高慢な案山子

てゆ

高慢な案山子

「兄ちゃん、ピクニック楽しかったね!」

 汗の滲むおでこを俺の二の腕に押しつけて、虎太郎こたろうが言った。夏休みの初め、頭の上で目玉焼きが作れそうなほど熱い日差しの中、俺たちは歩いていた。

「こいつの名前、なんにする?」

 肩から提げていた黄緑の虫かごを持ち上げて、羊太ようたが俺に訊く。コクワガタの暴れ回る姿を見て「ハッスル君」と言ったら、ダサいと一蹴されてしまった。

「荷物持ち、そろそろ交代しようか?」

 青信号が点滅している。一人だったら渡っていたけど、まだ小一の虎太郎のことを思ってやめた。

「いや、これくらい大したことないよ」

 リュックを背負い、レジャーシートを脇に挟んだ辰人たつとは、険しい表情で首を横に振った。

 高二の俺(風馬ふうま)、十五歳の美兎みと、小五の辰人、小三の羊太、小一の虎太郎。俺たちは五人兄弟で、その名前はみんな干支に由来している。と言っても、統一感のために付けられた名前なので、それぞれの動物と本人とは全くの別物だ。

 ペットボトルに入れて行った水道水は飲み切ってしまったので、俺たちは近くの公園に行って水分補給をした。あの水飲み用の噴水を羊太が指で押さえて、スプリンクラーのようになった水が辰人に掛かった。羊太を捕まえて思い切りくすぐる辰人を、俺は少し離れたところで微笑ましく見つめた。

「兄ちゃん、向こうに自販機あったよ?」

 俺の服の裾を引っ張り、虎太郎が上目遣いで言う。俺が無言で首を横に振ると、虎太郎は「オレンジのファンタ……」と小声で呟き、ションボリとした。

 本当はここまで節約しなければならないほど貧乏でもないけど、小さなヒビ割れがガラスに幾筋もの雷を降らせるように、少しの気の緩みも破綻に繋がる可能性がある。

 それはそれとして、虎太郎の上目遣いが日に日に上手くなっていくのは、とても辛いことだった。


「兄ちゃん! 謎の女が倒れてる!」

 俺たちの三歩ほど前を歩いていた羊太が、こちらを振り向いて叫ぶ。

「えっ?」

 いつもなら「女って言うな」と注意するところだったけど、その声が切迫した感じだったので後回しにした。

 駆けつけると、そこには俺と同い年くらいの女の子がいた。バス停のベンチに仰向けになって、手をダランと地面に垂らし、青白い顔をしていた。

「大丈夫ですか?」

 程度は違うけど、弟たちの面倒を一人で見ていたら、こういう非常事態はそこそこの頻度で起こる。だけど、やっぱり慣れないものだ。心臓は、膨れてしぼんでを繰り返す紙風船みたくなっている。

「えっ……ああ、らいじょー……うん」

 今の彼女とは対照的な、フレッシュなレモン色のワンピースの胸が苦しそうに上下する。静脈の浮き出たまぶたで目を覆ったまま、彼女は答えた。

「辰人、俺のスマホで救急車を呼んでくれるか? この子、熱中症みたいだから。電源ボタンを素早く五回押すんだ」

 辰人にスマホを渡し、リュックからペットボトルを取り出す。あの公園で補充してきて良かった。えーと、このベンチは日陰だから、移動させる必要はないな。

「水、飲めそうですか?」

「いや」

「じゃあ、冷やしますね」

 まずは頸動脈の通っている首、次に裾や袖をめくって太ももや二の腕に掛けた。そうして空になったら、羊太にペットボトルを渡し、車道を挟んだ向こうの公園で補充して来るように言った。

「辰人、まだか?」

「ああ、ご、ごめん、兄ちゃん。パニックになっちゃって」

 彼女と同じくらい、辰人は顔面蒼白になっていた。

「そうだよな、ビックリするよな。じゃあ、俺がやるよ」

 そして、辰人からスマホを受け取った時、彼女が何か呟いた。耳を近づけて訊き返す。

「……救急車は呼ばないで」

 彼女は寝返りを打ってこちらを向き、俺の袖を掴んだ。

「どうしてですか?」

「……母に、母に怒られるから」

 頬が引き攣っている。

「何を言っているんですか? 最悪、死ぬかもしれないんですよ?」

「……お願い」

 さっきよりも強い力で、袖をグッと引っ張られる。その時、彼女は初めて目を開けた。

 瞳孔と見分けがつかないほど黒い虹彩と、影の世界に生えるススキみたいな長いまつ毛が、特徴的な目だった。ずっと見ていたら、吸い込まれてしまいそうだ。

「……わかりました。でも、悪化したら呼びますよ」

 俺が答えると、彼女は再び仰向けになって、袖から放した手を自分の胸の上で組んだ。その顔がとても安らかに微笑んでいたので、俺は彼女から何か得体の知れない闇を感じた。


 十時に布団に入ると、弟たちは三十分も経たずに寝息を立て始めた。老人ホームに夜勤で勤めているお母さんは、日曜日の今日も休日出勤で家にいない。

『今日、シルバがチョコレートを食べちゃってさ、急いで獣医さんのところに行ったんだ』

『大変だったな。シルバは無事か?』

『うん、元気だよ。動画送るね』

 彼女の真夏日まなかと取り留めのないラインのやり取りをしながら、俺はベンチに倒れていたあの子のことを考えていた。図書館での勉強中、バスの中に財布を置き忘れたことに気づいて、営業所まで走っている途中に具合が悪くなったらしい彼女。「行きの運賃は別の小さなポーチに入れていまして、几帳面なのが裏目に出てしまいました」と、病み上がりの青白い顔で笑っていた。あの後、「では、取りに行ってきます」とフラフラ歩き出したけど、無事に家に帰れただろうか。

 そうこうしているうちに、ドアが静かに開いた。

『じゃあ、今日はもう寝るな。おやすみ』

 スマホを閉じて、うつ伏せの体を起こした。薄ピンクのリネンのパジャマを着た美兎が、今日もドアの前で心もとない顔をして立っている。そんな顔、しなくていいのに。

「食器は下げたか? 歯は磨いたか? 布団は敷いたか?」

「うん」

「じゃあ、寝ようか」

 枕を持って立ち上がった。本当は五人全員で眠れたらいいけど、布団を横に二枚敷いて、ウナギの蒲焼きの串みたいに寝るこのスタイルだと、四人が限界なんだ。

「今日はピクニックして来たんでしょ?」

 木のフレームと和紙で作られた正方形のペンダントライトが、俺たちを見守っている。カーペットとゲーミングチェア、デスクトップパソコンのせいで忘れがちだけど、この美兎の部屋は和室だ。

