コーヒーと八徳

明里つゆり

コーヒーと八徳

 ブラックコーヒーは飲めないと思った。私がちょうどミルクに手を伸ばしたとき、彼は突然話し出す。

「すみません」

 私は彼の話を聞くために手を引っ込めてカップの取っ手に指を戻した。雰囲気はいい感じの喫茶店だった。ジャズじゃなくてクラシックがかかっている。趣味がいい。今はショパンがかかっていた。

「今日、何を話したらいいかわからなくて」

 私は彼の顔を見ることを面倒くさがって、コーヒーの水面を見ていた。茶色と黒の合間の水面に私の瞳が鮮明に写る。しかし朝投げやりにしたアイシャドウはよく見えなかった。私はわざとため息をついて、ぶっきらぼうに返した。

「私も、何を話したらいいか分かりません」

 彼はまた黙り込んだ。その隙に私はミルクを取って、コーヒーに流し込んだ。この店は紅茶を置いていない。カフェインレスのコーヒーもない。コーヒーかジュースしかない不親切さのせいで私は好きでもないコーヒーを頼んでしまった。カップを持ち上げて一口飲むと、少しえぐみのある渋さが口に広がった。思いのほか渋い。まずいという顔はできなかったが、彼も一口飲んで慌てて砂糖を足していた。

「ほら、うちの母強引だから、断っていいんですよ。今日が初めてじゃないですし」

 彼は砂糖入れをしめながらそう言った。

「あなた、いくつなんですか」

 私は最大限の嫌味のつもりで言ったが、彼は質問されたことにほっとして答えてきた。

「二十四です」

「じゃあ少し前まで大学生だったの?」

「ええ、はい。僕、浪人したんで今、大学院一年目です」

 私はあきれた。

「社会人でもないのに、結婚したいの?」

 彼は首を横に振る。

「母がそうしろって言ってるだけですよ」

 私は砂糖入れを自分側に持ってきて、中にあった小さじのスプーンで三杯砂糖を入れて、元の場所に砂糖入れを戻す。ティースプーンでわざと音を立てながらコーヒーをかきまわした。

「じゃあ、お断りします。三十になる行き遅れの女にはもったいないもの」

 彼は困って、自分のコーヒーを見つめていた。ゆらめいている瞳ははっきりとした黒色で、その色と同じ色の眼鏡をかけていた。白いTシャツの上に一応着たジャケットはおとといジーユーで見た気がする。大学院生という肩書にぴったりなシックでいて安っぽいいで立ちだった。

「でも、せっかく」

「もったいなくないですか。二十四で六つも上の女とこんなひなびた喫茶店で話すなんて」

「いえ、あの。僕は」

 そう言ってその真っ黒な瞳がひどくゆがんだ。私はこのばかげた時間をはやく終わりにしたかった。ついでにコーヒーも飲み残したい。こんな渋いもの、飲めないのだ。

「ああじゃあ、大学院では何をしてるんですか」

 私は少し問い詰めるように質問する。難癖をつけて帰ろうと思ったのだ。

「江戸文学を専攻してます」

「ふうん」

 正直興味はなかった。ただ、江戸文学が何なのかいまいち分からず、難癖のつけようがない。

「僕の大学の卒論は南総里見八犬伝の八犬士はどこを旅したかなんですけど、比較的関東にかたまっていて。いや、南総自体が今の千葉なんで当たり前なんですけどね。さらにいえば、里見氏自体は上野国、今の群馬にルーツがあるんです。そして物語のなかにも上野国が出てきて」

 彼は突然、早口に話し始めて、私は慌てて話を止めた。

「ごめん、ナンソウ…… なんだっけ、ハッケン? ってあれ。むかーしタッキーがしていたドラマのやつ?」

「ええ。最近も映画化されたんですよ。主役は作者の滝沢馬琴なんですけど」

「どういう話なの?」

 私はそのナンソウなんとかという話をよく知らなかった。もしかしたら日本史で名前くらいは覚えるべきだったかもしれないが、正直捨て教科だった。私は彼がその江戸時代の物語のあらすじを話しはじめる前にコーヒーを一口飲んで、渋いと後悔した。なんでコーヒーが渋いのだ。せめて苦いであってほしいのに。


