第10話 さらわれた鞠子
着物の袂に挟まっていたアジサイの花弁が、はらりと落ちた。
樹丸が屋敷の惨状を目の当たりにした頃、鞠子は入れ違うように山を下ろされて、隠されていた小船に放り込まれたところだった。
自分を拐かした賊に、鞠子は心当たりがない。わかるのは手練れだというくらい。突然押し入ってきて、守ろうとしてくれた家人をあっという間に制圧してしまった。
賊には、結界使いもいたようだ。
鞠子は詳しくないので「結界術を使ったらしい」というがわかっただけで内容まで見抜くことはできないが、穢塚で外部に穢れを漏らさないようにしていた要領で音やら匂いやらを防いだのだと思われる。だから里の者たちが拉致に気づかず、誰も助けに来れなかったのだろう。
もっとも、そんな予想は後々に落ち着いてから立てられたもので、この時は怯えることしかできなかった。
「なんで縛ってるんだ」
船番をしていた男が、鞠子が手足を縛られ猿ぐつわをされているのを見て非難がましい声でなじった。
「丁重に扱わないと神祇伯さまからお叱りを受けるぞ」
「悲鳴を上げられたんだから仕方ないだろう。狼どもに気づかれでもしたら面倒なことになる」
実行犯は悪びれもせず、鞠子を拘束したまま船底に横たえた。
人に担がれ運ばれるのとはまた違う、水の上のぐらつき。岸から離れ、櫂を使って流れに逆らう音。樹丸との間に芽生えかけていた絆が引き裂かれていくのを見せつけられるようだ。
「……ん、ンぐ」
漏れる嗚咽に、賊は気遣う素振りもない。
日除けもない小船で、夏至もほど近い太陽に焼かれながら宇治川をさかのぼる。桟橋までたどり着いたら、牛車に乗り換えてガタゴトと北上。羅城門をくぐると京の都を囲う結界を通過する霊的な感触があって、途端に大気中から穢れが網で濾したように失われて清浄になる。
両手で数える程度の日にちしか離れてなかったはず都が、もう数年ぶりのような感覚だ。
大勢の人々が行き交い、砂ぼこりが立つ。笑ったり怒鳴ったりがひっきりなしに飛び交って、獣の群れが騒いでいるみたいになっているのを聞きながら、鞠子を乗せた牛車は見知らぬ屋敷へと入っていった。
知らない屋敷、というのは厳密には不正確か。たった一度だけ来たことのある、嫁入りの際に着飾られた場所だ。
あの時と同じように無表情の女房五人組が待ち受けており、連れ込まれた鞠子から瞬く間に着物を剥ぎ取ると、髪を梳き、手足の縛られた痕を蒸した布で温める。新しい着物、化粧にお香と、“石清水の狼”の里にいた名残は容赦なく奪い取られてしまう。
そして着せ替えが一通り終わった頃、慌ただしく一台の牛車が乗り付けてきた。そそと退室する五人の女房に替わって現れたのは、鞠子の父だ。
「おお、鞠子。よくぞ戻ってきたな」
「お父さま……」
当惑する鞠子に、父は満面の笑みに両腕を広げて歩みよってくる。
「嫁入りの替え玉などさせられて大変だったろうが、もう大丈夫だ。後で神祇伯様に御礼申し上げるのだぞ」
「それは、どういうことですか? これはいったい……」
「なんだ、聞いていないのか?」
父は不可解そうにしつつも、溢れんばかりの上機嫌を隠しもせずに、鞠子の対面に腰を下ろす。
「神祇伯様が、お前を連れ戻すと決断なさったのだ。失って初めてかけがえのない妻だと気づいた、とな」
「そんな……で、でも、それでは“石清水の狼”との契約はどうするのです?」
「ワシが知るわけがないだろう。おそらく代わりの嫁を見繕うとか、そんなところではないか? なんであれ、お前の妻としての立場は保証してくださるとのことだ。なんの心配もない」
「代わりの……そう、ですか……」
消え入りそうな声で、鞠子はうつむいてしまった。
代わり。
そうか。
もう別の女性が。
だったら自分は、もう。
頭の中が水没したみたいに重たく、ぼんやりとする。
白粉を塗られていても明白なほど顔面蒼白となる鞠子を、しかし父は察しもせず朗らかに肩を叩いてきた。
「嬉しかろう嬉しかろう。神祇伯様は今、お勤めに当たられていてな。なんとお前にも同席してほしいとおっしゃっているのだ。これほど名誉なことはないぞ。あるいは正妻の座すら手に入るやもしれん。さあ、急いで向かうとしよう」
喜ぶに違いないと決めつけているのだろう。辺境から都へ帰ってこれた。権力者の妻に返り咲き、以前よりもずっと寵愛してもらえるのは間違いない。なるほど、こんなに光栄な大団円はそうそうない。
ついぞ娘の心境を理解することなく、父は鞠子の手を取ると力任せに立たせて牛車へと連行した。
『あんたは、どうしたい?』
引っ張られながら、再び思い出されるのは樹丸の言葉。
結局、答えを出すことができなかった。急かされなかったというのもあり深く考えようとせず先送りにしていたら、知らないうちに選ぶ権利を奪われていた。気づいた時にはもう、他の選択肢は埋め立てられて後戻りする余地など残されていない。
ほんの数日でこんなにも大きな存在になっていたと知ったのは、すべて失った後だった。
(こんなことなら、ちゃんと言っておけば……)
後悔は先立たず、悲嘆に暮れる心に差す光はどこにもない。
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