 豆電球の緑の光を反射して、寝ぼけた柴犬みたいな美兎の目が光っていた。

「そうだよ。美兎もついて来れば良かったのに」

「いや、あたしは……」

「怖がる必要なんてないよ。みんな喜ぶと思う」

 こんな会話をこれまで何度繰り返して来ただろうか。解けなかった問題を同じ式で解こうとしても何も進展しない、そんなことわかっているのに、俺はまだあるはずのない計算間違いを探している。

「そういうことじゃなくて、あたしが、あたし自身が……みんなを見ていると、みじめな気持ちになるの。ね、もう何度も言わせないで」

 でも、今日はこれだけでは終わらない。ずっと前から考えていて、やっと実行する踏ん切りがついたんだ。

「……実は今日、俺は美兎と高校の話をしようと思ってる。同級生はもう中三なんだから、そろそろ考えないとまずいんだ、本当に。別に普通の高校にこだわらなくても、通信制だって立派な選択肢だぞ? そこだったら、近所の子はほとんどいないだろうし、クラスメイトと関わる機会も少ないだろうからさ」

「学歴なんて、中卒でいい! あのね、お兄ちゃんが思っているよりも鉄川てつかわっていう名字は珍しいし、お父さんが起こした事件は有名なんだよ? ……どうせ、どうせ逃げられないよ」

 美兎は俺の肩を掴み、涙と怒りでグチャグチャになった顔で言った。こんな短い時間でここまで変わってしまうなんて、まるで空気に曝されたアルカリ金属みたいだ。

「でも、美兎は看護師になりたいんだろ?」

 乱れる心を律して訊くと、美兎は俺の目を射るように見つめた。高速道路を走っている時の景色みたいに、驚きや失望や悲しみといった感情が代わる代わる目に映った。

 そして最後に空っぽになると、美兎は俺の胸に顔を埋めて、肩を思い切り叩いた。

「だってさ、誰が人殺しの娘に看護して欲しいと思うの?」

 そう呼ぶにはあまりにも細くて弱かったけど、あれは間違いなく美兎の叫びだった。

 俺は何も言わずに美兎を抱きしめ、その頭を撫でた。美兎が眠るまで撫で続けてやろうと思った。

「……何があっても兄ちゃんが守ってやるから」

 天井からオブラートが落ちて来る。横を向いて美兎を抱きしめている俺に、ちょうど重なる形で落ちて来る。

 このオブラートはとても分厚く、てっぺんでは、家族みんなの心臓が穏やかに拍動している。俺がここを抜け出そうものなら、失敗したテーブルクロス引きみたいに、みんなが落ちて酷い目に遭う。

 ……辛くないと言ったら嘘になるけど、大丈夫。俺はこの子たちのお兄ちゃんだし、あの男と違って「強い人間」だから。


 その日、俺は真夏日の夏休みの宿題を手伝うため、彼女の家まで歩いていた。静かな住宅街を一人で歩くのは退屈だけど、取り留めもなく色々なことを考えて、思考を自由にできるのは好きだった。

 通りかかった公園で、小さい女の子がお母さんと遊んでいた。「年長さんくらいかな?」とか、「俺もボール遊び好きだったよな」とか思った後に、俺は幼い頃の真夏日を思い出した。


〈真夏日、どうしたんだ?〉

〈あ……あのね、花ちゃんたちと一緒に、一緒に遊ぶ約束してたのに、誰も来ないの〉

〈……そうか。じゃあ、俺が代わりに遊んでやるよ〉

〈えっ、いいの? やった!〉

 あの頃の真夏日は人との距離感が上手く掴めておらず、友達にくっつき回っては嘘の約束を伝えられて、この公園でおいおい泣いていた。

〈もうあいつらの言うこと信じるなよ〉

〈そんなのダメだよ。もしも花ちゃんたちが本当に私と遊びたい時、私が待ち合わせ場所にいなかったら、悲しくなっちゃうでしょ?〉

 俺の助言に真夏日は必ずそう返した。「その悲しい思いを、あいつらはお前にさせてるんだぞ?」と一度言ったことがあるけど、そしたらまた泣き出して止められなくなったので、それきりだ。いつも新品の服を着ていて、陸上を始める前で色も白かった真夏日は、当時の俺にとって「お嬢様」のような存在で、「この子を守るのが俺の役割だ」と暗に思っていた。


「ねえ、この問題って、どう変形すれば公式が使えるようになるの?」

「風馬君、わたしも小数のかけ算わからなーい」

 この前は運良く外出中だったけど、今回は真夏日の小学五年生の妹、小春ちゃんも一緒だった(彼女は真夏日より勉強が苦手だから、教えるのもより辛い)。

 二人は「おおかみこどもの雨と雪」と同じ名付け方で、九月の終わりの真夏日に生まれたから真夏日、十一月の小春日和に生まれたから小春だ。

「一気に言わないの。風馬君、困っちゃうでしょ」

 チャカチャカ家事をしていた真夏日のお母さんが、アイランドキッチンから身を乗り出してそう言った。

 真夏日と小春ちゃんは隣同士で、俺はその向かいの席だ。ふと二人の顔を見比べてみたけど、相変わらずよく似ている。特に、目尻の切れ込みの深い、沈んでいく下弦の月みたいな目がそっくりだ。

「風馬は大丈夫なの? 勉強、しなくても」

「ああ、まあ。俺は真夏日と違って頭がいいからな」

「そっか、将来は科学者になってノーベル賞を取るんだもんね。今の賞金は一億二千七百万円だっけ? 二人で山分けしようね」

 組んだ手の上に顎を乗せて、真夏日がニコリと微笑む。記憶力は悪いのに、どうしてこんなことは正確に覚えているのだろうか。

 すれ違った可愛らしい犬を目で追って、「ワンちゃんも可愛いよね。風馬はどんなワンちゃんが好き?」と訊く時、庭にぞうさんジョウロが置いてある小綺麗な家を見て、「こういう家、素敵だと思わない?」と訊く時、真夏日はこの柔らかい笑顔を見せてくれる。

「そうだな」

 科学者になんて本当はなれっこない。だって俺は、高校を出てすぐに働く予定だから。だけど、このことを言ったら、真夏日はきっと俺のことを心配して、俺の不幸を嘆いて、この柔らかい笑顔も見せてくれなくなる。俺はそれが嫌なんだ。

