船幽霊のひしゃく飯、あるいは白磁の玉

鳥辺野九

河童の皿にコーンスープ


 うぶな桃尻へ濡れそぼった手首まで無骨に捩じ込まれ、白磁のごとき尻子玉を鷲掴みにされて絹を裂くような甲高い悲鳴を噛み殺したあの日。

 翡翠色した河童の皿。揺らめく液面がとてもきれいだった。河童は小躍りするように私を抱きすくめ、少しばかり滑りの伴う皮膚を重ね合わせた。私は動けなかった。否、動かなかった。

 幼くも結った黒髪がはらりとほつれ、私は河童にほぼ一糸纏わぬ姿へと剥かれ、細腕で暴れようにも力の差を見せつけられ、無様にも組み伏せられたのだ。

 あの日から私を取り巻く時間は止まったままだ。時間ごときが尻子玉を奪われた心の傷を癒してくれようか。時間など、思いが募れば募るほど容易く捻子が緩むものだ。時の針は皆に等しくはない。

 空に浮かぶ雲の塊をやすりで削るようなさざれ雨が小さな波紋を浮かべては破り、破いては浮かぶ。そんな揺れずの水面の河童淵のほとりで、あの日を省みては、ひとり頬を火照らせる私がいる。私の人生を決定付けた一撃。忘れた夜はない。


 船幽霊は青白い微笑みを浮かべて震えるように言ったものだ。

「するってぇとあれかい。おまえさんは恋煩いの妙薬が欲しいってワケか」

 馬鹿げた質問だ。色恋沙汰など、私ごときが声に出すのもはばかられる。あの日から私は身も心も河童に奪われたままだ。恋煩いだなんておこがましい。

「許されるなら、河童殿と今一度逢瀬を重ねたい。そう思うのはいけないことですか?」

 私はただ従順な乙女の気持ちを持った一人の人間にすぎない。人間が妖怪に心酔するなど愚かしい。愚かしいからこそ愛おしい。

「あの日奪われた尻子玉。とても艶のある白色をしておりました」

 禍々しいほど澄んだ真珠玉。螺鈿細工を施したように斑に光沢を持ち、硬質の翡翠色した河童の骨張った指によく馴染む純白の色彩だった。

「そいつは難儀したな。で、おまえさんは尻子玉を取り戻したいのかい?」

 船幽霊は恋愛成就のひしゃくを持つと人は言う。さざめく海は船幽霊の言葉をおぼろげに揺らし、かすれた声は絶え絶えになって私を惑わす。

「はたまた、そのとっておきの宝物を河童の奴に託したいのかい?」

 だから、船幽霊は嫌いだ。さざなみのように心の塊を削り洗い、揺らぐ思いをもてあそぶ。

「それを確かめるために、ひしゃく飯を知りたいのです」

 船幽霊は海に浮かぶ小舟に近付き、ひしゃくで海の水を舟に掻き入れて沈めてしまう海の妖怪だ。そのひしゃくには人を惹きつける力が宿っている。

 ひとたびひしゃくに白米が盛られれば、もはやその魔力に抗う術はない。川の妖怪もまた同じ。心の理は人も妖怪も等しく脆い。

「そうさのう」

 船幽霊は着流した着物の懐からひしゃくを持ち出し、うねりのある笑みを見せてくれた。ひどい船酔いのような心持ちにさせられる。でも、不思議とあのひしゃくに白飯を持って貪りたい、とも思った。私の心を騒めかせるのは、翡翠色の河童か。白磁の尻子玉か。銀色の白米か。

 海の男は舟の上で陽の光に強く当てられる。だからひりひりと灼けるように喉が渇く。

 水が欲しい。水をくれ。腹の底から水を求める。

 だがしかし、がぶがぶと水を飲めば今度は体力が奪われ、舟を操ることもできず波に攫われてしまう。

 そこでひしゃく飯を食う。

 ひしゃくに酢飯を盛る。赤酢がいい。海の青に酢の赤がよく映える。

 お次は胡瓜だ。ぴんと張りのある、何だったら薄棘が痛いほど新鮮な奴が旨い。魚を捌くものでも菜葉を切るものでもなんでもいい。包丁の野太い柄で胡瓜をぶっ叩く。荒く、雄々しく、割り砕く。すると水が溢れ出てくる。

