第36話
「……ご無沙汰を致しまして――」
「難しい挨拶を仕込まれてきたな。それは久蒔から俺への嫌がらせだ。いずれ暇なときに聞こう」
膝をつこうと右足を引きかけ、千璃はそのまま動きを止めた。
「久しいな」
白い光。光が差した。
なにを言うつもりでいたのか、すっかり忘れてしまった。ただ見上げて立ちつくす。王の前では、伏して礼すべき。けれど体が動かない。
声を間近に聴いている。顔を近くに――あの頃よりもずっと近い。
こうして立って見上げれば、太陽のようにも遠くに見えた。けれどすぐにその光は同じ高さに、千璃の目線にかがんでくれたことも、――千璃はちゃんと覚えている……。
「ずいぶんと待たされたが。そんなに難問だったのか?」
破顔。
よくも忘れたなどと。
見上げたまま、千璃は怒りにも似た感情を高ぶらせた。
子どものころ、あのときの別れの辛さはなんであったのか。あれほどにすがらせた想いはなんだったのか。
ずっと素直で、ずっとわかりやすかった。だからずっと待っていた。やがて待つことを躊躇い、封をしたのだ。
そうなのかはわからない。けれど馬鹿なことに思える。忘れていたというそのことが。
昂鷲は覚えていたのに。
何故だろうか、自分の方から断ち切るように忘れた。曖昧に濁した記憶の底にと沈め、浮かび上がらぬように決めた。
思い返し思い返し、大切にしていてよいはずのものを。
「大きくなった」
肩にのった手があたたかい。大きく時間が流されて、再び同じときが巡ってきたかのようだった。
風は煙の臭いを運び、目に映るのは土ばかりだ。草一本をも持たない大地、焦土に立つ久蒔に千璃は抱かれている。
久蒔からは清なる芳気が昇っている。奏園から舞手たちを連れ、戦場を清めに来たのだ。
憶えている。やはり手のぬくもりを。そのときの空の色さえ、久蒔から薫った香さえも。
辛かったのかもしれない。会えないままに思い返すことが、恐ろしかったのかもしれない。
遠ざかる背中は悲しかった。胸が潰れるほどに泣いた。だから、記憶を手放したのだろうか。だから。
今はこれ以上はないほどの清らかな風に吹かれ、千璃は自分の足で立ち、昂鷲を目の前にしている。
どうするのか。どうしたら良いのか。どうすべき、ではなく、どうしたいのか。
しかしなにも考えられない。ただ一つの思い以外。
昂鷲の笑顔を眸(ひとみ)に映す。乾砂に水が浸み込むように、身内が熱を帯びてゆく。
今度は忘れない。絶対に忘れない。二度と離さない、これは繰り返さない。
どこよりも指の先が熱くなった。まるで舞のさなかにあるかのように、心が震えて堪らない。
熱――
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