雪原の煙
100chobori
◆
(一)
僕が隠れている草陰の向こうで、ガツガツと音を鳴らしながら木の実を噛み砕いている猪が見える。僕は乾いた血と錆で赤茶けた槍を先に付けた矢を弓に合わせ、ゆっくりと右手で弓を引き始めた。
弱い風が吹いて、音もなく揺れる草が猪の姿を遮った。僕の右手はじりじりと後ろに下がる。右手が後ろの木の枝に当たり、ガサゴソと音がした。
木の実を噛み砕く音が止まった。しかし、それ以外の音はしなかった。僕はゆっくりとさらに右手を後ろに引っ張った。
弱い風が目の前の草をそっと揺らし、僕の視界に猪が再び現れた。今までの経験で得た勘に裏打ちした、弓を支える左手の限界と弓を引く右手の頃合いを感じ取ると、僕は右手を離した。
矢はまっすぐ猪の胴体に突き刺さった。ブウッと猪の悲鳴が響きわたる。息を切らせながらよたよたと足を動かし始めた。
僕は、残り二本の矢を腰に携えて、草陰から飛び出した。走り去ろうとした猪は僕に気づき、振り返った。腹に突き刺さった矢をぶらぶらさせながら、その脇からは鼓動のリズムで血を吹き出していた。
僕はもう一本の矢を弓に当て、引いた。猪は荒い息で顔を低く構えると、僕に向かって走り出した。
猪は僕との距離を縮めるが僕は落ち着いて弓を引っ張った。僕が右手を離すのと同時に、猪は僕をめがけて飛びかかった。二本目の矢が猪の太い首筋を突き刺したと同時に、僕は体をかわし、倒れ込んだ。
猪は首からも血を吹き出した。その滴が、倒れ込んだ僕の左手首にべっとりと付いた。
フーッフーッズズッグルルルーッ
詰まった唾液を吹き払うような猪の息の音が響いた。その音は次第に小さくなった。
ゆっくりと眼を閉じる猪に手を合わせると、僕は猪の両手両足を縄で縛り上げ、縄で編んだ網の上に横たえた。
僕は猪を引きずりながら、ふもとの村を目指した。草むらをゆっくりと抜けると、かすかに草の少ない筋がまっすぐ坂を下っていた。そこは恐らく、この辺りの猪達と、僕だけが知っている道だ。
空は真っ青に晴れ渡っているが、木々の周りから差し込む陽の光は黄色い。前に猪を仕留めた時よりも少しだけ肌寒い。僕が下っていく道の向こうには赤や黄色に色づいた山々が見える。その手前には、数本の細い煙がかすかに立ち上るのが見えた。
村に入ると、道は平坦となった。一息つき、額の汗を拭った。再び猪を引きずって、土で赤茶けた道をゆっくりと進むと、僕がいつもお世話になっている農家の小屋が見えた。
木の扉をゴツゴツと叩いた。
「こんにちは。一頭捕まえてきました」
髭を蓄えた痩せた男が扉を開けた。彼の背後で小さな子供達が二人走り回っていた。
「おっ。今日も持ってきてくれたか、どれどれ」
男は扉から外に出た。僕が捕らえた猪の側にしゃがみ込むと、あらかじめ決められたように猪の様子を簡単に見回した。それから、猪が乗っている網を引っ張り、土間の上に横たえた。
「ご苦労さん。んじゃ、ここに置いてあるからもってきな。全部じゃないからもう一回取りに来ても大丈夫だからね」
男は小屋の隅に置いてあった籠を指で示した。籠には芋が籠の口までいっぱいに入っていた。
「ありがとうございます。また来ます」
僕は籠を背負って、来た道を戻った。さっき猪を仕留めた場所を通りかかると、土の上の小さな血だまりが赤黒く渇いていた。僕はさらに山の奥に進んだ。
(二)