「おっ、シルバかな」

 ふと足元に生き物の温かさを感じ、俺は椅子の下を覗き込んだ。アメリカンショートヘアのシルバが、「遊んでくれ」と言わんばかりに俺の足に体をこすりつけていた。シルバは猫にしては珍しく人懐っこくて、しかも真夏日よりも俺に懐いていた。

「私も交ぜてよ」

 ストーブの前であぐらをかいて猫じゃらしで遊んでいると、真夏日も勉強を中断してやって来た。脇の下に手を差し込み、腕をツイストドーナツのように絡めて俺の手を握る。俺が猫じゃらしを渡した後もずっと。真夏日はスキンシップが好きだった。

 お互いに半ズボンで近くに座っているから、ふくらはぎが触れ合っている。中学の三年間は陸上をやっていて、高校からはダンス同好会に入っている真夏日のふくらはぎは、ボロニアソーセージのように日に焼けていて張りが良かった。


 その日の帰りも、俺は真夏日の家で過ごした楽しい時間を思い返していた。家庭環境の違いから、真夏日の家には俺の家では見られない色々なものがある。今日ご馳走してもらった昼ご飯の、あのペスカトーレというパスタなんか良い例だ。本当に美味しかったから、下の子たちにも食べさせてあげたい。確か、ベースはトマトソースのスパゲッティで、具材としてイカとかエビとかアサリが入ってたよな……だけど、今は魚介類も高いから……。

「……はあ」

 気がついた時にはため息をついていた。実のところ、真夏日の家から帰る時はいつもこうなんだ。楽しくて幸せだったのは確かなのに、無茶な姿勢で眠っていたみたいな軋むような痛みが心に残る。

「……今日も行くか」


 その帰りも、俺はホームセンターに寄って、ペットショップの犬や猫を眺めた。「できるだけお金の掛からない方法で、頭の中をリセットできる方法はないか?」と考えた結果の発明だ。

「うーん、可愛いねえ。君はポメかな……ああ、フサフサしてる」

 犬猫は種類に関わらず好きだった。知っている人に見られたら恥ずかしいな、とスリルを感じながら、俺はみんなとお話をした。

「おいおい、友達のこと引っ掻くなよ」

 プレイルームと名付けられた大きいゲージで、黒猫と白猫がケンカしていた。店員を呼んで止めてもらおうと思ったけど、今はリラックスの時間なのでやめた。せめて今だけは、完全な傍観者でいたかったのだ。

 やがて、負けた黒い猫はゲージの中を逃げ回った。だけど、白い猫は執拗に彼を追いかける。

「……ああ、もう。仕方ないな」

 俺は結局、店員にケンカのことを伝えた。右の頬に佐渡島みたいなシミのある中年の女は、ダルさを隠し切れていないビジネススマイルで裏手に回り、黒い猫を元のケージに戻した。喧嘩両成敗でどちらも戻すか、白い方を戻すべきだと思ったけど、そこまでは言わなかった。

 こちらをじっと見つめる黒い猫に「バイバイ」と言って、俺はペットショップを後にした。そして、その時だった。

「こんにちは」

 驚いて振り向く。そこに立っていたのは、手にドッグフードの袋を持った女の子、ちょうど一週間前に熱中症になっていたところを助けた、あの子だった。

「奇遇ですね。あの後、無事に家まで帰れましたか?」

「いいえ、まだ勉強の時間だったので、またバスに乗って図書館に行きましたよ。今日も家に帰ったら勉強です」

 彼女は光のない目を俺に向けた後、すぐに頭を直角に下げて礼を言った。両方のこめかみから始まった太い三つ編みが、襟足のところで合流して一つの塊になっている。そう言えばこの前も、この古代ギリシャの女性みたいな髪型だった。

「いえいえ、別に大したことじゃないですよ。お母さんとの関係が大変なのは察しますが、今後は体に気をつけてくださいね」

 言い終えて背を向けると、彼女は小走りで俺の隣に並んで来た。

「自己紹介がまだでしたね。私は美園みそのマリア、高校二年生です。『美』しいに花園の『園』で美園、それにカタカナでマリアと書きます」

 ライトノベルに出て来るお嬢様みたいな名前の彼女は、こちらに人懐っこい視線を向けていた。心の中では早く離れたいと思っていたけど、端から無下にする冷たさも持ち合わせていなかった。

「へえ、偶然ですね、俺も高二です」

「そうなんですか。ところで、お名前は?」

 体が反射的に強張って、咄嗟に偽名を使おうと思った。だけどその時は、何の脈絡もなく「こんな華奢なお嬢様に何を怯えているんだ」という自分への怒りが湧いて、堂々と本名を言った。

「鉄川風馬です。アイアンの鉄にリバーの川、ウィンドの風にホースの馬で、鉄川風馬」

「鉄川さんですか、よろしくお願いします」

 そんなやり取りをしたところで、彼女がレジに行ったので一時中断。

「この間、一緒に処置をしてくださったのはご兄弟ですか?」

「そうですよ。弟が三人、あの時は居合わせていませんでしたが、妹も一人います」

 話を再開すると、俺たちは話しながら外に出た。ホームセンターの外はあの日と同じ晴天で、少し遠くの景色はグルーブに乗っているようだ。だけど今日の彼女は、ほぼノースリーブのブラウスに、つばの広い帽子を被っているので大丈夫だろう。

「そんなに多いとお世話が大変じゃないですか?」

「まあ、そうですね。うちは母子家庭なので余計に。毎日ドタバタしてますけど、みんな良い子なので楽しいですよ」

「母子家庭?」

 彼女の表情を観察する。……大丈夫だな、自然なリアクションだ。美兎はあんなことを言っていたけど、バイト先の人だってリーダー以外は知らなかったわけだし、実はもう忘れている人の方が多いのかな。

「それを聞いた後では言いにくいんですが、私、一人っ子だから、そういう生活って少し羨ましいです。良ければ、もっと詳しく聞かせていただけますか? 例えば……そう、マクドナルドにでも行って。親への言い訳は考えておきますから」

 改めて思うけど、元気になった彼女はとても目力が強い。あの虹彩の黒さと合わさって、面だけがよく磨かれた縁の鋭い黒曜石みたいだ。

「そうですね……美園さんが良いなら、行きましょうか。下の子たちの夕飯を作らないといけないので、あまり長居はできませんが」

 振り返れば不思議なことだが、その時の俺は腕時計をチラリと確認しただけで、すぐにそう答えた。こういう時、消極的な方を選ぶのが普段の俺なのに。


 最初は俺が一方的に家族のことを話していたけど、途中でネタ切れになってきたので、マリアにも家族のことを訊いた。そうすると彼女は、父親が駅前で病院を経営していて、幼い頃から英才教育を施されていることを、淡々と語った。