 ショパンはいつの間にかリストに変わっていて、彼の熱弁は三十分以上続いていた。しかしあまり物語は進んでいないようで、今はゲンパチという男が、ダイカクという男に会った話をしていた。どうもハッケンシは全員男のようだった。だから、「という男」しか分からないのはかなり話の筋が分っていない。

「大角は、八犬士のなかで唯一の妻帯者なんですよ。珠を妻のヒナギヌは飲み込んでしまって」

 そうか、今まで出てきたハッケンシはみんな独身なのね、なんて思った。要するに独身男性の英雄譚なわけか。このダイカクという男以外。

「待って。これでハッケンシって何人目?」

「七人目ですね。でも小文吾の甥っ子が出てきたでしょう。神隠しにあった子。あの子が最後のひとり犬江親兵衛ですから、ここで八犬士はすべて登場します」

 私は主人公のシノだけは覚えられたが、それ以外はちんぷんかんぷんだ。シノは可愛い名前だなぁと思っていたが、江戸時代でもやはり女の名前のようだ。男の子を女の恰好で育てると丈夫になるという言い伝えで育てられ、幼いときの名前も女の子の名前でつけられたと言っていた。ただ、そのシノが何をしたのかも、もう情報が多すぎてよく分からない。私は彼のカップのほうに手をのばして制止する。

「ふうん。ここまでにする。わかんないや。江戸時代の人はこれが楽しかったわけ?」

 決してカップには手を触れず、彼が話すスピードを落としたところで手を戻した。しかし彼の興奮はまだ続いているようで、その瞳はどんよりした黒からやや茶色がかかっているように見える。差し始めた西日のせいかもしれない。私は窓のブラインドを下げたいなと思う。そうしてくれる店員を探す。そうすると十六時きっかりに店員が端の窓からブラインドを下げている姿を見えた。ちょうどいい。

「大ヒットしました。しかも長期連載。元々中国の水滸伝から多く影響を受けてますからね。こういう系の話、庶民は好きだったんでしょう」

 そこで店員がやってきて、ブラインドを下げて去っていく。全体にダークブラウンと黒のシックな店内に、今はまたショパンの革命が流れていた。そんな店でこんなガチャガチャした江戸のファンタジー小説は似合わないと、たぶんあの店員だって思っている。


 私はつまらないという姿勢は変えずに、彼に聞いた。

「で、なんで令和の大学院生がそれを好きなわけ?」

 私はその相変わらずキラキラ輝いた目をあきれながら見る。彼は恥ずかしそうに、話し始めた。

「父が好きだったんですよ。八犬士の持っている珠に入っている文字は仁義礼智忠信孝悌。儒教における八つの徳です。それが大切だと父はよく言っていました」

「お父さんは儒教の学者か何かなの?」

 彼ははにかんで、首を横に振る。

「いいえ。ただの歌舞伎好きでした。八犬伝は歌舞伎の演目にもなってるんですよ」

 彼の笑顔は私の脳を焼いていた。

 ハッケンデンは興味のない話だったが、私は彼が話す姿がずいぶんよく感じた。よくとはなんだろうか。この冴えない青年のどこもよくない。どこもいいはずがない。それでも彼の話は面白かったと思う。内容は半分も分からなかったが。


 彼はその瞳のまま、私に言う。

「話過ぎましたね、すみません、つい。今度は聞きます。何がお好きですか」

 そう言われた時、私の手には何にもないことに気づいた。この手には何もない。何か人に話せるような知識も熱意も、気合いもない。彼に向けていた冷笑が私をもっと鋭く揺さぶった。

 私の芽はずっと凍っている。誰かに対しても、何かに対しても。小さなころから冷凍されてもうかすかに動くことも、芽吹くこともないと思っていた。今、それが少し動いたのだ。それは震えだった。かすかな、でも確かな震え。溶かされてしまって、動くべきものが動こうとしている。

「ねぇ、あの。私って、そこまで熱中するものはないの」

 私の声は少し上ずった。手先は震えていた。それを隠そうとカップをぎゅっと握る。

「昔からよ。最近はその辺の百均でも推し活コーナーなんてあるけど、推しなんて人生でできたことないし、恋だって全部お芝居と一緒と思ってた。思ってたら友達たちはそれにのめりこんで、あの人のこと好き、でも嫌い、喧嘩した、仲直りした、結婚したい、もらった指輪が安い、結婚式するから来てとか言ってきて、追い越されたの」