僕の家は山の頂に近い尾根の側にある。僕が家にたどり着いた頃には、間もなく日が暮れようとしていた。芋が入った籠を肩から下ろすと、早速、夕飯の準備をした。まあ、夕飯と言っても、芋を茹でたものに塩を付けて食べるだけのものだ。村の人達は赤い根っこみたいなのとか、何やら黄色っぽい汁みたいなものとか、もっといろんなものを食べているみたいだ。しかし、僕はあまり興味がなかった。だけどこの芋だって、今日みたいにもらってきてばっかりで食べるのとしばらく保存してから食べるのとでは味が全然違う。
かまどの前にしゃがみ込み、火打ち石で枯れ草や細い木の枝を燃やし、薪に火を付けた。桶に汲んであった水を鍋に入れ、鍋をかまどの上に乗せた。
僕の母は僕が子供の頃に病気で、父は僕が狩りを覚えてばかりの時に、ふもとの川からかまどの石を運ぶ途中で熊に首を噛まれて亡くなった。それからはしばらくの間、僕は兄と二人で暮らしていた。
ある夏の日だった。捕まえた猪を連れて僕と兄がふもとの村を訪れた時、兄は村の娘に恋をした。兄は多くは語らなかったが、村にいた時、兄がその娘と次第に仲むつまじくなっていく様子が後ろ姿でわかったので、大体察しがついた。村にたどり着くまでは僕と兄は行動を共にしていたが、その頃から、別々に家に戻るようになった。
ある日から、兄は戻ってこなかった。兄は僕には何も告げなかった。兄が戻ってこなくなってから三日目に、僕は村に降りた。兄を捜したが、見つからなかった。兄が恋をした娘は、村では誰も身寄りがなかった。誰に尋ねても、兄とその娘の行方を知る者はいなかった。
それから五年が経った。僕はずっと一人で狩りをして暮らしている。時々狩りをしては村に降りても、僕には恋をするような女性は現れなかった。贅沢をしなければ、こうやって時々狩りをしたり、薪を割ったりするだけで、食べるものには困らなかった。
もらってきてばかりの芋の皮を刀で剥くと、芋の瑞々しい感触が僕の指を濡らした。鍋のお湯が煮え立ち、僕は芋を鍋に放り込んだ。芋はぐつぐつ煮えながらコロコロと鍋の中で転がり続けた。
その様子はとても気持ち良さそうに見えた。初めて見るわけではないけど、この芋にとってはこれが芋の最期でもある。もうじき僕に食べられてしまうわけだけど、お湯の中でコロコロと転がる様子をじっと見ていると、何だかそれがとても気持ちのよさそうなものに思えた。
ふと考えた。その芋がもし僕だったら……。
さぞかし気持ちいいだろう。一体どんな感じになるんだろう。
たった一度でいい。僕も一度だけ、この芋のようにお湯の中に漂ってみたい。
もしやってみるとしたら、何が必要だろうか。僕の体が全部入るような大きな鍋が必要だ。そして大量の水。その水を暖める薪。だけど、僕が今持っている一番大きな器はこの、芋を煮ているくたびれた鉄の鍋だけだ。
(三)
翌朝、僕は再び村を目指した。昨日、芋をいっぱいに詰めた籠をからっぽのまま背負って家を出た。もう一杯分の芋をもらうだけでなく、今日はもう一つ目的がある。
朝の山道は霧が立ちこめる。前に伸ばした手の平すらもぼやけてしまう。だけど進むべき方向はいろんなことでわかる。足下は何とか見えるし、光の強弱、暖かい空気と冷たい空気の流れ、草や土の匂い、そういうことで分かる。
僕の背丈ほどの高さで生い茂る草を、次々とかき分けていった。草についた露で体中がびしょ濡れだ。吐く息が白く煙るのがわかった。足を前に出し、地面をつかむ感触を繰り返しながら、僕は胸を踊らせた。
繰り返しのリズムは少し位の間違いになら寛容であるべきだ。そう一瞬思った時は遅かった。地に着くはずの足が宙を浮いたまま、僕の体は前のめりに滑り出した。
とっさに周りの草を掴んだ。草はブチブチとちぎれたが、切れずに残ったわずかな草が僕の体を支えてくれた。
後ろ向きに這うような形で僕の体は止まっていた。もっとたくさんの草をそっと掴み直した。もう草はちぎれなかった。
そっと顔を起こすと、背後はかなり急な斜面だった。山道からはだいぶ外れてしまったようだ。霧が立ちこめていたから斜面の底は見えなかったが、僕には追いつけそうもない位の速さで、霧は底に吸い込まれ続けていた。
右足と左足を慎重に斜面になじませてから、斜面をゆっくり這い上がった。体中が力みすぎないように、斜面に生えている草花とか、埋まっている岩を想像しながら。
「周りを蹴落としながら進もうとするな」
それが父の教えだった。こういうことは今までにも何度もあった。僕はじわじわと体を前に運び、ようやく斜面を登り切った。
再び歩き始めてからしばらくすると、先に続く山道の筋がぼんやりと見えてきた。それは次第に伸びて行き、途切れたところで、鮮やかな紅葉が遠くに見えた。
村に足を踏み入れると、僕はこの村でたった一つだけある鍛冶屋に向かった。
鍛冶屋の隣には大きな蔵が建っている。蔵は周りの家よりも屋根が高いから目立つ。中には、芋や野菜、赤や黄色のきれいな色をした木の実、海から運ばれて来た塩、いろんな食べ物がたくさん入っている。一人で全部食べ尽くしたらどれぐらい掛かるか想像できない。一度だけ、兄と一緒に、捕まえた猪をこの蔵の中に運び込んだことがある。
鍛冶屋が作る槍や刀、鍋は、いつも大量の食べ物と交換される。ここの鍛冶屋でしか作れないものだし、皆の暮らしを便利にするためには欠かせないものだからだ。鍛冶屋を訪れる者は皆、大量の食べ物を持ってくるから、鍛冶屋の隣には蔵が建った。
蔵の隣には、大きな岩のかまどから赤い火の粉が巻き上がっていた。上半身裸の男が、かまどの中から長い棒を引っ張りだした。棒の先には橙色に光る塊が見えた。
光る塊は、平らな岩の上に置かれ、男は置いてあった鉄槌でリズムよく叩き続けた。時々、塊からは小さな光が飛び散り、男の体にも当たる。しかし、彼はそれをものともせずに黙々と叩き続ける。
僕は彼が一仕事終えるまで、その様子を眺めていた。
(四)
「おっ。鍋か刀か槍か針か」
鍛冶屋が叩き続けながら声をあげた。
「鍋を」
僕は答えた。
「ほお。芋か塩か菜種か豚か」
「猪で」
「猪!」
そう叫ぶと、鍛冶屋は手を止めて僕に振り返った。
「猪か。久しぶりだな。いいだろう。どのぐらいの鍋が欲しい?」
鍛冶屋は鉄槌を側に置いて腕を組んだ。
「人の体がすっぽり入るようなのが欲しいんです」
僕は一瞬うつむいてから顔を上げて言った。
「ふーん、人の体ね……」
そううなずくと、鍛冶屋は二の腕の真ん中に小さく広がっていた豆粒ほどの赤い火傷跡を指でいじりだした。彼の体のあちこちには、そんな傷跡があった。僕が持っている槍や鍋を作ってくれた時に出来た傷だってきっとどっかにあるんだろう。それはどこだろう。
「人の体が?」
鍛冶屋は傷跡をいじる指を止めて顔を上げた。
「はい。お願いします」
「そんなものを一体何に使うんだ?」
「僕のか……」
「ん?」
言うのは止めた。自分の体をお湯の中に浮かべてみたい、だなんて言えない。言ったら笑われるだろう。笑われなかったとしても、そんなに気持ちのよさそうなことを、僕だけが思いついたことを、誰にもまだ知られたくない。僕が実際にやってみたらみんなに教えてあげよう。
「いや、とにかく、大きい鍋がほしいんです」
「だめだね」
「ダメって……無理ってことですか?」
「なにぃ?」
鍛冶屋の語気が鋭くなった。やっぱり、と僕は思ったが一方で、頑として断られてしまう恐れも抱いた。
「猪十頭でどうですか?」
そう言った瞬間、僕は少し後悔した。
鍛冶屋は首を横に振りながらポキポキと骨を鳴らし始めた。僕が彼の顔をじっと見ると彼はニヤッとした。
「十頭? 三十頭なら考える」
僕は顔を一瞬ひきつらせた。鍛冶屋はその一瞬を見逃さなかった。さらに顔をニヤつかせると、辺りをゆっくりと歩き回り始めた。
「どうする?」
「……」
うつむいた僕の視線の先を、鍛冶屋は何度も右へ左へ歩いていたが、やがて止まった。側に置いてあった鉄槌にゆっくりと手を伸ばし、持ち上げた。
「おい。今年の冬は寒そうだな」
鍛冶屋は鉄槌を片手で軽々と持ち上げると、遠くの山を指した。僕は黙ったまま、彼が指す方を見た。山の頂にはわずかながら白い雪が灰色の岩肌を覆っていた。
決断が必要な時間というのは僕が生きている長い長い時間の中でもほんの一瞬だった。そんな時が今までに何度もあった。今だってそうだということを僕はもう少しで忘れてしまうところだった。僕は山の頂から視線を鍛冶屋に戻した。
「三十頭。いいでしょう」
努めて冷たく僕は言い放った。
鍛冶屋は頬を引き締めるとゆっくりうなずいた。
お互い視線を合わせたまま、数秒間対峙した。
「じゃあ、まずお前が十頭持ってきたら、俺は作り始めよう」
「ありがとうございます!」
僕は声を張り上げた。鍛冶屋に大きくお辞儀をすると、胸を高鳴らせて家に向かって走り出した。
(五)
僕はいつにも増して猪狩りに夢中になった。今までは僕が食べていくために必要な分しか捕まえなかったのに、今回は違う。僕は鍛冶屋に挑み、鍛冶屋は僕に挑んだ。出来なかっただなんて僕の口から言いたくもなかったし、鍛冶屋にも言わせたくない。
僕は猪を仕留める度に感じた。弓を射る瞬間の濃密さがますます高まっていったことを。弓を射るのが早すぎれば、弓は十分に猪を貫かない。遅すぎれば、僕が猪に倒されてしまう。そのぎりぎりの合間を、猪と向き合って見定める。その作業を繰り返す毎に、僕は時間の流れすらも支配できるような気がした。それは今までの狩りでは感じたことのないことだった。
一頭、また一頭と僕が鍛冶屋に猪を連れて行くと、鍛冶屋は最初あっけに取られていたのが、次第に神妙な顔つきになっていった。
「次にもう一頭連れて来れば、作り始めてくれるんですよね?」
僕が鍛冶屋の目をのぞき込もうとするや否や
「ああ。その約束だからな」彼は素っ気なく応じた。
僕と鍛冶屋の影が長く伸びていた。僕は急いで山に向かった。満月の夜だった。月明かりも手伝ってか、その日、僕はもう一頭仕留めることが出来た。再び村に降り、鍛冶屋の扉を叩いた。
僕は鍛冶屋の目をしっかりと捕らえて、連れてきた猪を指した。鍛冶屋はゆっくりとまばたきをすると、大きく息をついた。
「全く、こんな時間に猪を連れてくるなんて、お前が初めてだ」
そのまま黙って工房の奥に歩いていった。
「約束ですよね?」
僕は声を張り上げた。頬が紅潮しているのが夜風の冷たさでわかった。
「ああ」
鍛冶屋は振り返らずに両方の手のひらを掲げると、工房の奥でしゃがみ込んだ。
「じゃ、また来るので」
そう言って僕が工房の扉を閉めようとした時だった。
「おい待て!」
鍛冶屋が鋭い声で僕を制した。振り返ると、鍛冶屋は僕にゆっくりと近づいてきた。
「持ってけ」
鍛冶屋が僕に手渡したのは、三本の矢だった。刃先が扉の外のかすかな月明かりすらも捕らえて白く光っていた。僕はそれを受け取ると、鍛冶屋に小さく礼をした。この表情を堂々と見てくれと言わんばかりの笑みが思わずこぼれた。僕は鍛冶屋の表情をのぞき込んだ。鍛冶屋は全く動じなかった。
(六)
鍛冶屋がくれた槍の切れ味は、僕がずっと使い続けてきたものよりも段違いだった。その上、僕が猪を仕留める間合いはさらに濃密なものになった。鍛冶屋の力に甘えたくはなかった。それでいて、猪を仕留める度に僕は鍛冶屋の腕前に恐れ入った。
十八頭目の猪に僕が最初の矢を突き刺した時だった。僕に向かって突進を始めた猪の足は、すぐに止まった。
グルルルル……と唸ると、ゆっくりと地面に横たわった。僕が近寄ると、猪はずっとかすかに保ち続けていた目の輝きを失った。いつものように、その体を網に巻き込もうとすると、クウクウと小さい声で鳴いた。とどめを刺そうかと思ったが、その必要はなさそうだった。
網に包んだその猪を連れて、僕は山を降り始めた。額の汗が乾いていく様子がよくわかった。昨日の昨日よりも、昨日よりも、明らかにそれは速かった。僕は一息ついて、網を持つ手の甲で顔の汗を拭った。ひんやりとした感触が顔に心地よかった。
クウーッと小さな声が聞こえた。僕は耳をそばだてたが、草木が動く気配はなかった。再び網を掴み、歩き続けた。
小さな声は再び聞こえた。さっきよりもかすかな音だった。僕は歩きながら辺りを見回したが、やはり、何かが近づく気配を見つけることはできなかった。
この間、鍛冶屋が指し示した遠くの山が見えた。雪はますます頂を支配し、岩肌が見える場所は既にかすかなものだった。
前に運ぼうとした左足が何かに引っかかり、僕の歩みは一瞬留まった。その引っかかりは取るに足らないものだと僕は思った。体のバランスを取るために、僕は網を引き寄せた。
網の中の猪はまだ暖かかった。
僕は立ち止まり、その暖かさを確かめた。そっと中を見ると、猪の目がかすかに輝きを取り戻そうとしていた。僕は手の甲をそっと猪の体に当てた。
クゥーッ
猪はかすかに声をあげ、再び目の輝きを失った。
工房にたどり着くと、鍛冶屋は僕に背を向けて、黄色い鉄を叩き続けていた。僕はそっとしゃがみ込み、網から猪を引きずり出した。手の甲でその体をそっと触った時、鍛冶屋は一瞬手を止めた。鍛冶屋が振り向く前に僕は立ち去った。
鍛冶屋が鉄を叩く音と僕の鼓動が同調していた。歩き出しながら、手の甲を顔に当ててみた。もう冷たかった。
(七)
二十四頭目の猪を鍛冶屋に届けた時、工房の奥に、異様な黒い塊が見えた。その大きさに心を奪われそうになったが、その手前で燃える火はさらにまぶしかった。鼻の先にかすかな暖かさを感じるや否や、それは頬にもすぐに伝わった。
「すごいですね」
僕は、鍛冶屋にそう語りかけそうになった。鍛冶屋が冷たい視線でそれを制したように見えた。鍛冶屋は僕が持っていた矢の刃先を見つめてかすかにうなずいた。よく見ると、刃先はわずかに欠けていた。
僕は奥歯を噛みしめたまま工房を後にした。
村を歩いていると、話し声が聞こえた。
「尾根のあいつは、近頃しょっちゅう猪を連れてくるな」
「鍛冶屋のとこに来てるやつだろ?」
二人は僕に聞こえていないと思っているようだ。彼らは狩りをしないからわからないだろうが、僕には、はっきりと聴き取れる。
「あんなに捕まえて何するつもりなんだろな」
「そんなの、わかんねえよ」
話し声の片方は、いつも僕が芋をもらうおじさんだった。
「よっぽどの大飯喰らいなんだろ」
おじさんの吐き捨てるような声が聞こえた。
家にたどり着くと、この間おじさんにもらった芋は、まだまだ山のように残っていた。
鍋に入る限りの芋を入れて煮込み、僕は夢中で食べた。煮込んだ内の半分も食べきれなかった。膨れ上がったお腹を抱えながら、鍋には手に山盛りの塩を入れてさらに煮込んだ。お腹の張りが少し収まった時、僕はもう一度芋を口に詰め込んだ。強すぎる塩気に吐き気がしたが、こらえた。