「父親の方は良くも悪くも私に無関心なんだけど、母親の方はちょっと異常だわ。だって、信じられる? 小テストで八十点を取っただけで、翌朝まで無視されるのよ?」

 あの愛想の良い話し方も、こんな風に荒んでしまった。

「でも、俺のうちだってさ……」

 俺がそうやって悩みを打ち明けたのも、彼女に「独りじゃない」と伝えるためだった。それだけのためだった。それなのに、初め数個しか思いつかなかった悩みは、一つ打ち明ける度に増え、重くなっていった。

「……色々言ったけど、結局のところ一番心配なのは美兎のことだな。あいつ、いつまで不登校を続けるんだろう。今の時代、通信制でもバカ高校でも何でもいいから、絶対に高卒以上の学歴は必要なのに。お母さんが働けなくなった時、一体どうするつもりなんだ? 高卒で働いてる俺に、養えって言うのか? そんなの……できなくもないけどさ……」

「時間、大丈夫?」

 マリアの言葉にハッとして、腕時計を確認した。

「うん、まだ大丈夫」

 長い眠りから覚めたように頭がボーッとしていた。

「……なんか、ごめんな。色々と暗い話を聞かせて」

 ずっと黙っているのも変なので、とりあえずそう言った。

「いいのよ。実は私ね、風馬君を一目見た時から、『この人も苦しいんだ』って思ってたの。予想が当たって、仲間ができて嬉しいわ」

 ポテトをタバコのように指で挟んで、マリアは満足そうに笑った。苦しい。そうか、俺はそんなに苦しそうにしていたのか……。

「今日はありがとうな。俺、そろそろ帰るよ」

 そう言って立ち上がった時、お腹がテーブルの縁にぶつかった。マリアは「じゃあ、私も」と言って俺の後に続いた。


「うん、決めた。明日もサボることにするわ。風馬君、付き合ってくれない? そうね……ショッピングモール、ショッピングモールに行きたいな。お金だったら持て余してるから、私が全部払ってあげる」

 家が駅前にあるマリアはバスに乗って帰る。バス停のベンチに腰かけた彼女に手を振ると、彼女はそんなことを言った。

「でも、明日からは塾なんだろ? 今日もサボったのに、大丈夫なのか?」

「そんなの、『塾よりも図書館で自習する方が、効率的だって気がついたの』とでも言えばいいだけよ。あの人は、私の勉強の邪魔になることを何よりも恐れているから、きっとすんなり聞き入れる。……それに、そもそも風馬君は、こんなこと気にしなくていいのよ。さっき言ってたでしょ、『一回でいいから何も考えずに遊んでみたい』って。その夢、私が叶えてあげるから」

 マリアはニコリと笑って、俺の目を覗き込んだ。ああ、そうだ俺、そんなことも言っていたんだ。麻痺の切れた心が、慙愧の念でキューッと軋む。

「……本気で言ってる? 『全部払ってあげる』なんて、流石に冗談だろ」

 俺が訊くと、彼女は自分の右頬に手を添えて、じっとりとした目で答えた。

「いいえ、全部と言ったら全部よ。ねっ、こういう非日常ってワクワクするでしょ?」

 全体的に華奢な彼女だけど、その頬だけは不思議と豊かで、こうして押さえながら口を動かしていると、まるで軟体動物の一種みたいによく動いた。「確かにそうだけど」と相槌を打った後、俺は何となく目を伏せた。こんな状況にも関わらず、俺の胸は高鳴っていたのだ。

「ラインを交換しましょう。返事はこれに送って」

 俺のスマホはOPPOだけど、彼女のは最新機種のiPhoneだった。まあ、本当に最新機種なのかは確かじゃないけど、とにかく新しくて高そうなiPhoneだった。それだけじゃなくて、着ている服も、提げているショルダーバッグも、汗を拭く時に使っていたハンカチも、マリアの持ち物は全部高そうなんだよな。

(……人に奢られて遊ぶの、嫌だな)

 鼓動はスンと静かになり、俺は「やっぱり、あれは一時の気の迷いだったのだ」と安心した。そして、バスに乗り込む彼女を見送る瞬間も、上の空で断り方を考えていた。「下の子たちの世話が」と言えば簡単だったが、それは漠然と嫌だったのだ。


 顆粒だしと炊き込みご飯の素は、エジソンの電球くらい評価されるべき発明だ。これまで何度もそう思ってきたし、きっとこれからも度々そう思うのだろう。

「今日の晩ご飯は?」

「炊き込みご飯と、肉野菜炒めと、味噌汁。簡単な料理だから、兄ちゃん一人で大丈夫だよ」

 キッチンでニンジンの皮を剥いている俺に、辰人はいつものように話しかけてくる。「手伝うよ」と言ってくるのが目に見えているので、予防線を張っておいた。

(料理を終えて夕飯を済ませたら、弟たちと風呂に入って、その後、三日も入っていない美兎にも入らせて、洗濯機を回して、羊太と虎太郎の工作を手伝って、合間を見て辰人のズボンを修繕して……あ、あとマリアへの返答も)

 無心で料理を続けながら、頭の中を整理する。そんな時、さっきまで聞き流していたリビングのテレビの音が、急に声として耳に入ってきた。


『……あの凄惨な事件から六年が経ちました』


 やっぱりかと思いながら振り向いた。羊太からリモコンを奪おうとする辰人を、虎太郎が怯えながら見つめている。

『事件はこの静かな住宅街で起こりました』

 リポーターの女性の神妙な声が聞こえる。それにしても、今年はチャンネルを切り替えた瞬間か。

「……辰人、虎太郎、嫌ならこっちに来なさい。好きなようにさせてあげるって約束しただろ?」

 二人は引き下がって俺のもとに駆け寄って来た。小さな背中を震わせながら、テレビの前で正座する羊太だけがリビングに残った。

「……羊太は立派だな」

 たまらない気持ちになって言うと、羊太は涙をこらえて引き攣った顔で振り向いた。

『二〇✕✕年七月二十七日の夜八時頃、鉄川裕介ゆうすけ受刑者は、こちらの森本さん宅に押し入って……』

 虎太郎と辰人が腕にしがみついている。何もそんなに怯える必要はないじゃないか。これから語られることは全て、俺たちが知っていること。自分の勤める建設会社に対していわゆる「下請けいじめ」をしていた会社の購買部の男を、家族ごと殺した俺たちの父親のことなんだから。


「……すごく疲れた顔してるけど、やっぱり羊太は今年もあのニュースをかけたの?」

「まあな」

 センセーショナルな事件だっただけに、七月二十七日の晩は、必ずどこかしらのニュースであの事件が振り返られる。宇宙人に記憶を消去されたみたく不自然に、俺は父親のことをよく覚えていない。明るく家族思いで、ガタイが良く近隣の建設会社に勤めていたことは覚えているけど、具体的なことは何一つとして。


〈結局のところ、一番悪いのは日本の建設業のシステムなのよ。それがもっとマシだったら、お父さんの会社は倒産なんてしていなかった。最近は『早く新しい仕事を見つけよう、見つけよう』って、思い詰めてたの、風馬もわかってたでしょ?〉

 嵐を一つ凌いだ後の夜、お母さんは、それまで大切にしまっていた山崎をストレートで飲みながら、そんなことを繰り返し言った。いつもはキチンとした性格のお母さんだけど、リビングのちゃぶ台に崩れるその姿だけは、ヒョウタンに入れた安酒で酔っ払う輩を想起させた。

〈でも、だからって……〉

 怒りなのか悲しみなのかわからなかった。ただ何か激しい感情が胸の中で暴れていて、その時の俺は震えていた。お母さんはそんな俺を見ながら、健気な子供に向ける目をした。そして、俺の隣にやって来て肩を抱くと、諭すように言った。

〈風馬はまだ小さいから、そう思うのよ。まだ『本当の疲れ』を知らないの〉

〈もしそうだとしても、俺はそんなものに負けないから〉

 俺がキッパリと反論すると、お母さんは目を丸くして俺を見つめ返した。

〈……風馬のそんな顔、初めてだわ。別にお母さんも、『お父さんは何も悪くない』って言いたいわけじゃなくてね……〉

 その後の話はよく覚えていない。さっきまでの色々な感情が一つに収斂して、胸を塞ぐような反発心が生まれていた。いくら愛しているとは言え、人殺しの肩を持つお母さんの心も、いくら疲れていたとは言え、あんな犯罪を起こした父親の心も、俺には全く理解できなかった。裁判で、あの男は「全て嫌になった」としか語らなかった。お母さんは、あの男と離婚することも、この家から引っ越すこともなく、死刑の判決が下されても平然として面会に行った。

 人間は闇を、わけのわからないものを怖がる生き物だ。あの頃、俺は必死に考えていた。二人をここまで堕としたものは何なのか。俺がこの先の人生で、何としてでも避けるべきものは何なのか。そして考えに考えた末、俺は一つの結論を導き出した。

 単純な話、二人をこんな風にしたのは、他でもない「二人自身の弱さ」だ。愛する人なしでは生きられないほど弱いから、お母さんは今もあの男の仲間でいようとする。失業のショックにすら耐えられないほど弱いから、あの男は自暴自棄になってあの事件を起こした。「親というのは強いものだ」という誤った仮定のせいで、気がつくまで時間が掛かってしまったのだ。


(でも、俺はああはならない。そう、あの時に誓ったじゃないか。俺は『正しくて強い人間』にならなきゃいけないんだよ。なのに……)


「……お兄ちゃん、大丈夫?」

「えっ、あっ、大丈夫だよ」

「やっぱり疲れてるって。せっかくの夏休みなんだし、リフレッシュしなよ。ほら、彼女とデートにでも行ってさ」

 美兎はいつになく明るく、俺を元気づけるように言った。テントウムシを噛み潰したみたいに、口の中が苦くなった。俺はいつになったら完璧になれるのだろう? いつになったら、こんなあくせくした自己嫌悪を感じなくなるのだろう?

「……そうだな」

 それから少しして、マナーモードにしたスマホが震えた。マリアからのメッセージだった。

『風馬君はまだ悩んでいるようだし、私は今やっと覚悟が決まったから、隠さずに伝えることにするわ。まず、さっきは割り切っているような口調で話したけど、私は今でも自分の置かれている境遇が嫌で嫌でたまらない。どんな目に遭ってもいいから逃げ出したい、それくらいの気持ちで過ごしてる。真面目な風馬君には抵抗があるかもしれないけど、私にとって今回のサボりは、言わば親への反抗を開始するための起爆剤なの。さっきは恩着せがましい言い方をしたけど、私は風馬君に助けて欲しいだけなのよ』

 その文章を読んでから、

『わかったよ。待ち合わせ場所、どこにする?』

 と返信するまでは、呆気ないほど一瞬だった。あの抵抗感は跡形もなく消え、気がつけば俺は、「今回のマリアとの外出は良いリフレッシュになるな」なんてことを考え始めていた。


 ついて行くと言われたら面倒なので、弟たちには真夏日とのデートだと言っておいた。こういうことは伝えておいた方が良い気がしたので、真夏日にはマリアと出会ってから出かけるまでの経緯を全て話しておいた。

 その日の彼女は、知らないメーカーのロゴがついた白いポロシャツに、濃い藍色のジーパンを穿いていた。だけど、髪型は相変わらず、あの古代ギリシャの女性みたいなやつだった。その後も、マリアの服装は会う度に変わったけど、髪型だけはずっと同じだった。

 かつては真夏日とのデートで何回も訪れ、最近は飽きたので足が遠のいていたショッピングモール。明らかに供給過多なブランド店の数々はそのまま、タピオカや高級食パンのような当時の流行り物を売っていた店は、現在の流行り物を売る店に入れ替わっていた。

 俺たちは目についた一通りの店に入って、色々なものを買ったり買わなかったりした。代金は全てマリアが出してくれるから、何だかゲームの中の買い物みたいだった。こういう人の多いところにいる時、真夏日は「ちょっと、あの人すごい美人だね」や「見て見て、向こうに赤ちゃんいたよ!」と話しかけてくれるけど、マリアが振る話題はその真逆で、商品や人の悪口が主だった。

「私いつも思うんだけど、ああいうバカみたいな丈のスカート履いている女の子って、露出癖でもあるのかしらね」

 その時、俺たちはエスカレーターに乗っていて、その五段上には、黒いレザー生地のミニスカートを穿いた太った女子高生がいた。

「しーっ、聞こえるだろ。そういうファッションなんだよ」

 隣の下りのエスカレーターを眺めながら、俺は言った。でもまあ、確かにマリアの言うことも一理ある。この位置からだと、彼女のパンツは丸見えだった。

「あのボンレスハムを見せびらかすのが?」

「ぷっ」

 ハッとして口を手で覆った。マリアは俺の肩に手を置いて、「どうしてそんな後ろめたい顔をしてるの?」と訊いた。俺は「人の悪口で笑うのは悪いことだから」と答えた。耳の穴をくすぐるようなギターのイントロが、流行りの青春ソングがBGMとして流れている。

「アンパンマンにでもなりたいの?」

 そしてエスカレーターは終わり、レストランが軒を連ねるフロアに着いた。「ランチタイムには少し早いけど、混み始める前に食べてしまおう」というマリアの提案だ。

「ははっ、まあ近いな。俺の理想は、ああいう『正しくて強い人間』だよ」

「正しくて強い人間、か。なれるといいね」

 冷笑するような口調だった。レストランを探すふりをして目を逸らしながら、俺は「ああ」とだけ答えた。

 一日を共に過ごす中でわかったけど、彼女は性格が悪いと言うより、我が強いのだと思う。気に入らないものを露骨に嫌う代わりに、自分がしたいこと、欲しいものが常にハッキリしているので、俺は最初から最後までリードされる側だった。


「あのテロリストと戦うゲームみたいな、ステージを進めていくタイプのシューティングゲーム、今までコンティニューしたことなかったな」

 楽しい時間はあっという間に過ぎていき、気がつけばもう帰る時間だ。マリアの家はここから徒歩で行けるらしいけど、彼女は俺のバスを一緒に待ってくれた。

「クリアまで大変だったわよね。楽しかった?」

「うん」

 そう訊くマリアの表情はまるで保護者のようだけど、どちらかと言えば、あのゲームセンターで子供だったのは彼女の方だった。入ってすぐ景勝地の真ん中にいるみたいに辺りを見回し、乱暴なくらいの力で俺の手を取ると、結局、誇張ではなく全てのゲーム(全く興味のないアニメキャラのフィギュアを取るクレーンゲームまでも)をプレイしたのだから。

 家の教育方針で、ゲームセンターには今まで一度も来たことがなかったらしい。ちなみに、マクドナルドのようなファストフード店に入ったのも、昨日が初めてだったそうだ。

「ねえ、今度はどこに出かける?」

「えっ、これが最初で最後じゃなかったのか? 言った通りうちは貧乏だから、今度もお金は払えないぞ?」

「だから、私が払うって。『自己管理能力を身につけるため』っていう名目で、大学卒業までのお小遣い百万円が入った口座を持たされてるの。まだ九十万も残ってるから、心配しなくていいわ」 

「……どうしてマリアは、そんなに俺と出かけたがるんだ? 『起爆剤』はもうできたんじゃないのか?」

「それはそうよ。でも、出かけるなら一人より二人の方が楽しいでしょ? 今までは友達と遊ぶのも我慢して勉強してきたから、憧れてるのよ」

 マリアの口からこの答えが返ってきた時、正直なところ俺は嬉しかった。人のお金で、人のリードで、ただ自分の楽しさだけを求めるのは、思っていたよりもずっと心地良かったのだ。


「うーん、中々決まらないなあ。ねえ風馬、どれがいいと思う?」

 水族館の売店、アシカとカクレクマノミのキーホルダーを俺に見せ、真夏日が問う。俺は真面目な顔をして、「カクレクマノミのキーホルダーは、ニモの影響で水族館じゃなくても買えそうだから……」なんて答える。デートの最中、こうして盛りつけられた餃子みたいに寄り添われるのも、売店やレストランでいちいち選択を委ねられるのも、昔は好きなはずだった。なのに、最近はこれを少し鬱陶しく思ってしまう。

 例年よりも濃密な記憶を残しながら夏休みは流れ、気がつけば今日が最終日だ。俺の予定が空いているところを狙って、計四回。俺はマリアと出かけた、と言うより、俺の行きたい場所に連れて行ってもらった。彼女はあれから日を追うごとに親身になってくれて、最近では、近所のお祭りや家事のテクニックを教えてくれるなど、家庭の心配までしてくれるようになった。

「ねえ風馬、これから私の家に来てくれない?」

 バスが止まって立ち上がろうとした瞬間、真夏日は俺の袖を引っ張ってそう言った。遊んでいる最中なら今までもあったけど、こんなギリギリで誘われたのは初めてだった。

「うん、わかったよ」

 何かを訴えかけるように揺れる真夏日の目を見ながら、俺は答えた。幸い、このバス停で下りる人は俺以外にもいた。


「……だからね、他の女の子と遊ぶのは別にいいの。だけど、その子と遊ぶのがどれだけ楽しいのかは知らないけど、私とのデートでつまらない顔をするのは違うんじゃない? 風馬の彼女は私なんだから、風馬には私の方を大切にする責任があるでしょ?」

 妹は習い事、お母さんは買い物に行っているらしく、家にいるのは俺たちだけだった。真夏日はこんな話をかれこれ四十分は続けている。

「嫌な思いをさせてごめん。でも、俺は……」

 俺が頭を下げると、真夏日は被せるように声のボリュームを上げる。

「前はこんな風じゃなかったよね? 私のこと、嫌いになったの?」

 この質問も、これで四度目だった。そう俺に問う真夏日の目は、相変わらず弱々しく震えている。

〈そんなわけないじゃないか〉

 最初の二回はそうハッキリと言えた。だけど、三回目からは自信を失くしてしまった。そもそも、俺が真夏日に抱いているこの気持ちを「愛」と呼んでいいのか、わからなくなってしまったのだ。

 確かに俺は、今も昔も「真夏日を守りたい」と思っている。でも、思い返してみれば、俺は真夏日と一緒にいて一度もドキドキしたことがなかった。「愛している」ということと「守りたいと思っている」ということは因果関係だと、今までは真っ直ぐに思えていた。なのに、今ではそれが「アイスクリームの売り上げと水難事故の数」のような、ただの相関関係に思えてならないのだ。

「……ねえ、どうして答えてくれないの? 風馬、どうしちゃったの?」

 本当だな、どうしちゃったんだろう。最近の俺、なんか変だ。

「……ごめんな、真夏日。俺いま、真夏日とのこういうやり取りを、心のどこかで面倒に思ってる。マリアとはもう会わないことにするよ。そして真夏日にも、しばらく会わない。元の俺に戻ったら、また会いに行くから」

