体的にそこにいる感じがする」
「口説き文句として坂のようなひとだというのは類型化しにくいね」
「このぼくでさえもよくわかりません」
「ただ好意の具体的内容を伝えられているということはわかる」
「なによりです」
「でも、なぜわたしに対してだけは実感があるんだろう? つまり、わたしはなぜきみにとって特別なの?」
「実感に論理性なんてありませんよ。ぼくがそう思った。それがすべてです。総体としての話であって、細分化したところで意味がない」
「きみらしいが、きみらしくない」と安賀多先輩は笑った。
「では、強いてわかりやすいラベルを貼るとすれば、あなたに会った瞬間に実感は生まれました」
「それは一目惚れじゃないか。きみからはいちばん遠そうなのに」
「会った瞬間はべつに恋をしたわけじゃないので一目惚れではないですけどね」と私は言った。「ただし、いくばくかの好意を最初から抱いたことを否定するわけではありません」
「まあ、わたしそれなりにかわいいしね?」
「通常ぼくはルッキズムには与しないが、それは個人的な感情を抑制するものでもありません。極度に個人的嗜好を述べていい場合であれば、醜美の判断を述べることはある」と私は言った。「つまり、かわいいという意味です」
「まわりくどいな」
「かわいいですよ」
「なるほど」と安賀多先輩は言った。「しかし、わたしは卒業するんだけど、きみはそういうことを考えないのか?」
「まったく。ユークリッド距離だろうがマンハッタン距離だろうが、考慮には値しないですね」
「早瀬莉子氏にはすくなくとも1年は耐え難い時間に思えたみたいだよ」
「なにしろぼくと先輩には積み上げた時間がない」
「明確な相違点だ」と安賀多先輩は言った。「しかしだね、鴫沼住春くん。こういうときには名前で呼んでくれるほうがわたしは嬉しい」
「やりなおしを求めていますか?」
「せっかくだしね」
「瀬奈さん、ぼくはあなたのことを好いています」
「名探偵もひとつ推測を外したね」と満足そうに安賀多先輩は笑った。
「あのときは『現状では、ぼくがあなたのことを安賀多先輩以外に呼称しないであろうと推測されるため』と言いましたよ」と私はわずかばかり抵抗を試みた。「……まあ、予期せぬ事態になったことは認めますが」
「じゃあ、こういうのはどうだろう?」と安賀多先輩は私の見苦しい抵抗には触れもせず言った。「明日デートに行こう」
「行きたいところはどちらが選びますか?」と私は部活の活動日を休む理由を考えたが、無論些事だ。
「明日は1日空いてるからね、ひとつずつ選んだ場所に行こう」
「フェアネスを感じます」
「なによりだよ」
そして私たちは、どちらからともなく握手をした。
ちなみに翌日に私たちは動物園で別れ際にキスをしたが、それはプライベートにすぎるディテイルなのでこれ以上語る必要性を感じない。
<了>
チルチルウェイストランド 毛玉 @moja
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます