マグノリア

白白河夜船

マグノリア

 兄を殺したので、庭に埋めた。

 別段仲が悪かったわけでもないのだけれど、些細な衝突、些細な諍い、些細な歪みが積もり積もって、壊れかけたテレビに走るノイズのような不協和音が静かに凪いだ日常をざわざわと浸食していた。

「だからお前は」

 どうしてそんな詰まらない一言がきっかけになったのか、自分でもよく分からない。分からないが、兄の声を、表情を認識したあの瞬間、頭の中で何かが弾けて、気づいた時には兄を絞め殺してしまっていたのだ。

 二人ぼっちで住んでいた、広いだけが取り柄の寂しい家の中での出来事である。

 目撃者などいるはずもなく、私は誰に見咎められることもなく、中庭の片隅に深い穴を掘り、兄の死体に湿った土を被せた。


 しばらくして、埋めたところからの芽が生えた。


 一年、二年、三年、四年―――木の芽は健やかに大きくなって、やがてマグノリアの木となった。風が強い晩などに、意味ありげにざわざわ葉擦れの音が鳴る。いつからだろう。その音の中に人の声が、兄の声が、溶け混ざるようになっていた。

「――――。――――……」

 何を言っているかは、判然としない。

 ざわざわというノイズめいた葉擦れの合間に、懐かしい声音が漠然と聞こえる気がするだけなのだ。恨み言を呟いているようにも思えるし、生前通り、取り留めない世間話をぼんやり垂れ流しているようにも思える。あるいは全て、単なる空耳なのかもしれない。

「―――、―――――……」

 空耳である可能性の方が高いだろう。

 それでも私は、夜、葉擦れの音が鳴る度に兄の声を聞こうと努めた。衝動的に殺したけれど、殺したことに後悔などないけれど、だからと言って罪悪感や兄に対する情がない、というわけではないのだ。怒り、憎しみ、妬みに嫉み―――負の感情と親愛は案外普通に共存する。時折、私は堪らなく、兄と何かしら話してみたい気持になった。


「―――――――――――」


 ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。

 ノイズ混じりの囁きが夜闇を震わす。

 春の、嵐の、夜だった。

 ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。葉擦れの音に誘われて庭へ出ると、風が激しく吹き荒ぶ中、雲間から覗く朧月に照らされて、マグノリアの白い花が揺れていた。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。吹き千切られた花が頬を打つ。甘い香りが、刹那、鼻腔を擽った。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。マグノリアが、兄が何かしきりに呟いている。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。押し殺した笑いが葉擦れノイズに混じり、理由の分からない苛立ちと微かな軽蔑を含んだ冷たい声が、不意にくっきりと私の耳に届いた。

「だからお前は」

 いつか聞いた言葉である。

 瞬間、血が上って頭が真っ白になり、私は納屋へ走って埃を被った古い斧を引っ張り出した。マグノリアの幹に錆びついた刃を叩きつける。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。マグノリアが苦悶の呻きを洩らす。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。ふと、あの時のことを思い出した。掌中で喉が痙攣し、苦しげな声が唇から零れ、しかし首を絞められながらも兄は嘲るように、ともすれば面白そうに笑っていた。今もきっと。


 気づいた途端、何だか馬鹿馬鹿しくなってしまった。


 斧を放り出し、錆が付着した傷口をなぞる。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。マグノリアが何事か囁いている。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。私は唇の端を少し歪めて、納屋から今度は木箱と頑丈なロープを持ち出した。手頃な枝にロープを結び、首を通して木箱を蹴る。暗転。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。………





 ぎぃ。





 あれからずっと、私はマグノリアの木陰で揺れている。

「だからお前は」

 どこか不満げな葉擦れの音を聞きながら。



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マグノリア 白白河夜船 @sirakawayohune

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