 迷った挙句、俺は正直に思っていることを打ち明けた。俺が立ち上がると、真夏日は手を伸ばして「待って」と言いかけ、それから「わかった、待ってるね」と言い直した。

 いつの間にか外は土砂降りで、俺はリュックで頭を覆って家まで走った。そしてアパートに着き、部屋のドアを開けようとした時、俺はふと手を止めて「鉄川」という表札をじっと見つめた。


〈ねえ風馬、表札にこんな紙が貼ってたんだけど……〉

〈ああ、嫌がらせだよ。ここのところ、ずっとなんだ。暇人もいるもんだよな〉

〈……学校を休んでるのも、いじめが怖いから?〉

 それはちょうど、お母さんの話を聞いて「強い人間になる」と決めた翌日のことだった。俺の心にはまだ新鮮な決意があったはずなのに、真夏日の顔を見ると、なりふり構わず泣きたくなってしまったのだ。

〈そうだよ。怖いさ、死ぬほど怖い〉

〈だ……大丈夫だよ! 私が、私が守ってあげるからさ〉

〈守るって? 弱虫の真夏日が俺を? あんま安っぽいこと言うなよ〉

〈……じゃ、じゃあさ、こういうのはどう?〉

 そう言うと、真夏日はやけにぎこちない動きで、俺の隣に腰を下ろした。

〈私たち、付き合って恋人同士になるの〉

 大きな深呼吸をしてから彼女が放った言葉に、俺は呆然とした。

〈はっ……?〉

〈だってさ、これで平等じゃない? 風馬がこれまで私を守ってくれた分、私も風馬を守るの。どれだけ辛くても私は見捨てたりしないから。病める時も、健やかなる時も。付き合うって、そういう約束でしょ?〉


 別れ際の真夏日の顔が、脳裏にフラッシュバックする。あんなにも純粋で、俺を好きでいてくれる真夏日に、俺は今日あんな顔をさせてしまったんだ。早く元通りにならないと。大切な人を悲しませる、これほどまでに弱い人間はいない。


 平静を装いつつ淡々と家事を終えると、俺は言葉もまとまらないままマリアに電話をかけた。

「あのさ、マ……」

「風馬君、こんばんは。ちょうど、こっちから電話しようと思ってたの。実はね……」

 息を切らしながらそう切り出すと、マリアは早口で現状を説明した。やけに雑音が聞こえると思っていたけど、彼女は今、家を出されて土砂降りの外にいるらしい。どうやら、散歩しているところが母親にバレたそうだ(俺と出かける予定がない日も、彼女は勉強のボイコットを続けていた)。

「……ねえ風馬君、私って本当に不幸なのかな?」

 一通りの説明を終えた後、彼女は間髪入れずにそんな質問をした。まるで先生の審判を待つ子供のような、とても不安そうな声だった。真夏日に言った言葉を思い出しながら、彼女を迎えに行くか迷っていた俺は、唐突な質問に虚を突かれた。

「こんな土砂降りの日に締め出されたんだし、間違いなく不幸だと思うよ」

「そう、そうよね」

 心の底から安心したように、マリアは二、三度呟いた。

「たまにわからなくなるの。私のママ、中途半端に良い人だから。例えば、『勉強を頑張るモチベーションに』って、毎日とても手の込んだ料理を作ってくれるし、定期テストとかで百点を取ると、ショッピングモールで高い服を買ってくれる。それだけじゃなくて……実はこの髪型、ママが毎朝セットしてくれるのよ。初めては小学校の入学式の日ね。年長さんの時に絵本で読んでから憧れていて、当時の私はとても喜んだらしいわ。『あの顔が忘れられないの』って、本当に毎朝なのよ? いつも完璧であるように躾けられてきたけど、私はちっとも料理ができないし、自分に似合う服も見つけられないし、この髪型だってセットできないのよ」

 そして、マリアはため息をつく。重い重い、失望の音だった。

「こうやって自分を『幸せ』だと思うと、この辛さはただの『甘え』になってしまう。そのことが私には耐えられないほど辛いの。ねえ、風馬君はいつまで頑張り続けるの? 貧乏で、下の子がたくさんいて、母親が夜勤で働いていて、父親が死刑囚だなんて、私よりも不幸なくらいなのに」

 スクリーンの中のキャラクターが、突如として自分に銃口を向けてきたかのような感覚だった。ドッという重たい音と同時に、変な動悸が始まる。

「俺は別に不幸なんかじゃないよ。こんな言い方はアレかもしれないけど、俺にはマリアと違ってわかり合える家族がいるし、ほら、優しい彼女だっているんだから」

 掻き集めた言葉で編んだ反論が、少し震えている。そんな俺にマリアは追求するように問い掛ける。

「でも、あの日あれだけ辛そうに話していたことは、嘘じゃないんでしょう?」

「あの日のことは持ち出さないでく……」

「それなのに、私が『家事を手伝いに行く』という度、どうして必ず断ったの?」

 抗議は無視される。一段と大きくなった電話越しの声に、下向きの音量ボタンを一つ押す。

「それに風馬君にはさ、私のことを堂々と話せるくらい信頼し合っている彼女がいるんでしょ? 風馬君は、その子にすら頼ってないんだよね?」

 心臓の音が鼓膜を裏側から叩いている。冷や汗が出る、めまいがする、頭とお腹が痛い。一刻も早くこの話を終わりにしたい。

「ねえ風馬君、私にはどうしても、君が意識的に『誰かに頼ること』を避けているように見え……」

「うるさい! 大体お前、俺の父親のこと知ってたくせに、今まで黙ってたろ。お前みたいな人の心の欠けた人間に、心配される筋合いはねえよ!」

 実際、隠されていたことはショックだった。だけど、あの場においてそのことを持ち出したのは、ただの論点ずらしに他ならなかった。そう、本当は怖かったんだ。このまま彼女の話を聞いていたら、今までは濡れたことすらなかった俺のポイに、あっさりと穴が開いてしまう気がして。

 まあ、もう手遅れだったのかもしれないけど。

「そのことは謝るわ。でも、悪意は本当になかったの。そういうフィルターのない状態で付き合った方が、風馬君も嬉しいと思って。……わかってるわよ、私って無機質よね。だけど最近は、『風馬君は大切な仲間だから、少しでも幸せになって欲しい』って思えてきたのよ? そう、今だって……もう無理だと気がついたけど」