 海の上で待望の水だ。喉を潤してくれるよく冷えた水だ。だが早まるな。ここで飲み干すにはあまりに惜しい。

 割れた胡瓜に胡麻油を染みらせる。遠慮することはない。たっぷりとだ。胡麻油がよく馴染むよう揉みしだき、藻塩を振るってやる。まずはそいつでひしゃくの酢飯を半分覆う。

 そしてまた残した胡瓜にもろみ味噌を和える。味噌にはしこたまのマヨネーズと一滴の醤油が溶かしてある。割りもろきゅうの出来上がりだ。そいつをもう半分の酢飯に乗っけてやる。

 船幽霊のひしゃく飯の出来上がりだ。胡麻油の香り、藻塩の塩っ気、味噌の甘み、隠しきれないマヨネーズのコク、おっと、一滴の醤油も忘れてはいけない。それらが漏れ出る胡瓜の水分と渾然となって酢飯に浸る。油に濡れた酢飯の旨さを知らないわけもないだろう。

 熱い太陽の下、豪快に掻き込めば、喉も潤い腹も満たされること間違いなし。

 船幽霊のひしゃくが持つ魔力も相まって、海の男だろうが河童だろうが妖怪だろうが、誰だろうと心酔させるひしゃく飯だ。

 恋に恋焦がれる相手がひしゃく飯を差し出せば、人と妖怪という禁断の間柄だとしても、そこまで濃厚な逢瀬があろうか。いや、ない。


 河童淵のほとりで私は待ち侘びる。恋に焦がれて、たとえ不相応な相手であろうと覚悟はできている。人間と妖怪と。相容れぬ想いは誰に理解されようか。神。ならば神とも戦おう。悪魔。悪魔であろうと邪魔はさせない。

 さざれ雨に濡れそぼる。

 胡瓜の胡麻油和えの香ばしさとマヨネーズ味噌の甘い芳香に誘われ、ひしゃくに盛られた酢飯の赤と胡瓜の鮮やかな緑を拝もうと、河童が現れた。

 狐の嫁入りという言葉がある。今日はおかしな空模様だ。晴れ間に太陽が見えるのに細かい雨が降りしきる。狐ならぬ、河童の嫁入りとでも呼ぼうか。

「私を覚えておいでか?」

 河童に問う。私のたった一つの、大切な心の尻子玉を奪ったのは誰あろうあなただ。たとえあなたが忘れようが、私の尻が覚えている。

「忘れるわけがあろうか」

 河童は淵から上がり、低く宣い、大地に仁王立ちした。

「大きくなったな」

 何を今更。あれから何年経ったと思う。

「この胡瓜のひしゃく飯を召し上がれ」

 胡瓜は河童の好物だ。嫌と言うはずもない。

「ほう。代わりに何を望む? あの日の尻子玉を返せと?」

「私の尻子玉はあなたに預けたものだ。大事に仕舞っておくれ」

 私は身に着けていた浴衣をはらりと解いた。一糸纏わぬ上半身が露わになる。袖を回して腰に結び、ぱしり、柏手を打つ。

「いざ、尋常に勝負!」

 河童相手に水の中では不利だ。しかしこの大地の上なら、私に地の利がある。

「よかろう」

 河童がしゃがむ。

「応っ!」

 私は四股を踏んで応えた。

 この女人禁制の土俵の上では人間も妖怪もない。力士たるもの、その想いは一つ。それは相撲を好む河童も同じこと。

「八卦良いっ!」

 体重120kgオーバーのおっさんと身長2メートル越えの河童が、いま激突しようとしていた。

「のこったぁっ!」

 汗と皿の水をほとばしらせ、二つの胸の膨らみ(大胸筋)を激しくぶつけ合う。がっぷり四つだ。あの日の借り、いまここで晴らしてみせよう。

「どすこぉいっ!」

「プッシャアッ!」

「押っ忍っ!」

「キッシャアアッ!」

「おっしゃああっ!」

「オッシャアアッ!」

 二人の肉の塊はいつまでもお互いをぶつけ合い、心で叫び合っていた。

 行司代わりの船幽霊だけが呆れた顔で見ていた。

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