第4話 初動捜査

 被害者の身元は、すぐに分かった。

 所持品のバッグの中から、

「相沢つかさ」

 と書かれた運転免許証と、K大学の学生証が出てきた。

 そして、パスケースが別にあり、そこには、デリヘルの名刺があった。そこには、

「いちか」

 という名前で、年齢は19歳と書かれている。

 実年齢は、21歳なので、本来なら、

「年齢査証」

 ということなのだが、

「こういう業界は、これくらいの年齢査証は、当たり前のこと」

 ということを後になって聴いたので、刑事も、

「そんなものなのか?」

 と思い、自分が、本当に風俗業界に疎いということを、いまさらのように思い知らされた気がしたのだ。

 ちなみに、この刑事は、

「樋口刑事」

 といい、真面目な性格ではあるが、一般常識などの知識はそれなりにあることで、彼が「ここまで、風俗関係に疎いとは思わなかった」

 ということで、皆不思議に思っているのであった。

「彼女は、現役の女子大生でありながら、風俗をしているということなのかな?」

 と樋口刑事がいうので、

「最近の風俗嬢になる理由の多くに、奨学金を返すためという女の子が結構多い」

 ということを、オーナーが説明した。

 どうやら、さすがにオーナーともなれば、風俗業界のことをよく分かっているようで、この様子では、

「風俗嬢もかなり知っているのではないか?」

 とも思えた。

 ただ、それが、どこまでの親密さかということまでは分からなかった。

 そもそも、

「そのことと、今回の事件はまったく関係がない」

 ということで、それ以上のことを詮索する気にもならなかったのだ。

 今度は、掃除のスタッフに、

「何かあなたが入った時に、違和感のようなものを感じませんでしたか?」

 と聞いたが、青ざめた表情は、若干落ち着きを取り戻しているようだが、まだまだまともに答えられるとは思えなかった。

「今が無理なら、何か思い出した時にでも、遠慮なく署まで連絡をいただければいいですからね」

 と優しくいうと、ホッと胸をなでおろしたように、肩の荷を落としているようだった。

「そういえば」

 と、思い出したように、スタッフが頭を挙げていった。

「ん? 何か思い出しましたか?」

 と樋口刑事がいうので、オーナーも、興味深げに耳を傾けていた。

「ええ、この事件に関係があることなのかはわかりませんが」

 という前置きをしておいて、

「実は、私が入った時、浴室のお湯が出しっぱなしになっていたんです」

 という。

「私どもは、まず、そっちが気になって、浴室のお湯の線をます止めたわけですね。浴室は入ってすぐの右側にありますからね」

 というので、部屋の構造を思い出すようにしていた樋口刑事も、その話に、

「まさにその通りだな」

 と感じたことで、その行動を言及することはできないと感じた。

「線を止めたあとで、部屋に入ってくると、シーツが床に落ちていたりと、ひどい有様だったので、少し閉口したわけです。もちろん、部屋があれているのは、今に始まったことでもなく、日常茶飯事ですからね。でも、風呂の栓が開けっ放しになっていたこともあって、かなりひどいお客なんだということは、最初から覚悟はしていました」

 という。

「そこで、中までくると、そこには、死体が転がっていたということになるわけなんですね?」

 と聞かれ、

「ええ、まさしくその通りです。私も、しばらくその場に立ち尽くしていたと思います。急いで、内線でフロントに電話を入れましたからね」

 という。

「本来であれば、殺害された部屋で、他の人の指紋はつけておいてほしくはないが、今の話から、最初から風呂の栓をしめたりするのに、手を触れていることから、それもしょうがないか?」

 と感じたのだ。

 しかし、その不安は、すぐに解消された。

 樋口刑事の懸念を分かっていたかのように、

「私たち掃除の人間は、ビニールの手袋をしているので、指紋はついていないと思いますよ」

 というのだった。

「この人は、さっきまであれだけ青ざめていたのに、少しでも落ち着くと、ここまで考えられるんだ」

 ということで、

「想像以上に、普段は冷静な人なのではないか?」

 と感じたのだ。

 風呂の水が出ていたというのは、実に興味深いことだね」

 と樋口刑事は考えたが、元々、

「探偵小説に造詣が深い」

 という自負のある彼は、今まで読んだ探偵小説に思いを馳せていた。

 というのは、

「結構、水道の栓が流しっぱなしになっていた」

 というのが使われていたということを思い出していたのだ。

 それがどういうことなのかというと、

「密室トリックなどの中に、機械的なトリックとして、木片にひもを結び付け、水を出しっぱなしにすることで、その勢いで、扉の閂を下すなどという、トリックが使われていた」