 最初は熱っぽい声だった彼女も、最後にはいつもの冷たい声に戻っていた。


 そうして始まった二学期は地獄だった。学校、家事、テスト勉強、アルバイト、今まで全て両立できていたことが、これまでどうやっていたかわからないほど辛くなっていて、自分の情けなさを嘆きながらもテスト勉強は捨てた。結果、夏休み中の勉強までなかったかのような酷い点数になった。だけど、それでもまだキャパオーバーだったようで、接客中に迷走神経反射か何かで倒れてしまい、ファミレスのウェイターのアルバイトも辞めることになった。

「今日は家にカウンセラーが来る日か……」

 俺一人の力じゃ埒が明かないと思い、美兎のことをカウンセラーに相談することにしたのだ。事前に言ったら絶対に嫌がるから、本人にはまだ言っていない。土壇場で呼び出す予定だ。

 見慣れた通学路を家まで歩く。「真夏日が私立の高校を選ばなければ」なんてことを今さら思った。結局、この道を進んだところで、引き返したところで、脇道に逸れたところで、俺が自由になれる場所は存在しないのだ。ほんの一か月前まで当たり前にあったマリアの存在が、幻のように思える。


「ただいまー! いやあ、奇跡よ奇跡。こんな早く上がれるなんて、何年ぶりかしら……あれ、どうしたの虎太郎?」

「あの、あのね、今日、家にカウンセラーさんが来て、姉ちゃんとお話ししたんだけど……」

「カウンセラー? お母さん、そんなの知らないよ?」

「兄ちゃんが呼んだんだよ。姉ちゃん、途中からうわーって暴れ出してさ、カウンセラーのおばさんも帰っちゃった」

 虎太郎と羊太がお母さんに事情を説明している。美兎の部屋の前まで駆け、一通りの言葉を掛けるお母さん。それから食卓に座る俺にゆっくりと歩み寄り、俺の肩をさすっていた辰人はそそくさと立ち去った。

「風馬の気持ちはもちろんわかるよ。だけど、今回のは失敗だったね。結局、こういうことは時間が解決してくれるのよ。そもそも、風馬は美兎のお兄ちゃんであって、親ではないんだから、そこまで考える必要はないの。ねっ?」

 理性の手綱が切れかかっているのが、自分でもわかった。そして、「いま唐突にこうなったのではない」ということにも、今さらながら気がついた。共に家族を支えるとして、今までは我慢していただけなんだ。

「……お兄ちゃんであって、親ではない? よく言うよ。仕事から帰っても寝てばっかで、家事だってまともにしないアンタに、美兎が学校でいじめられて泣きながら帰ってきた時、『今は耐える時だから』としか言えなかったアンタに、そんなこと言う権利があると思ってんのか!?」

 弟たちは困惑した表情で俺を見つめる。お母さんは俺の目を凝視した後、「ごめんね、今まで気づけなくて」と涙をポロポロ流して俯き、黙り込んでしまった。

「ごめん、ちょっと頭を冷やしてくる」


 ひとしきり夜の街をふらついた後、俺が腰を落ち着けたのは、いつも通学路から見下ろしていた河川敷だった。上の橋から落ちて来る光の中を、何匹もの蛾が飛んでいる。辺りの光に掻き消されて、星はまばらだった。

「……真夏日から?」

 本当は話したい気分ではなかったけど、話さなきゃいけない気がして電話に出た。

「……もしもし、風馬? 何と言うか、その、久しぶりだね」

「……そうだな。たった一か月なのに、すごく長い間、離れていた気がする」

 無意識のうちに頬の裏を噛んでいた。「真夏日に弱みを見せることを、この期に及んで拒む自分はおかしい」と、その時の俺は流石に気づき始めていたが、もうどうしようもなかったのだ。

「この前の話だけど、実はもう少し時間が欲しいんだ。俺はまだ元に戻れてないみたいだからさ」

「そんなこと……そんなこと、もういいんだよ。私はあの日、風馬に責任がどうこうって偉そうに言ったけど、恋人としての責任を果たしていなかったのは、実は私の方だった。もっと早く気づくべきだったんだよ。『お母さんは働いているけど、実家が太いからお金には困ってない』とか、『家事が大変な時は、父方のばあちゃんが手伝いに来てくれる』とか言ってたけど、本当は嘘だったんでしょ?」

 その真剣な声に、俺はある日のこと——真夏日が俺に「付き合おう」と言ってくれた日のことを、思い出していた。

「それ、誰から聞いたんだ?」

「辰人君からだよ、小春に聞き出してもらったの。ほら、二人は同じクラスだから」

「……そうか。ごめんな、今まで黙ってて」

「過去のことはもういいの。それより、大切なのは未来でしょ? これからは休日でも放課後でも、できる限り手伝いに行くよ。それに、もう勉強を教えてなんて言わないし、デートだって風馬の都合に合わせるし、何かを買う時は私もいくらか出してあげる。だから、今度の日曜日は——私の十七歳の誕生日は、風馬にも祝って欲しい」

 夜の風が、砂利の上に垂れた俺の手を撫でる。温かくて、柔らかくて、まるで真夏日の手のようだった。

「……でも、俺は大丈夫だから」

 俺は拳を握りしめて、その夜の風を振り払った。涙が一つ二つ、ツーッと頬を流れる。こんな簡単なことに気づくまで、ずいぶんと時間が掛かってしまったものだ。

「……風馬はさ、いつになったら、私に『あの約束』を守らせてくれるの? 私ね、ずっと後悔してるんだよ。『私が守る』なんて言っておきながら、結局いじめの解決を風馬一人に任せちゃったこと。だからさ、もう遠慮なんてしないでよ。ちゃんと私に頼ってよ」

 その声は切実で、もはや縋りつくようだった。アイスディッシャーで胸を大きく抉られたような、痛みと虚無感に襲われる。俺は大きく深呼吸をして、声の震えを抑えてから答えた。

「違うよ、俺は真夏日に遠慮なんてしていない。だけど、今のままで大丈夫っていうのも嘘だ。あのさ、真夏日って集合体恐怖症だったよな? ハスの実とか、カエルの卵とか、どうして『嫌いなんだ?』って訊かれても、『集合体だから』としか答えられないだろ? どうやら俺にとって人に頼ることは、それと同じみたいなんだ。『試してみなきゃわからない』って思うかもしれないけど、守る対象じゃなくなった家族や真夏日を今まで通り愛せるか、俺にはわからない。

 本当にバカみたいだよな。一人でやっていけるほどの力もないのに、『守る側』であることにこんな執着するなんて——まるで、そう。高慢な案山子だよ、俺は」

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高慢な案山子 てゆ @teyu1234

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