 私は人生でこれまでないくらい一気に話す。ポロリポロリと自分が溶けて剥げていく気がした。それでも止まらなかった。

「子供ができた、子供が風邪ひいた、旦那と喧嘩した、家族旅行に行った、子供の運動会に行ってきた、大変だけどすごく幸せ、でも愚痴は聞いてよね、って、勝手にみんな追い越して、勝手にのめりこんで、勝手に愚痴って。私はずっとひとりよ。だってこんなお見合いですら、あなたを見下してた。ごめんなさい」

 言葉は加速する。彼がハッケンデンを語るくらいのはやさで私は話していた。

「だからその、あなたが話すハッケンデンってやつの同じ熱さで、私が返せるものはない。正直、ハッケンデンの話は半分も分からなかった。でもね、あなたがそれを好きだということはわかった。その好きは私にはないから、あなたってすごいのよ」

 あなたってすごいのよ、と言われた彼はぽかんとしていた。嬉しそうでも恥ずかしそうでもなかった。はじめてほめられた人間って喜ぶより驚くのかもしれない。そんな顔をしている。

「で、聞いてみたいんだけど、ハッケンシって最後の人以外独身なんでしょ。最終的に結婚はどうなるの?」

「えっと大角の妻、ヒナギヌは作中で死ぬんで大角も作品の終わり段階では独身なんですよ」

 私は思わず、口をはさんだ。

「さっきから黙って聞いていれば、ハッケンデンは女の人が死にすぎじゃない。シノの婚約者も、なんか途中で出てきた誰かの妹も死んじゃうじゃない」

 彼は気まずそうに言った。

「ええまぁ、でも浜路はええと。それはまたいつか。僕が好きな話は、ええと八犬士は里見氏の八人の姫と簡単に言うとくじ引きでカップリングされて結婚するんです」

 私は唖然とした。お見合以下である。たぶんそのころは姫と結婚する英雄の話としての大団円だったのだろうが、今の価値観では、非人道的すぎる。しばらく言葉が出てこなかった。この場でいくらなんでも人権無視でしょ、なんて言っても書かれたのは江戸時代、作品の舞台はそれより前らしい。しかもファンタジーだ。

「まさか、それでせめてお見合い結婚が夢だったなんて言わないわよね?」

 私は嫌な予感の芽をつんでおきたかった。「違います、ただ母が」そう言ってくれたら、私はこの人を信用しないですむ。しかし彼は恥ずかしそうに微笑んだ。そしてうなずいた。

「ちょっとそういうのがあって、母にお見合いできそうな人がいるかお願いしてました」

 彼の芽はたぶん成長した。若葉くらいは生えているかもしれない。そして私はこの人を信用するしかない。

「私はくじ引きで選ばれないタイプの女なの」

 私はコーヒーを一気に飲み干した。底のほうは渋さに苦さもブレンドされている。まずい。

「あの、違います、すみません。八人の犬士に八人の姫なので誰も余りません。僕もひとり、あなたもひとりじゃあないですか」

 彼は真剣にそう言った。私は大笑いした。でも、多分ショパンに紛れてほかの客には聞こえないだろう。

「せっかくならさっき言っていたドラマ版八犬伝のDVD、うちにあるんで観ません?」

 彼は追い打ちをかけるように提案してくる。あたかも素敵なディナーでもどうですかと言うように。私はほんとうに興味がない。ハッケンデンには。でも、観てみてもいいかなと思った。彼という面白い人が、私の決して芽吹くことのなかった芽をむりやり開かせようとしているのだから。彼はそんなことは知りもしないで。だから彼がハッケンデンを観て楽しんでいる様子にはすごく興味があった。

「今日は嫌よ」

 私はそう言うと彼はしょんぼりする。よく見れば子犬みたいで可愛いかもしれない。

「今度会ったときなら」

 私はそう言って、立ち上がる。彼のカップもいつの間にか空になっていたのだ。

「ただこのあと、もっと渋くないもの、飲まない?」

 彼は迷うことなくうなずいたあと、「女性と一緒なら行ってみたい場所があって」とスマホを取り出して、可愛いミルクティー専門店を見せてきた。タピオカが入っているやつだ。聞いてみると、その店とハッケンデンは関係ないらしい。


 終わり


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