全ての芋をお腹に収めると、僕は眠った。
それから三日間、僕はずっと家で寝ていた。
四日目の朝、僕は芋を三つ取り出した。少し考えて、その内の一つだけを鍋で茹でた。煮立ったお湯の中で、芋はコロコロと転がり始めた。それを食べると、支度をして家を出た。
(八)
ついに三十頭目の猪に、僕は狙いを定めた。右手でゆっくりと弓を引いた時、雲の合間から陽が差し込んだ。白い刃先が細く輝いた。右手を離した瞬間、猪がその光を捕らえたのがわかった。
矢は猪の首元めがけてまっすぐに飛んだ。猪はそれを堂々と受け止めると、赤い血を吹き出した。僕が何度も見るその血しぶきは、猪にとっては最初で最後のものだ。そんなことは最初からわかっていた。
猪の足元は定まっていた。僕は草陰から飛び出し、もう一本の矢を用意すると、弓を構えた。
猪は僕に突進した。その速さにひるむことは全くなかっった。そう思っていた。
僕の視界が曇った。雲のせいではなかった。猪の体がぼやけたが、僕の手元と間合いは狂わなかった。二本目の矢は狙い通りだった。僕が見守り続ける中、体を震わせ続けていた猪は、やがて、動かなくなった。
僕は弓を置き、左手の甲で顔を拭った。
粉雪がちらついていた。濡れた手の甲はすぐに冷たくなり、僕はもう一度顔を拭った。
(九)
鍛冶屋は僕が欲しいと思っていた通りの鍋を用意してくれていた。鍛冶屋は右の眉を上げて、目で鍋を示した。僕も眉を上げようとしたがうまくいかなかった。不自然に目を見開いた僕の顔を見て、鍛冶屋は初めて声をあげて笑った。
「それを一人で持って帰るのか?」
鍛冶屋は半ば呆れながら尋ねた。
「はい。重くてもゆっくりなら持って帰れます」
「それにしても、一体何に使うんだ? そんなものを」
僕は考えた。しかし、鍛冶屋からは目を反らすことはしなかった。
「まあいいや。これはお前のものだからな」
「次に会った時に話しますよ」
必ず、と言い足そうとしたがやめた。その必要はないと思った。
僕はその鍋をゆっくりと引きずりながら、家を目指した。短い間に何度も通った山道は周りの草が随分と避けられていて、進むには十分わかりやすかった。
粉雪は次第にさらさらと僕の視界をかすかに遮るようになっていったが、山の中腹あたりでべとつき始めた。やがて雪は雨になった。
道の向こうで小さな白いものが光った。猪の目だった。僕は弓を構えようとしたが、一瞬手を止めた。猪は僕を目がけて突進した。鋭い足音がうるさい位に僕の頭に響いた。
とっさにかわそうとしたが、僕は右腕を噛まれた。過ぎ去った猪は僕に振り向くと鼻息を荒くした。今僕にできることは猪から逃れることだけだった。猪の方を振り向くと、身構えた。弓を射る時と同じ間合いが必要だと気づいたのは、猪が僕の体に再び触れる直前だった。
再び突っ込んで来た猪の息の熱が僕の右腕にも伝わった。体をよじらせるように猪をかわした。右手の指を切り裂かれるような痛みを瞬時に感じた。猪は僕の背後の斜面を転がり落ちて行った。
雨はさらに勢いを増した。僕は流した血を雨がどんどん洗い流してくれればいいと思った。雨は血を洗い流し続けたが、傷口からは、新しい血が流れていた。
(十)