 というのを思い出したのだった。

 そもそも、今回の事件で、

「密室トリック」

 というのは、まったく関係がない。

 表の扉は、オートロックであるわけで、昔のような、

「閂」

 を使う密室ではないので、もしこの事件に、

「密室トリックがかかわっている」

 としても、

「水道の栓が開きっぱなす」

 というのが、密室トリックに関係があるとは言えないだろう。

 それを考えると、

「今のところ、せっかくの思い出してくれたことであるが、事件に直接関係があることなのかどうか、本人が言っていたように分からない」

 ということであろう。

 今回の事件において。

「そもそも、被害者がデリヘル嬢」

 ということで、樋口刑事としては。

「あまりよく知らない業界での事件」

 ということから、

「難しい事件だ」

 と、勝手に思い込んでいた。

 そもそも、

「被害者がデリヘル嬢だ」

 というだけのことで、犯人の動機に、

「デリヘル嬢」

 ということがかかわっているのかどうかも分からない。

 かしこい犯人であれば、

「捜査のかく乱」

 ということで、殺害現場をラブホテルに選ぶことで、

「デリヘル関係による殺害」

 と事件を限定させようとすることくらいは、十分に考えられることであった。

 ただ、それも、

「思い込みは禁物」

 ということであり、樋口刑事も、十分すぎるくらいに分かっている。

「今までに、どれだけの犯罪捜査をしてきたか」

 ということであるからだ。

 そして、掃除スタッフの話からは、それ以上の思い出したことで気になることはないということであった。

 樋口刑事は、鑑識さんのところに行って、

「今分かっていること」

 ということを聴きに行った。

「いかがですか?」

 と聞くと、

「そうですね。死因は絞殺ですね。ここに締められた跡があります」

 ということであったが、

「凶器は?」

 と聞くと、鑑識は、黙って首を横に振った。

 どうやら、この部屋から発見できなかったということであろう。

「ネクタイのようなものなのかな?」

 と聞くと、

「そうかも知れないですね」

 と、鑑識もハッキリと言及できないようだった。

 実際の凶器がそこにはないのだから、鑑識も断定的なことを言えないということになるのだろう。

 それを考えていると、鑑識が、

「この断末魔の表情は、かなり苦しんでいるといえると思います」

 という。

「ということは、犯人が、下手なくせに、強引に殺害を試みているということか、それとも、故意札するのに似合わない凶器を使ったということになるのかな?」

 というので、

「おそらくそんなところではないでしょうか?」

 と鑑識も同じ意見のようだった。

「それにしても、凶器をどうしてそのままにしておかなかったのか?」

 と樋口刑事が言った。

「だって、考察であることは歴然としているわけで、それをいまさら持ち帰るには、何か理由があるのではないかって思うんだよね」

 と、樋口刑事は続けた。

 その理由は、正直分からない。

「今の段階で分かれば、すごい」

 といってもよく。

「もしこれが、事件の核心をついているのであれば、ある意味、そこで事件が解決するということもあるわけで、それこそ、スピード解決の記録更新になるかも知れない」

 ともいえるだろう。

「事件というのは、そんなに簡単なものではない」

 ということで、それが、

「殺人事件ともなると、なおさらだ」

 ということになるだろう。

「結構部屋が荒れていますが、これは、抵抗している間に、こんなになったんでしょうかね?」

 と聞くと、

「そうかも知れないですが、少し気になるのは、ベッドの上に、脱いだ浴衣があるということなんですよね」

 と鑑識が言った。

「どういうことですか?」

「さっき、掃除の方から話を聞くまでは、疑問はなかったのですが、お湯が出しっぱなしになっていたということだったでしょう?」

 という。

「ええ、そうですね」

「それがおかしいんですよ」

 というので、

「何がですか?」

「いえね、浴衣が置いてあるということは、着ていた浴衣を脱いだということですよね?」

「ああ、そういうことになるんだろうな」

 と、樋口刑事はまだ分からないようだった。

「浴衣を脱いだということは、ここで裸で行為をしたすぐではないということで、当然考えられるのは、風呂に入って、浴衣を着たということですよね? つまり、そう考えると、お湯が出しっぱなしというのは、おかしいと思いませんか?」