雨は僕が家にたどり着いても降り続けていた。鍋を家の外に置いたまま、僕は部屋に入り、寝床に倒れ込んだ。翌朝起きた頃には、鍋は水で一杯になっているだろう。雨が部屋の壁の向こうをバチバチと叩きつける音を聞きながら、もっと強くなれと念じた。僕に呼応するように、風は強く雨を壁に吹き付けた。その勢いは強まったり弱まったりを何度も繰り返した。何かをかきわけてゆっくり進んでいくような気がした。進んでいる。僕がこうして体を休めても、何かが確実にゆっくり進んでいく。やがて僕がそれほど強く念じなくても、風と雨はリズムを保ち続けた。僕が眠りに落ちて行く中でも、それはずっと続いてくれるように思えた。
翌朝、久しぶりに感じる鼻の先の冷たさで僕は目覚めた。外からは何の音も聞こえなかった。扉越しに部屋の外を見ると、辺り一面に雪がうっすらと積もっていた。風はなく、粉雪が静かに舞い降りていた。
外に出て、鍋の中を見た。そっと手のひらを底に沈めた。水は手首まで浸かった。水の冷たさは瞬く間に骨まで伝わった。耐えられずに僕は手を水から引っ込めた。
その時、鍋が地べたにそのまま置かれている事に気づいた。お湯を沸かすためには鍋の下で薪を燃やさなければならない。
考えあぐねて、僕は家のかまどの石を全て持ち出し、鍋の下に据えた。それでも石は足りなかった。あと四つ欲しかった。父と兄がいた頃、川まで降りて石を運んだことがあった。川まで降りれば石があるのは分かっていた。
僕の家から山をしばらく下ると、わき水の小さな流れを見つけることができる。そのわき水を辿り、同じような水の流れが一本、また一本と合わさっていくと、小さな川になる。そんな川をさらに下っていけば、鍋の底に置くのに都合のいい石をたくさん見つけることができる。村に降りるよりはずっと近いが、一度に運べる石の大きさを考えれば、気の遠くなるような作業だった。
「おい、今年の冬は寒そうだな」
ふと、鍛冶屋の言葉が頭に浮かんだ。鍛冶屋が示した山の頂を思い出した。
目の前が明るくなった。僕は山の頂に向かって歩き出した。
はじめは草をかき分けて進んでいたが、次第に岩肌が目立つようになった。吹き下ろす風の白い流れを遡っていくと、やがて、その始まりが見えてきた。
稜線に出ると、僕の周りは全て白い霧となり、僕が今来た方に向かって流れ続けていた。まるで雲の中にいるようだったが、雲そのものでもあった。足元には雨雲のような薄黒い岩が積もっていた。数歩進むと、進む前に見えた岩はすぐに見えなくなり、別の新たな岩が見えた。僕は持ってきた網に岩をかきいれ、家を目指した。
岩を詰めた網を引きながら、時には斜面を転がしながら進んだ。川伝いに登っていくのよりはずっと楽だった。
思えば、父が熊に倒されたのは、岩を運んで川の流れを遡っていた時だった。山の上から岩を運ぶという方法をもっと早く思いついていれば、父は死なずに済んだかもしれない。
だけど、考え方を変えれば、僕は新しい道を見つけて父を越えたことになるんだ。過去は変えられない。やがて僕にも子供が出来れば、そいつは、僕に出来なかったことをやれるようになるかも知れない。
遠くに見える霧の流れの切れ目に、かすかに僕の家が映った。足を進めながら、次々と形を変える霧の切れ目を見遣った。家のすぐ横にある鍋が見えるだろうかと思いながら、久しぶりに胸が高鳴った。
(十一)
家にたどり着き、運んできた岩を並べた。家にあったかまどの石だけでは頼りなかったが、これでしっかりと鍋と、その中に入る僕の体を支えられることがわかった。鍋を岩の上に乗せると、鍋は安定した。僕も鍋の中に入ろうとしたが、お湯の沸いていない鍋の中に入ることは、やめた。
鍋の中にはもっと水が必要だった。家の中から桶をかつぎ出して、水を汲みに行った。家から少し山を下ったところにわき水が出る場所がある。水がなくなる度に何度も行っている場所だし、岩を運んできた労力に比べれば大したことはなかった。粉雪は舞い続けていたが僕の体はますます暖かくなっていくのがわかった。
僕がわき水の場所を往復する度に鍋の水はかさを上げ、やがて満たされた。薪を用意し、鍋の下で火を灯した。
風は弱まり、雪はまっすぐに空から地面に沈んでいった。火の勢いを保ちながら、僕は鍋に満たされた水を見つめていた。やがて、鍋の上にだけは雪が沈まなくなり、ゆらゆらと煙が立ち始めた。
雪が沈まない領域は次第に高くなった。僕は服を脱ぎ、そっと足を鍋に伸ばして踏み込んだ。鍋の底の熱さで飛び跳ねて、あわてて足を引っ込めた。
再び服を着ようとしたが、裸のまま家の中に入った。薪と紐を用意した。寒さに震えながら薪を薄く割り、紐で結わえた。それをゆっくりと鍋の底に沈めながら、僕は再び鍋の中に足を踏み入れた。
雪が降る中、お湯の中に体がゆっくりと沈んでいく感覚を僕は噛みしめた。ゆっくりと息を吸って吐くと、吐く息も暖かかった。お湯の中であぐらをかいて、空を見上げた。空は灰色だった。立ち上る煙が、降り続ける雪を包み込むように溶かし続けていた。
こんな感覚を味わうことが出来るなんて。僕はこの時のためにずっと頑張ってきた。こんなに寒い雪の中でも体中が暖かいのは、今、まぎれもない。誰も知らない。
誰も知らない?
そうか。もしこれを村のみんなに教えたら、きっと喜んで真似をするだろう。世の中にこんなに気持ちのいいものがあるなんてきっと驚くだろう。鍛冶屋だけではない。僕がいつも芋を届けるあのおじさんも、僕がしてきたことの意味をやっと理解するだろう。
(十二)
雪で遠くが見えない村の方を眺めていると、草陰から石が転がるのが見えた。転がって出てきたそれは勢いを弱めた後も少し動いていた。
目を凝らすと、それはうり坊だった。体を細かく震わせているのがわかった。そうだ。うり坊をこのお湯の中に入れてあげよう。そうすれば、きっと喜ぶだろう。
僕は鍋の外に這い出ると、そっとうり坊の側に近寄った。うり坊は草の根を掘り起こして何か食べようとしている。裸足でゆっくりと僕はうり坊に近づいた。屈み込み、そっと手を伸ばした時だった。
ブウーッ!
脇の草陰から猪が飛び出した。間合いを捕らえ始める間もなく、僕は猪の牙で脇腹を突き刺された。うり坊はかさこそと足音を立てて草陰に隠れた。
息を吐き尽くさなければ吸うことなど出来なかった。僕は懸命に息を吐き出そうとした。吐き尽くしたと思うや否や、腹からは赤い血が吹き出した。これ以上両足で体を支えられないと気づいた時は、雪の上に横たわっていた。
ドクドクと速く鳴る音が僕の鼓動なのか、突進する猪の足音なのか区別がつかなかった。間近に迫る猪がかすかに後ろ足を引きずっているのが僕には見えた。
猪は僕の体を前足で踏みつけながら尚も牙で食らいついた。息を吸い込もうとしたが、出来なかった。
僕の体から吹き出る血は、かすかに僕の肌を暖めたが、すぐに冷たくなっていった。視界はさらに白さを増した。うり坊が隠れた草陰の緑はもう見えなかった。白い視界はモヤモヤと紫色を帯びていった。猪はもういなかった。
かすかな気力を振り絞って、鍋のある所を求めた。はやる気持ちに反して、見回す場所が移るのは遅かった。ようやく煙が立ちこめる所を見つけたが、それはみるみる内に薄くなった。舞い降りる雪はそれをゆっくりと確実に塗りつぶしていった。
(了)
(四百字詰め原稿用紙で35枚)
雪原の煙 100chobori @100chobori
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