 ということであった。

 さすがにそこまで聴けば、樋口刑事にも、理屈が分かった気がした。

「なるほど、一度風呂に入ったのであれば、お湯を出しっぱなしにするということはおかしなことですよね?」

「ええ、そうです」

 というので、

「ということは、ここに犯人の何らかの意思が働いているということになるのかな?」

 と考えられた。

「いや、被害者の意志が働いていたのかも知れませんよ」

 と鑑識が何気なく口にしたが、そのことも、樋口刑事には、どこか引っかかっている気がしたのであった。

「この鑑識も、さすがというか、かなりの現場の場数を踏んでいるということか?」

 と考えた。

 樋口刑事は、刑事としては、自分では。

「まだまだ若手だ」

 と思っていたが、年齢的には30代後半ということで、

「中堅」

 といってもいいだろう。

 現場経験もそれなりにあるので、今までの事件でも、

「樋口刑事の閃きによって解決した」

 という事件も少なくなかった。

 警官の中には、

「樋口刑事の推理力には感銘を受ける」

 という人も結構いるようで、樋口刑事も、その自覚というものはあるようだった。

 しかし、今回のような、

「ラブホテルが犯行現場」

 ということであったり、

「被害者が風俗嬢」

 というのも初めてで、最初から、

「雰囲気にのまれているように思えて仕方がない」

 といってもいいだろう。

 だが、樋口刑事にとって、意表をつくことが多いことから、

「どこか、事件はすぐに解決するのではないか?」

 という考えがあるのを自分でも分かっていた。

 ただ、それは、錯覚でしかないということも分かっていて、それだけ、

「事件に呑まれている」

 ということになるのだろう。

「異様に見える部分が多い

 ということで、それが、

「犯人による欺瞞のようなもの」

 と考えることで、

「策を弄する人間は、その分、どこかに落とし穴がある」

 ということで、その落とし穴の存在を期待しているところがあるということになるのだろう。

 しかし、そうは思っても、この状況だけでは、分かることは限られている。そもそも、被害者の人間関係も分かっていないので、

「じゃあ、誰が犯人か?」

 などということが分かるわけもない。

「動機がハッキリしない」

 ということだ。

 だが、

「被害者がデリヘル嬢だ」

 ということから、どうしても、

「デリヘル嬢である」

 ということが、

「直接的に動機に結びついている」

 と思わせ宇に十分であった。

 もちろん、

「デリヘル嬢だから殺された」

 といううのは偏見でしかないが、そもそも、風俗というのが、

「お金を払って、その人の時間を買うことで、そこで疑似恋愛を楽しむ」

 というのが風俗だと認識している。

 それに大筋で間違いはないだろう。

 だから、

「勘違い野郎がいて、その子との疑似恋愛を、本当の恋愛だ」

 と思い込むことで、

「結局は疑似恋愛だ」

 と分かった時、

「可愛さ余って憎さ百倍」

 というべきか、明らかな殺意というものが芽生えてしまうというのが、当然のように思えるのであった。

 ただ、そうなると、

「ここまで謎を残すような殺害をするだろうか?」

 と思った。

 確かに。

「疑似恋愛への勘違い」

 ということであれば、

「手の込んだ殺害を考えたりはしないだろう」

 と考えるが、果たしてどうなのだろうか?

 といっても、今回の殺人が、

「完全犯罪というものをもくろんでいる」

 とも思えない。

 あくまでも、

「よく分からない、疑問に残ることが多い」

 ということであって、そこに、

「策が弄されている」

 という感覚がないのであった。

 それを考えると、

「犯人のプロファイルが現れてこない」

 ということになる。

「犯人がどういう人物なのか?」

 ということから、動機であったり、そこに現れる状況から、犯人を限定するというやり方が、

「犯罪捜査におけるプロファイル」

 ということになるのだろう。

 実際に、

「被害者のこともよく分かっていない」

 ということであり、

「犯人にたどり着くものが、この状況ではまったく分からない」

 ということだ。

 犯人の顔も、フロントは見ているわけではない。

「うちは、フロントからは、客の顔は見えないようになっている」

 ということで、逆にいえば、

「犯人も、フロントの人の顔が見えない」

 ということになるというわけである。

 これは、被害者にしても同じことであり、

「被害者がどんな人だったのかというのは分かりませんね」

 ということになるだろう。

 もし覚えていたとしても、平時の顔ということなので、最後の断末魔の表情からは、想像もできないに違いない。もし確認するとすれば、

「後から、防犯カメラの映像を見る」

 ということしかできないだろう。

 もちろん、防犯カメラは捜査資料として、提出された。

「フロントのところの防犯カメラ」

 そして、

「三階の305号室の入り口が確認できる」

 という位置の防犯カメラであった。

「それを確認することが、先決だろう」

 ということであった。

 しかし、それが、実は、

「大きなミスにつながることになる」

 ということをまさか、夢にも思わなかったということで、ただ、それが、

「けがの功名」

 ということも分かるということだった。

 初動捜査ということでは、

「これくらいのところ」

 と言ったところであろうか。

 その場は、とりあえず、警官に任せて、樋口刑事は、署に戻ることにしたのであった。


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